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読書計画 読書計画について

そんな本があると知っていても読んでいない本があります。題名と簡単な内容だけはなんとなく知っているつもりで、わざわざ読もうと思わなかった本です。あるいは映画などで話は知っているので、単にその原案としてしか考えない本もあります。例えば『風と共に去りぬ』という1939年の有名な映画があります。原作はその3年前に出された大変売れた小説でした。映画も長いものでしたが小説は非常に長いので映画で満喫できればわざわざ読まれなくなっただろうと思います。あるいは要約本が出されたかもしれません。最近になって新しい翻訳が出た時も自分は読まないだろうと思っていたのですが、南北戦争に関するものを調べるついでに、ふとした拍子に読んでみました。文庫本で6冊もありました。もちろん映画には出てこない部分が沢山あって読み応えがありました。南北戦争と戦後の混乱に関する詳しい話は主人公の話とは別に並行して語られていました。改めて読むとただの流行り物ではなかったとわかります。歴史的な背景の物語と主人公の女性の物語が二重に展開するために重厚な作りになっていました。本当に一人で書いたのか疑わしくもなるものでした。この長い小説が流行った時に本当に全部読まれたのかどうか疑問になりました。最近の流行り物では『ハリーポッター』も映画ができると本の話題は消えていってわざわざ読む人がいなくなりましたが、本の方は一作ごとに長くなるのに内容は凝縮されていくという不思議なものでした。不安定な創作からあたらしい世界が生み出されていく過程が想像できて、それ自体が物語として見えてくるものでした。このように有名な流行り物の本でも実際には読まれていないのかもしれないと思えます。しかしそれも錯覚で、本を読むと世間で知られているようなものに対する距離感がなくなり、個人的な埋没感によって自分だけが知っているような気になるのかもしれません。他にも流行り物では『ハンガーゲームズ』とか『His dark materials』などが映画の原作でした。『火星の人』などというものもなぜか読みました。火星に置き去りになって残ったものを使ってなんとか生き延びて救出される物語でしたが原作では技術的な説明が非常に詳しく書かれていました。いずれも翻訳で読んだので本当に原作を読んでるとは言えないかもしれません。結局は読んだというのはどのような事態なのかわからなくなります。読んだとはどのようなことなのかをさらに考えてみます。

いつか読むつもりで買っておいて読んでいない本があります。古典文学と言われるようなものはだいたいこれです。何度も読んでいなくてはいけないと思いつつ、途中で中断するか全く手をつけていないというものです。重要な本は買っておかなければならないと思うのと、買っておかないとすぐ品切れになってしまうという問題があります。文庫本で品切れになると図書館にもないので困ります。最近ではちくま文庫で出ているディケンズの翻訳を買っておけばよかったと後悔しています。『我らの最高の友』とか『骨董館』などは他では出ていません。ちくま文庫ではドン・キホーテの偽の続編が出ていたのですが買いそびれてしまいました。ただし品切れでもなんとか間に合って買っておいたものがあり、この場合はかえって安心して手をつけずに置いてあったりします。だから結局は読んでいない本です。手元にあるか、なくてもいつでも読めるという場合には、かえって実際には読まなくなるかもしれません。電子書籍でただで読めるものが増えています。夏目漱石も大菩薩峠も半七捕物帳も全部読めます。ローマ字圏のものなら特に英語の古いものに関してはほとんどグーテンベルク計画というところで読めます。あまりにも手軽なのでかえってじっくり取り組もうという気が起こらないのかもしれません。もちろん読書というのは時間を要するので本を買うのとは別の贅沢行為です。むしろ買うだけよりも読む方が贅沢で後ろめたいところがあるのかもしれません。だから買ったけれども読んでいない本があるというのは、たとえこっそり読んでいたとしても、それを隠して堂々と主張して良いのかもしれません。

読んだような気がしていても読んでいない本があります。小説などはわざわざ繰り返し読まずに1回読んだら終わりだと考えていて読んだ気がするものには改めて手をつけないだろうと思います。要約版や抜粋版だとか第1部だけ読んでいて全部読んでいないとか少しだけ読んで様子がわかったからもういいと判断していたとか色々あると思います。どんな読み方をしたのか忘れてしまい、読んだという意識だけが残ったという事態です。別にそれでも読んだと思っていていいのであり、読んだというのは実際には全てその程度のものです。改めて読む場合には、過去の読書は消えていったほうが良いのです。例えば『ドン・キホーテ』という小説は正編が文庫本で3冊あり、それだけでも長いのですが、主要な話の中に挿話が入ってきて全体としては重層的な構成になっています。正編を読めばそれでじっくり読んだことになります。しかしセルバンテス本人の書いた続編があり、それも文庫本で3冊あります。続編には『ドン・キホーテ』正編を読んだ貴族が登場し、騎士のつもりになっているドン・キホーテを本物の騎士として扱い、本人がその期待に応えて改めて騎士を演じるという内容になっています。サンチョ・パンサが実際に約束された島の領主になり意外に優れた統治者の役目を果たす話もあります。さらに本物の続編が描かれる前に出されてしまった偽の続編が偽物である事をドン・キホーテ本人が証明するために全く別の経路をわざわざ辿るという物語になっています。この続編が『ドン・キホーテ』という作品の画期的なところなのですが、話題としてはあまり出てきません。続編まで読んでいる人が少ないからでしょう。また『ロビンソン・クルーソー』という小説はそんなに長くないのですが、無人島に流れ着いて命を助けた現地人のフライデーを従僕にしてなんとか自給自足で暮らしを立てて何年か後に救出されるという話として知られていますが、これは第1部までです。第2部では無人島を再び訪れて、難破した船から救出した人たちを入植させたり現地の住民と戦争になったりフライデーの父親が登場したりなどいろいろな話が続きます。一旦故郷に帰ってもまた冒険がしたくなり陸路で様々な事件に会い、東南アジアで日本人から買った船が盗難船だったために海賊として追われたり、中国に渡ってしばらく過ごしたりして、最後は陸路でユーラシア大陸を横断して帰還します。このような話はやはり有名なロビンソン・クルーソーの話としては出てきません。第1部しか読まれていないからだと思います。『ロビンソン・クルーソー』にはさらに第3部まであります。これになるともう誰も読んでいません。なぜならば第3部は小説ではなくて思想書になっているからです。実際に読んでみると言われているのとは全く違うというような話は『なぜ古典を読むのか』という本の序文でイタロ・カルビーノが書いていました。ミシェル・ビュトールがゾラのことを何度も聞かれて読んでいなかったのでルーゴン・マッカール叢書を全部読んでみたら言われているのとは全く違っていたという話です。しかしそんなことをいくら言っても仕方がないような気もします。読んでみたら違っているはずなのにわざわざ言われているように解釈を合わせてしまう人もよくいます。翻訳者が意外にそんな解説をしている場合が多いです。細部まで全て把握しているのかと思いきや、価値判断を世間並みに合わせて、特異な部分が突出しているという評価を避けているように見えます。そうなるとわざわざ読んでみるという動機が生まれないのではないかと思います。

読んだけれど忘れてしまい、また読まなければならない本があります。読んだ本は全部覚えているという人もいるようですが、私は忘れてしまうので常に最初からやり直しです。読み直して改めてこんなことも書いてあったのかと驚く正直な人がいます。さらに正直に言えば何度読んでも読んだことにはならないのです。だからといって、あえて読んでいないと常に言い続けるような誠実な人はいるでしょうか。どうしても一通り読んだと自慢したくなって自分でもその気になって読み直そうとは思わないでしょう。何度読んでも新しい発見があるのを喜ぶというよりは、結局何も読んでいないと認めるのを嫌がるのではないでしょうか。また、本は実際に読むと、言われていたのとは全く違うのですが、しばらく経つと言われているような説明がそれに取って代わって、自分が読んだ内容は忘れているのではないでしょうか。そうしないと世間並みの評価に一致できなくなってしまうので、忘れたのを幸いに読んだという中身のない記憶だけを大切にするのではないでしょうか。そうやって世間並みの読んだ人になって、今年は300冊読んだとかという報告が出てきてしまうのです。

結局は何も読んでいません。だから計画を立てなければならないのです。読書の報告は読んだと言ってみても読んでいない人にはどうでもよいものです。内容の紹介や批評があっても、せいぜい読んでみようかと一瞬思うくらいです。


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