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現代語訳 樋口一葉日記 1 (M24.4.11~M24.4.21)◎花見、初めて桃水を訪問

 若葉かげ   明治24年(1891)4月

(※一葉の本名は、樋口夏子。生誕は明治5年(1872)3月25日だが、これは旧暦で、ちょうどこの年の12月に太陰暦から太陽暦に暦が変更され、新暦に換算すると一葉の誕生日は明治5年5月2日になる。よって、明治24年4月は一葉はまだ18歳である。「若葉かげ」は日記の題で、一葉の日記にはそれぞれにこのような題と年月、署名が記されている。また、括弧のみの補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧には言葉の意味、解説などをほどこしている。なお、数字は元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。)

花に心がひきつけられ、月に浮つく、そんな折々に、(風流な)心の楽しさを感じることも稀だけれども(あるには)ある。思うことを言わないのは腹がふくれるという(『徒然草』(鎌倉時代、吉田兼好の随筆集。)の)例えもあるので、嬉しいこと、悲しいこと、自分の心にあふれるものを(この日記に)もらすのだ。とはいっても、もとより世間の人に見せるつもりではないので、筆に花(※はな/表現の意)はなく、文に艶(つや)もない。ただその折々は自身ありのままでいるのだから、あるいはひたむきにひとり褒めして、今あらためて見ると恥ずかしいこともあろうし、はなはだ品性いやしく、もの笑いになることも多いだろう。題名だけはことごとしく「若葉かげ」などというものだけれど、行く末は葉が茂ってくれと願う心なのでは決してない。
   卯(う)のはなのうきよの中のうれたさに
   おのれ若葉のかげにこそすめ
(※<卯のはなの>は<うきよ>にかかる枕詞で、卯の花そのものは4月に咲くウツギの白い花。憂き世は、このつらい世の中の意。<うれたさ>はつらくて不満なこと。<すめ>は住むの意。)


 (明治24年)4月11日 吉田かとり子(※一葉が通っていた中島歌子の歌塾、萩の舎(はぎのや)の先輩弟子で当時47歳。実業家の奥方。)さんの隅田川の家に、花見の宴(うたげ)の催しに招かれている日だ。友の人々(の中に)は師の君(※中島歌子、当時46歳)のもとに(一度)集まって、一緒に向かわれる(方々)もいらっしゃった。自分は、妹(※樋口邦子。一葉の2つ下。)が家に閉じこもってばかりいて春の風にも当たらぬのが嘆かわしいので、「さあ一緒に」などとせきたてて誘い出した。花曇りとか言うようだけれど、少し空が霞(かす)んで日の光が(それほど)あざやかでないのも大変よろしい。
上野の岡は花の盛りは過ぎたと聞いたけど、「花は盛りに月は隈なきをのみ愛(めづ)るものかは(※徒然草の一節。桜の花は盛りの時に、月はかげがない時にばかり愛(め)でるものだろうか、の意。)。いや違う、その散りかかるころの桜の木陰こそ面白いだろうよ。」と(私が)言うと、「ならびが岡の法師(※吉田兼好のこと)のまねですか。」と妹は笑った。さすがに面目なくて何も言えなくなったのも(我ながら)面白い。私が住む家から上野は遠いというほどでもないので、まだ朝露が多く残っているうちに着いた。(花の様子は)聞いていたほどでもなかった。清水の御堂(みどう)の辺りこそ大方は散っていたけれども、権現の御社(おやしろ)の右手の方などは若木ながらまだ盛りであった。さっと吹く冷ややかな朝風に、濡れた花びらが吹雪とばかりに散り乱れる様が大変惜しい気になって、「おほふ計(ばかり)の袖もがな(空を覆うほどの袖がほしい)」(※平安時代の後撰(ごせん)和歌集という歌集の中にそういう歌がある。)と言いたかったけれども、「(また)いつもの(まねでしょう)」と笑われるのが気がかりで言うのをやめてしまった。
 隅田川の方にも心が急いでいたので、(去るのが)惜しい(桜の)木陰から離れて、車坂を下っていると、「ここは、父上が生きていらっしゃった頃、桜の季節となると、いつもいつも自分たちをお引き連れになられて朝夕慣れ親しませられた場所ですね。」と、不意に妹が語り出したのを聞いて、昔日の春の面影が心に浮かんで、(次のように歌を作った。)
   山桜ことしもにほふ花かげに
   ちりてかへらぬ君をこそ思へ
(※一葉の父則義は明治22年7月に58歳で死去している。)
心淋しいなどといった気持ちにまかせて、朝露ではないけれど二人の袖は(涙で)濡れ渡った。山下というところを過ぎて、昔住んでいた家の辺りを通ると、世の移りゆくさまが大変はっきりしてきた。まだ八歳ばかりの頃には下寺(したでら)と呼ばれていた墓地は、鉄の道(線路)が引き連ねられて、汽車が通る道となっていた。その列車を止める停車場をはじめ、区の役所、郵便局などその頃には思いもかけなかったものが数多く出来ていた。私の兄(※長兄泉太郎、明治20年肺結核により23歳で死去している。)が難波津(※なにわづ/古今集仮名序の歌で、歌や習字の手本とされた。)を習っていた頃、その師のもとへ行く時に常にこのあたりを通っていたのだが、その時に「やがて(世の中は)こうなるだろう」と人が(泉太郎に)語って聞かせたけれど、「それはいつのことになるのだろう。蜃気楼のたぐい(※幻のようなものの意)だろうさ」と笑い種(ぐさ)にしたのだったが、世の事業の速やかなること、早くも聞いていたようになってしまって、「(世の中はこんなに進歩しているのに)私はその折と少しも変わらず、何も成し遂げることなくいたずらに年だけ重ねてしまった」とうち嘆かれたことだ。
 この辺りから車(※人力車)を雇って隅田川まで行った。枕ばし(※隅田川の土手、いわゆる墨堤(ぼくてい)の入り口にある橋。)という所で車を降り、返した。散り始めもせず、咲き残ってもいない(満開の)花の匂いが大層細やかで、遠く望めばただひとかたまりの雲かとばかりに疑われ、近くを見渡せば梢に積もる雪かとのみ見えるようだ。まだ人気(ひとけ)が少ない時間で、花の姿を我がものにして見歩いているうちに、本当に(自分が)小蝶に身を変えたような心地がする。秋葉神社(※以下、墨堤の名所が続く。)、白髭(しらひげ)神社のそばを過ぎて、梅若塚(うめわかづか)までも花を探索した。この辺りには、人の姿も見当たらないのが大変嬉しい。帰り道には、長命寺(ちょうめいじ)の(門前のお店で)桜餅(さくらもち)を求めて妹に渡した。これは(帰りを待つ)母上に差し上げるためだ 。自分は三囲(みめぐり)神社の辺りで(妹と)別れた。
 かとり子さんの家は、そのお社の背後に高くそびえる三階建ての家がそれである。自分より先に、みの子さん(※田中みの子、萩の舎の姉弟子で一葉の友人。萩の舎では、一葉と後に登場する伊東夏子とともに平民三人組と自称し、仲良しであった。一葉より15歳上で当時34歳頃か。)、つや子さん(※小笠原艶子、萩の舎の門人。)がおられた。いつものように冗談を言い合っていると、今日は大学生たちが(隅田川で)競漕会(※きょうそうかい/ボートをこぐ競争。)をされるということで、すでに木の間木の間に(ボートを)漕ぎ出していらっしゃるのがちょうどよく(見られて)、大変うれしい。遠眼鏡(※とおめがね/望遠鏡)を貸してもらって見渡すと、この高殿(たかどの)の下を漕いで行くように(大きく)見える。赤、白、青、紫など組ごとに服の色を分けて、それぞれ漕ぎ競うさまは、水鳥などのように自在だ。堤(つつみ)にはその友達であろう、「赤よ」「白よ」などと自らが応援する組を呼び励まして、もどかしいように船と共に(堤を)駆けていらっしゃるのも大変勇ましい。みの子さんは(それを)うらやまし気に見入りなさって、「お勝ちになったらどんなにか嬉しいことでしょう」とおっしゃったので、自分も、「お負けになったらどんなにか悔しいことでしょう」と言うと、うめくようにお笑いになった。そうこうしているうちに、師の君(中島歌子)も友だちの方々も来られた。龍子さん(※田辺龍子(たつこ)、明治元年生まれで一葉の4つ上。明治21年、花圃(かほ)という筆名で「藪の鶯(やぶのうぐいす)」を発表。近代小説を書いた最初の女性として有名だが、実際は坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の小説「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」を真似して書いただけのもの。元老院議員の父を持つ名家の長女であった。)、静子さん(※田辺龍子の従兄の妻)は、競漕会に招待されていたので、「こちらの集まりには後ほど加わりましょう」と言って出て行かれた。難陳(※なんちん/難陳歌合(うたあわせ)のことで、文学遊戯の一つ。歌合とは、和歌の作者を左右に分かち、その詠んだ歌を一首ずつ組み合わせて、優劣を比較、勝負の判定をするもので、難陳はその判定の前に左右が歌の良しあしを論じ合う段があるもの。)などを催すうちに、本当に心が空にひきつけられたのだろうか、花の姿ばかりが目に入って何とはなしに(そわそわと)過ごしていた。ちょうどその時花火が上がったので、師の君、
   「花にはな火をそへてみるかな」
とお書きなさって、「この上の句をお付けなさい」と伊東夏子さん(※一葉の一番の親友で、同年齢。名前が同じ夏子なので、一葉を「ヒ夏ちゃん」伊東を「イ夏ちゃん」と呼んでいた。田中みの子とともに平民三人組と自称し、仲良しであった。)をご指名されたところ、伊東さんはすぐに、
   「思ふどちまどゐするさへうれしきを」
(※<思ふどち>は気の合った仲間同士の意。<まどゐ>は団らん、集会、宴の意。)
と(紙に)書き記しなさって差し置かれ、その様はいつもながら優雅でうるわしいものであった。さらに、みの子さんが下の句をお書きになった。
   「蛙(かわづ)の声ものどけかりけり」
(※<のどけかり>はのどかであること)
 自分に、「上の句を」とすすめなさるのにびっくりして、先の花の姿にひかれてさまよい歩いた浮ついた心を呼び戻すなどして、本当に気ぜわしくなった。「時間がたちますよ」と責められて、
   おもふどちおもふことなき花かげは
と(自分は答えて)言ったようであるが、しっかりした心ではなかったので(よくは)覚えていない。同じく、とてもにぎやかだった皆さんの玉のような言の葉たちもみんな忘れてしまった。このことが終わった後、久子さん(※吉田かとり子の妹)が弾き興じられた琴の音は、風流心のない私でさえ、「松風の響きとでも言うべき(ほどの美しさ)だろう」と思われた。
(※<松風>は松の梢に吹く風のことで、時に琴の音にたとえられる。)
「さあ日も暮れようとしていますし、お琴の音色に心は惹かれますが、花の姿が暗く(見えなく)なるのがとても惜しいので(帰りましょう)」と師の君がおっしゃったちょうどその時、龍子さんも静子さんもお戻りになった。主(あるじ)の方(※吉田かとり子)が「今しばし」ともおっしゃったが、いとまごいを申し上げて家を出た。お供の男たち(※集まっていた子女たちのお抱え人力車の車夫。萩の舎に通う子女たちの大半が上流階級。)も酒などをいただいていたので、「あとから来なさい」と言って、師の君はじめ十三、四人で堤にまで来た。折しも太陽は西に傾いて、夕風が少し冷ややかであったところ、咲き余る花が二つ三つと散り乱れる様は、小蝶などが舞うように見えて趣深い。酒に酔って正体を失った人が若い方々に冗談を言ってくるのは、無作法である上大層不快であった。だんだん日が暮れていくうちに、それら(酔っ払い)の人たちは姿も見えなくなったので、「今は安心」と言って花の木陰をめぐり、各自思い思いに戯れ合っていると、いつしか日も名残なく暮れ果てて、川の面を見渡せば、上流は衣を引いているように霞んで、向こう岸の灯影(ほかげ)ばかりがかすかに見えるのもしみじみと風情がある。「さあ、帰りましょう。月さえあれば(もう少しいても)よいはずの夜なのでしょうが、なかなか(帰りが)気がかりだから。」と師の君がおっしゃるのも成程もっともであろう。若き方々ばかりだからである。もう少し(残りたい)とも言いたかったけれど、お供の(人力車の)男どもが促すので、とても名残惜しいけれども(花の)木陰を離れて車に乗った、ちょうどその時、春雨が少し降り始め、「別れの涙でありましょうよ」と(お互い)言いかわしなさることであった。枕ばしまでは皆一緒であったが、ここからそれぞれ別れて行く様子は、本当に残り惜しい感じであった。まことに春のうちの春とも言うべき日であった、と思うにつけても「もう少し空が晴れていたらなあ」と思われるのは、かの「蜀を望む」(※隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望む/ことわざ。人の欲、望みにきりがないこと)とかいう人の心だろうか。

(明治24年)4月15日 雨が少し降る。今日は野々宮きく子さん(※一葉の妹邦子の友人で、年齢は一葉より3つ上。後述の半井桃水(なからいとうすい)の妹幸(こう)と同級生であった。)が、かねて紹介の労をとって下さった半井先生(※半井桃水。当時30歳。朝日新聞社の記者で、通俗小説家。)に、初めてお目にかかる日である。昼過ぎ頃家を出た。先生が住まわれているのは海の近い芝(※地名 芝区)の辺り南佐久間町という所である。以前一度鶴田(※鶴田たみ子。桃水の妹幸(こう)の同級生で、地方出身で半井家に寄宿していた。)という人にまで用事があって(※一葉の妹邦子が野々宮きく子を通じて鶴田の仕立物を請け負ったことがあった。)、その家へは行ったことがあるので、案内はよく分かっていた。愛宕下(※地名)の通りで、何とかいう寄席の裏を通って突き当りの左がその家である。門をくぐって訪ねると、返事があって出てこられたのは妹さん(幸)であった。「こちらへ」とおっしゃるのに従って、左手の廊下から座敷の中へ伴われて入ると、「兄はまだ帰ってきてません。今しばらくお待ちください」とお申しなさった。「そうだ。先生は東京朝日新聞の記者として、小説に雑報(※ざっぽう/こまごまとした記事)にと常に関わっていらっしゃるので、どんなにか暇なくお忙しいことであろう」と思い続けていると、門の外に車(※人力車)の音がするのは、(先生が)お帰りになったのである。すぐに服などをいつものにお着替えなさっておいでになられた。(そして)初対面の挨拶などを丁寧にされた。自分はまだこのようなことに慣れていないので、耳は火照り唇は乾いて、言うべき言葉も思い出せず述べるべき言葉も出ず、ただひたすらにお礼を言うばかりであった。「はた目にはどんなにか愚か(者に見える)だろう」と思うと恥ずかしい。先生は年は30歳ぐらいでいらっしゃるだろうか。姿かたちなどを取りたてて記し置くのも失礼ではあるが、私の思う所のままを書いてみたい。色は大変白く表情穏やかで少し微笑みなさっている様子は、実に三歳の童(わらべ)もなつくだろうと思われた。背丈は世間並よりずいぶん高く、肉付きも豊かでいらっしゃるので、本当に見上げるようであった。(先生は)ゆったりと最近の小説の状況などをお話しなさって、「私が(本来)書きたいと思うものは人に好まれず、人に好まれなければ世間で相手にしてくれません。日本の読者の眼識の幼稚なことといったら、新聞小説といえばありふれた奸臣(※かんしん/性質も行いも悪い家臣の意)賊子(※ぞくし/反逆者のこと)の伝、あるいは奸婦(※かんぷ/夫以外の男と密通する女。姦婦とも。)淫女(※いんじょ/みだらな女)の事件のようなことを書かなければ世間で売れないのはどうにもなりません。私が今まで著(あらわ)した幾多の小説は、いつもわが心に潔(いさぎよ)しと思って書いたものではないのです。だから世に学者と言われ、識者の名がつく人たちに、(私の作品は)批難攻撃(され)、面も向けがたいのは仕方がない(ことなのです)。私は名誉のために著作するのではありません、弟妹父母(ていまいふぼ)に衣食させるためなのです。その父母弟妹(ふぼていまい)の為に受けるのなら、その批難はもとより辞するつもりはありません。(※甘んじて受けるばかりだ、ということ。)もし時が来て私がわが心のままに小説を著す日があったら、その批難は甘んじて受けるつもりはありません。(※もとより受けるつもりはない、ということ。<もとより>は言うまでもなく、の意。)(※桃水は<もとより>と<甘んじて>をあべこべに使って一葉を笑わせようとしている節がある。)」とおっしゃったあとに大笑いされるさま、「本当にそうだ」と(私には)思われた。さらになおおっしゃるには、「あなたが小説を書こうという理由、野々宮さんからよく聞いています。さだめし(小説を書くことは)苦しいでしょうが、少しの間でしょうから、我慢しなさることです。私は師と呼ばれるような才能はありませんが、相談相手にはいつでもなりましょう。遠慮なく来なさるがいい。」と、大変親切におっしゃってくださったことが限りなく嬉しく、実になんとも涙がこぼれた。お話を少ししているうちに、「夕飯を食べていらっしゃい」と言って、さまざまなものを出された。「まだ交際も深くないのに」と思ったので、しきりに辞退したが、先生は、「我が家では田舎者の習慣(※桃水は長崎県の対馬出身)で、古い友と新しい友とを問わず、美味美食ではないけれど、箸を取っていただくのを常としております。快く召しあがっていただければ、なおさら嬉しいのです。私もお相伴いたしますから。」と何度もおっしゃるので、言い争うこともできず、(夕飯を)いただいてしまった。そうこうしているうちに、雨はいよいよ降りしきり、日はだんだん暗くなった。「ではお暇(いとま)させていただきます。」と言うと、先生は、「車は前もって用意しておきました。御乗りなさい。」とおっしゃった。帰るとき、書いておいた小説の草稿一回分だけを置いて、先生の著作の小説四、五冊をお借りして出た。先生の行き届いたお心添えの車で、八時ごろには家に帰りついた。
(明治24年)4月21日 夜、野々宮さん、吉田さん(※妹の邦子の友達)がいらっしゃる。野々宮さんの役目で園遊会の催し(※野々宮きく子はこの頃女学校に通っていた。学内関連の催しか。)があるということらしくて、その時お持ちになる景物(※けいぶつ/時節に応じ興を添える衣装や食べ物。また、連歌、俳諧の点取りの景品。ここではどちらか判然としないが、後者だろう。)のようなものの相談をしたいということでお越しになられたのである。夜十一時頃ご帰宅された。
 この日、先日の小説の続稿が出来たので、「明日は桃水先生のところへ参ろう」と思って、その夜清書するはずだったが、五回分ほど書いているうちに、母上(※樋口たき。当時56、7歳頃。)が、「あまりに夜が更けたので、明日の事にしたら。」とおっしゃるので、(そこまでで)やめた。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
 ※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)







   




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