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自叙伝

僕が生まれた昭和32年

ぼくが生まれ出てきたのは1957年
ベビーブームの最中!

と、言われても
わからない方が、というより
僕もはっきり言ってどうだったのかな~~って感じ。

それで、当時がどんな時代だったのかひも解いてみました。

4月 熱海にモーテル第1号登場

5月 たばこ自動販売機,大阪に登場。

6月 近鉄,初の冷房特急の運転を開始/全国で流感大流行。学童だけで患者50万5000人,1200校休校。

8月 東京都の人口,851万8622人で世界一。

10月 5000円札発行。
12月 100円硬貨発行/上野動物園にモノレール登場/
NHK,FM放送開始。

この年 東京への憧れから
家出件数過去最高に!!

CMソング流行/ロックンロールが人気

『俺は待つてるぜ』『嵐を呼ぶ男』など石原裕次郎の日活映画人気。などなど

ここで気づくのはやっぱり、東京が何といってもはやり廃りが早いってことでしょうか。

東京周辺区域は何でもが【今でもですが】
速いですが、そのエリアを外すと
かなり差があるように思えますね。

ほかの地域はどうなのかは知らないですが、
(たばこの)自販機・映画館などというものが
出てきたのはいつ頃なのか??!!

自販機というもの、その当時見受けなかったし、
映画館すら、さほどなかったような気がする。

僕がオヤジに連れられて見に行った映画が
小学校4年生くらいじゃなかったなぁと。。。

戦後の混乱と復興も一段落,世の中が

ようやく落ち着き始めた昭和30年代。


アメリカから洋風の生活様式の影響を受け始め、
次々に現れる家電や新製品に、誰もが胸を躍らせ、
活気に満ちてはいたけれど、まだまだ、
その当時の暮らしは楽ではなかった。

というのは、生活様式が変わり始めても、
人々の実入りが少ないため、電化製品などというもの
高くて手が届かなかった。

よく買えて、アイスボックス【当時で言う
氷を使って冷やす「氷冷却方式」木箱のようなもの】、
それとも、井戸があるところでは、夏場は
縄で縛ってスイカや果物を井戸の中に
吊るしたり、ビールや飲み物はたらいに
水を入れて冷やしたりして、そのあと、
たらいは行水に。でも、うちは
ビールなんか飲めるようになったのは
もっと後でしたけどね。

そう言えば、ガスというものが家庭に
普及し始めたのは1953年らしいですが、
まぁ、それもプロパンガスなんですが、
当時、それほどまでにはガスは行き渡っておらず、
大概の家庭では練炭・炭・薪で事を済ませてたようです。

うちなんかも、いつから、プロパンで、
ガス炊飯器を使ってご飯を炊くように
なったのか見当つかないですからね。

食事もなにを食べてたのかさえ分からないくらい。

ただ、記憶に残ってるのは、たまに食事時に
近所の家に遊びに行くと、決まって
コロッケ一つかたくあんが二つ、三つ
といった具合でしたからね。

なんでそれほど生活状況が厳しいかというと、
僕らの住んでた京都西陣周辺区域は
下働きの人が多く、まだまだ機械化
されてなかったため、手で織らないと
ダメだったんで、そんなに量産できなかった。

夫婦二人でいくら織っても、量的にも時間的にも
あまりいい収入には結びつかなかったということです。

30年代初頭、当時で言う「三種の神器」は
各家庭に行き渡るのは30年代後半、
ちょうど東京オリンピック開催時期じゃあなかったかと。

それも、今でいう分割【当時は月賦と
言ってましたね(笑い)】

そうそう、今思い返せば、それと同時に
道路もぼちぼちと舗装され
始めたんじゃあないかと思います。

道もまだまだ舗装されてないし、テレビもまだ、
普及してなかった、そんな昭和30年代中期


道は舗装もされてなかったからかもしれないけど、
僕らは決まって道でめんこ遊びをしてたし、
ある時はビー玉持って神社に行って遊んだりもした。

あの当時、公園はそんなになかったような気がするし、
まぁ、すぐ近くに神社があったから(かもしれない?!)、
そっちへ足が向いたのかも。

そんなごくらいに親たちは、あまり遅くならないように、
「”子捕り”が来るから早う帰ってきいや」と、
言い聞かされたものです。

そんなこんなで、ある年を境に、みんなが
テレビを買い始めたんで、いろんな西洋文化が
人々の中に浸透していくんですが、
まだまだどうして、それほど僕らの周りは
実入りはよくないから、ただ、見てるだけ。

家もそんなに「アメリカのホームドラマ」
のように広くはないから、リビングやキッチン
(まだ、そんな言葉もなかった!!
言っちゃあ悪いけど、あの当時の
家庭では≪台所≫というものは
存在しなかったと。。。
「はしり」で顔洗ったり、料理したりしてたのが普通)

なぜそこまで、状況が悪いかというと、
食べ物もさほど、今のように良い物はなく、
どんなものを食べてたかという記憶すら
ないくらい粗末だったことを覚えてるし、
それだけに身体も弱かった
(毎年のように病気をしてたからね、僕は)。

とにかく、西洋まがいの物たちや、
調味料が出てきたのは30年代後期ですからね。

まだ中期はしょうゆや味の素くらいしか
なかったんじゃあないかと。

ここで素晴らしい躍進を遂げた”日本鋪道㈱”
の記事を取り上げることにします。

日本鋪道㈱も、「荒廃した国土の復興には、
道路の修復が第一」という意志の元、
まずは主要道路の改修に着手。
スコップ1本も入手困難な時代で、
まともな資材や施工機械がない中、
アスファルト代替資材の開発が功を奏し、
業界に先駆けて京浜地区の舗装工事を実施。

その後、名古屋、大阪、仙台でも、業界の先頭を
切って道路工事に着手。
日本経済は順調に回復し、工業国として急成長。
1955年(昭和30年)からは、「もはや戦後ではない」
と言わしめた高度成長期に突入。

自動車台数も150万台を突破、急激なモータリゼーションが押し寄せます。

しかし、日本の道路網は貧弱そのものでした。1956年(昭和年(昭和31年)、高速道路の調査のため来日したアメリカのワトキンス調査団に、「日本の道路は信じがたいほどの悪路である。」「工業国にして、これほど道路を無視した国は日本のほかにない」とレポートで酷評されました。

このレポートが高速道路建設の気運を高め、1957年(昭和32年)に、日本で初めての高速道路となる「名神高速道路」の建設が始まりました。日本で初めての高速道路(名神高速道路山科工区)当時のNIPPO・大型工事に対応するため機械化を進めた時期で、日本鋪道㈱は、その歴史的第一歩となる京都市山科の試験工区の舗装工事を特命で頂きました。その後の指針となる大事な工事です。舗装会社の代表選手としてその重責を全うし、1961年(昭和36年)に無事に完成させました。

そしてもう一つ、特出しておきたい記事があります。
それは、

~~エンジニアの熱く、強い意志~~
北海道の道路建設史上、「金字塔」と呼ばれる事業国道36号札幌-千歳間の道路、通称・弾丸道路の建設

延長34.5キロメートルという大工事を、昭和27年10月の
着工からわずか1年余りで完成させました。

今の技術でも相当困難な工事ですが、なぜ70年前に
これができたのでしょうか。

そこには最新技術の導入と、困難な工事をなんとしても
やり遂げようというエンジニア達の熱く、
強い意志があったからです。

当時、工事の総指揮を執ったのは札幌開発建設部部長だった高橋敏五郎氏。
「北海道舗装史」(昭和57年発行) の座談会で、当時のいきさつを次のように話しています。

「昭和27年8月末、上司から夜中に『これから千歳までの
工事に着手して、来年秋までに出来るだろうか』
という電話がありました。『ちょっと
一晩考えさせてください』と答えました。

1年というのは非常に厳しい。
でも考えてみれば、仕事をやるのは業者です。
われわれは、やりやすい設計を組んで工区割りをうまくやり、
皆で協力すればできる、という結論に達しました」と振り返っています。

アスファルト舗装と機械施工を導入
施工にあたったのは道内外の精鋭15社。
総労働者数は約34万人に達し、ブルドーザやローラ、
トラックなど約250台が投入されました。
大量の人員と機械が現場で休みなく働き続けました。

特筆すべきことは、近年では一般的になっている
アスファルト舗装と機械施工を本格的に導入したことです。

工期が限られる中の選択でしたが、これらの導入により、施工は著しく効率的となり、
昭和28年11月、待望の完成を迎えます。当時の新聞は、「北海道土木史に金字塔」「
わが国土木会の最高の技術を大量に投入して正味1カ年で完成」と最高の讃辞を贈っています。

弾丸道路で採用された技術、特にアスファルト舗装は、これまでコンクリート舗装一辺倒を
転換させる画期的な役割を果たしました。

その後、北海道だけではなく、
全国の高速道路建設にも活かされます。

まさに「金字塔」であり、北海道発の技術を全国に
知らしめるプロジェクトでした。

今の技術でも相当困難な工事ですが、なぜ70年前に
これができたのでしょうか。

そこには最新技術の導入と、困難な工事をなんとしてもやり遂げようというエンジニア達の熱く、強い意志があったからです。

当時、工事の総指揮を執ったのは札幌開発建設部部長だった高橋敏五郎氏。
「北海道舗装史」(昭和57年発行) の座談会で、当時のいきさつを次のように話しています。

「昭和27年8月末、上司から夜中に『これから千歳までの工事に着手して、来年秋までに出来るだろうか』
という電話がありました。『ちょっと一晩考えさせてください』と答えました。

1年というのは非常に厳しい。
でも考えてみれば、仕事をやるのは業者です。
われわれは、やりやすい設計を組んで工区割りをうまくやり、
皆で協力すればできる、という結論に達しました」と振り返っています。

アスファルト舗装と機械施工を導入
施工にあたったのは道内外の精鋭15社。
総労働者数は約34万人に達し、ブルドーザやローラ、
トラックなど約250台が投入されました。
大量の人員と機械が現場で休みなく働き続けました。

特筆すべきことは、近年では一般的になっている
アスファルト舗装と機械施工を本格的に導入したことです。

工期が限られる中の選択でしたが、これらの導入により、施工は著しく効率的となり、
昭和28年11月、待望の完成を迎えます。当時の新聞は、「北海道土木史に金字塔」「
わが国土木会の最高の技術を大量に投入して正味1カ年で完成」と最高の讃辞を贈っています。

弾丸道路で採用された技術、特にアスファルト舗装は、これまでコンクリート舗装一辺倒を
転換させる画期的な役割を果たしました。

その後、北海道だけではなく、
全国の高速道路建設にも活かされます。

まさに「金字塔」であり、北海道発の技術を全国に
知らしめるプロジェクトでした。

これだけのことを当時の日本がやってのけたということは、
とてもじゃないけど予想をはるかに超えた、人間の底力というか
計り知れない人間の可能性を示してくれてるようで
しかたありません。

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