俳句を始めたきっかけをボケる前に記す

俳句を始めたきっかけをタイトルの通りこれから年老いて忘れてしまう前に一度文章として残しておきます。
スピード重視で書くので文章力はお察しください。

国語を好きになるきっかけ


僕は俳句を始める前から国語が好きでした。
小学生の頃母が日本語にやや厳しく「食べれる」「見れる」などら抜き言葉など間違った日本語についてよく指摘されていました。

本棚にも日本語に関する本がいくつかありそれを僕も読んでいました。日本語に関するといっても高尚なものでなく、当時タモリが出演していた日本語に関する番組の本で小学生でも気軽に読めるものですが。家にも小学生向きのことわざ辞典などあり、ことわざも詳しかったです。

また、大河ドラマの影響か分かりませんが百人一首も小学生から一緒に覚えさせられ意味など全然分かりませんでしたが当時は中々の数を暗記していました。

ただ、こう色々ありながらも小学生の頃は国語が好き!ってほどではありませんてした。
自分が国語を好きになったのは中学になってからのあるきっかけです。


中学にあがった頃僕は同じクラスの同じバスケ部の2人とよく一緒にいました。
僕は真面目くんでしたが、その2人は不良とまではいかないもほんのちょっと、ちょっぴりだけやんちゃでした。まあ普通の中学生です。

その2人が一学期のある日、授業で書いた2人の作文が優秀作品集に掲載されました。当時の国語の先生は作文を書かせることに熱心で優秀作品をよく作品集として生徒に配っていました。

それを見た僕は悔しがりました。自分が少し長けていると思った国語の成績さえ同じクラスの仲間に負けるのが悔しくてしょうがなかったのです。

テストの点で負けることもありましたが何故だかこれは凄く刺さりました。

僕はその悔しさをバネに国語の作文だけは負けたくないと思い必死で取り組みました。今見返せばそこまで文章力はなかったと思いますが、それがこうしてか以後、中1、中3の頃担当だったその先生が課題として出した作文には全て優秀作品集に載ることができました。

先生は生徒の作文全て熱心に目を通してくれ、当時の国語の先生にはとても感謝しています。

そのおかげで公立高校受験の国語のテストも一問しか間違えないほどになりました。その後は高校に入りぐんぐん成績を落としていきましたが、国語を好きになったきっかけです。

夏井先生との出会い


そして、時は大きく流れ2015年〜2016年の冬、僕は大学四年生でした。
たまたま放送していたプレバトを通して夏井先生に出会いました。
当時のことはあまり記憶にありませんが「俳句では才能アリになりたい」となったのだけは覚えています。

プレバトは芸術部門や料理部門など他のジャンルもお馴染みですが、僕には何の取り柄もありませんでした。美術の成績は万年下位、料理のセンスも全くありません。
せめて自分がすこしだけプライドにしている国語部門だけは才能アリになりたいと思うようになりました。

「説明の言葉ではなく映像の言葉」や「この言葉があればこの言葉はいらない」など当時は見ていてもちんぷんかんぷんでしたし、才能なしの句と才能ありの句の違いも分からなかったと思います。ですが、夏井先生の毒舌と呼ばれるキャラクター性も好きでよく分からないと思いながらもとにかく見ていました。

そして、俳句がうまく詠めるようになりたいと思ったきっかけがもう一つあります。それは中学三年生のとき授業で俳句を提出する機会がありました。

出した俳句は全クラスが見られるように教室の廊下に展示されました。

その時にふと同クラスの男子からふいに言葉をかけられました。

「俺、〇〇(僕の名前)の俳句好きだよ。」

同じクラスではありますが別に仲良くもなんともなかったクラスメイトから不意に言われたのでとても驚きました。
ですが、同時にとても嬉しい気持ちになったのは今でも覚えています。
ちなみにその俳句は

コーヒーを背伸びして飲む一年生

です。今見れば凡人ですが、なぜか歳時記も持ってないのに一年生を季語と勝手に認定していたのは我ながらすごいです。

このいきさつがあり、自分にはきっと才能あるはずだ!と思い大学四年生の冬に俳句を始めました。

俳句を始めて今に至るまで

当時詠んでいた句はあまり覚えていませんが

空風とカレー探しの神保町
授業抜け君描きたる冬の空
酔うほどに匂う酢漬けのセロリかな

量は作ってませんでしたが、作っては満足感に浸っていました。
作った俳句はどうしていたかというと当時は俳句を投句するアプリというものがありそこに投句していました。全ユーザーがTLに表示され俳句しか投稿できないTwitterみたいな感じです。そこに作った俳句を投稿していいねをもらえて満足していました。

俳句アプリといってもみんな季語も型もなにもない呟きを五七五で載せるだけのアプリでした。下手ですが真面目に俳句を投句している自分はおそらく異端でした。その頃はいつき組も俳句ポストの存在も知らなかったのでこのアプリをひたすら活用していました。
ちなみに俳号の「ふるてい」はこの当時から使っています。

ですが、10作品ほど出していたあたりでこのアプリがまさかのサービス終了。投句する場所を失いました。
アプリを失ったことにより初めは意気込んでいたもののすぐに俳句から疎遠になりいつのまにかプレバトも見なくなりました。何句作ったのか覚えていませんが10句前後しか作っていなかったと思います。


それから月日が流れ、俳句のことなど全く頭になかった2018年の社会人二年目1月、母親から急にLINEが届きました。見てみると俳句が二つほど書いてあり、今日職場に俳句の先生が来て俳句を褒めてもらった。とメッセージが来ました。
母親はデイサービスで働いておりたまにカルチャースクール系の講師がくるのだそうです。


これをみた自分の心境はあまり覚えていませんが「俺の方が上手く作れる!!」とは確実に思いました。
2015年俳句をかじった程度とはいえ、「映像化」「中七」「季重なり」など一通りのことは覚えていたのでこの程度のことで何故かプライドに火がついたのです。

そこからまたYouTubeでプレバトを見返したり俳句について勉強するようになりました。

そしてまた俳句を作るようになり「一日一句は最低でも作ろう!」とメモ帳に俳句を記すようになりました。記憶が正しければ2018年1月18日です。そこから華の2018年組おそらく第一号として俳人としてのスタートを切りました。

そして、俳句ポストやいつき組の存在を知りTwitterを開設し今に至ります。
特に歳時記を買ったあたりからのめり込みました。季節の言葉が書いてあるだけなのにとても面白く通勤鞄にも入れていつも持ち歩いてました。
今では流石に入れてませんが、休日のお出かけバッグには季節の歳時記をいつも入れています。

いつき組として俳句を始めたての頃は別の話なのでここまでにしておきます。

今思い返してみると、直接的ではありませんが、国語の先生の存在とお会いしたことありませんが、母親のデイサービスの講師の存在が大きかったのかなあと思います。

なんかメッセージ性のある記事にしたかったのですが、自分語りで終わってしまいました。ここまで読んでいただきありがとうございました。
せっかくなので一つだけ。

僕が始めてからも続々といつき組の方が増えていきました。ですが、プレバトの高視聴率から考えると俳句を始めるに至った人はとても少ないように感じます。
番組として楽しむところから、実際に始めるという差は短いようでとても大きいです。
俳句を始めるという大きな一歩を踏み出せただけで才能アリだと思っています。

今後も俳句に一喜一憂することはありますし時には苦しむこともあるかと思いますが、自分は俳句の世界に踏み込めた優等生だ!ということを是非自負していただき気長に俳句を続けていきましょう。

自分語り聞く秋虹よありがとよ

ふるてい

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