現代語訳 樋口一葉日記 5 (M24.9.15~M24.9.25)◎中秋の名月、婦女のふむべき道、稲葉鉱と野々宮きく子、広瀬ぶんの犯罪
蓬生日記 明治24年菊月(9月)
(※蓬生(よもぎう)とは、ヨモギがたくさん生えているような荒れ果てたところ、の意)
日差しに遠い、雑草が生い茂るような荒れ果てた家での秋に、露のようにはかない私は心身を休める所がなく、(そのせいか)筆を墨に濡らして(この日記を)書き続けていると、変に人の陰口を言っているようになってしまった。
(※この序文はこの日記冊子が書き起こされた時より後で書かれたもの)
(明治24年)9月15日 晴天。九時頃より灸治療に行く。五十人ばかりの待合で十時頃終わる。それよりすぐに図書館(※東京図書館)に行く。『本朝文粋』(※ほんちょうもんずい/平安時代後期の漢詩文集)及び『雨夜のともし火』(※あまよのともしび/江戸時代中期の岡山藩士、湯浅常山(ゆあさじょうざん)の書いた武将の逸話集)『五雑俎』(※ござっそ/17世紀頃の中国、明(みん)の謝肇淛(しゃちょうせい)による随筆、博物誌。)とを借りて読む。馬琴(※滝沢馬琴(たきざわばきん)。江戸時代の読本(よみほん/江戸時代後期の小説)作家。『南総里見八犬伝』が有名。)の著書の中に、「五雑俎」という言葉がとても多くあったので、見たくなったのである。そうはいっても、いつものことで、学問がない故(※一葉の学歴は、東京の青海(せいかい)学校小学高等科第四級卒業(と言うよりもそこまでで退学)である。明治16年12月、満11歳であった。一葉は優秀で卒業時は首席であったが、母たきがそれ以上女性が学問をするのを忌み、やめさせたのである。当時の学制は半年ごとに1級卒業で、あと3級分、1年半で修了であった。つまり一葉は今で言うなら小学校中退である。ただし、当時の学齢児童の就学率は低く、明治16年時は男子69.3%、女子35.5%、平均53.1%であったというので、一葉はまだしもであったとも言えよう。)なかなか(ちゃんと)読むことが出来るはずもなく、どうにも仕方がない。三時頃図書館を出て、みの子さん(※田中みの子)のところへ行く。少しお話して帰る。みの子さんは一昨日から箱根、鎌倉辺りを旅行して、昨日お帰りになったという。「塔ノ沢(※箱根の温泉のひとつ)にて白波(※しらなみ/盗賊の異称。)が立ち騒いだ(※泥棒騒ぎがあった意)」という話もあった。家に帰ったのは五時少し前であった。この夜は、とても眠たく、とても(睡魔に)耐えられないのに困りきって、早く就寝した。十時であったろう。
(明治24年)9月16日 今日も珍しく好天である。風もなく雲もなく、しかし暑くはない。いつもこうであったらなどと思う。母上は、湯島(※地名)の紺屋(※こうや/染物屋のこと)のもとに行かれた。自分は衣服をたくさん洗ったりなどしていると、午前十時頃であったろうか、山下直一(※やましたなおかず/先述8月1日の日記では大病していた)さんが来られる。お話を少ししているうちに、母上もお帰りになった。(山下さんの話し相手を)母上に譲って、自分は師の君(※中島歌子)の仕立物を今日から始めた。山下さんは午後四時頃ご帰宅された。熊ケ谷(※くまがや/埼玉県の地名。山下直一の郷里)からだといって、小袖綿(※こそでわた/綿入りの羽織などに入れる綿)をもらった。夕食は早く食べて、散歩を国子(※邦子)と共にする。「明日は中秋(※ちゅうしゅう/陰暦8月15日の別称、月見をする慣習がある日)だというのに、今宵の空も(なんだか)様子ありげだ。雲が立ち込め(て月が見えなかっ)たらどうだろう」など(不安に)思うのもいつものことなので、「大方こう(※この直前で想像した、雲が立ち込めて月が見えないこと)なるのだろう」とため息がつかれた。
(明治24年)9月17日 早朝、髪を結んで師の君(※中島歌子)の元へ行く。今日はみの子さん(※田中みの子)の月次会(※つきなみかい/月1回開かれる歌会)なので、(私が師の君に)お貸ししていた硯(すずり)を自分で(みの子さんのところへ)持って参上しようというわけで(、朝から師の君のおられるの萩の舎に行って、その硯を持ってきたのだ)。十一時半より家を出た。母上が、みの子さんの(家の)近くまで(私を)送ってくださった。(みの子さんと)お話を少ししていると、そのあと皆さんが来られた。今日は中秋だというが、空はめったにない程晴れ渡って、塵ほどの雲もなく、風は強くはないが涼しいぐらいに吹いていて、大変良い日であった。点取題(※てんとりだい/歌会で、点者(歌の点をつける人)に点をつけてもらって競う歌のお題のこと)は「対山待月」(※たいざんたいげつ/山に向かって月が出るのを待つ意)である。小出さん(※先述の小出粲(こいでつばら)萩の舎の客員歌人。)及び師の君二人の点者である。
甲(※こう/最上の意) 点者お二人とも(甲をつけた)
山のはの梢あかるく成にけり今か出(いず)らむ秋のよの月
(※<山のは>は、山の空に接する部分。<今か>は、もう来るかと待つ気持。いまかいまか。)
(これは)自分の歌であったので賞をいただいた。今日の各評(※詠まれた歌を回覧し、無記名で評を加え、のちに会で発表するもの。会の前に回覧しておく。)の題は、「山家水(※さんかのみず/山中の家の水という意)」と「枕辺虫(※ちんぺんのむし/枕元に聞こえる虫の音という意)」である。(各評の結果(天地人で評価)は、)天が小川信子さん(※萩の舎門人。明治24年6月10日の年齢比べの時にもこの名が出ている)、地が中村礼子さん(※萩の舎門人。明治24年6月9日の、各評を送った名古屋の礼子さん。また、明治24年6月22日にも、師の君とともに礼子さんの家に行ったことが書かれている。)人が伊東延子さん(※いとうのぶこ/一葉の親友伊東夏子の母。親子で萩の舎の門人だった。明治24年6月10日の年齢比べの時にもこの名が出ている)であった。日没少し前に皆さんお帰りになる。自分は、つや子さん(※小笠原艶子。萩の舎門人。明治24年6月9日に萩の舎が小笠原家からマキノーリヤをもらったことが書かれている。また、明治24年6月10日の年齢比べの時にもこの名が出ている)のお迎え(の車(※人力車))が大変遅いので、一人お残し申し上げるのが可哀そうに思い、一緒に残った。(やがて)とよ子さん(※小笠原家の侍女。明治24年6月10日の年齢比べの時にもこの名が出ている)がつや子さんを迎えにいらしてから自分は帰った。みの子さんからのお心添えの車(※人力車)に乗って出る時に、月は上野の森を離れて、桜木病院(※この年の4月に開いた皮膚科専門病院の名)の軒端(※のきば/軒のはし)にのぼっていた。「ああいやだな、月を背にして帰ることのいとわしさといったら」と心の中で嘆かれた。切通し辺りへ来た頃に、雲が少しかかり始めた。家に帰ってから少し月は明るくなったが、夜が更けていっそう雲が重なって、「(ほら)思っていた通りだ」とがっかりした。今宵、久保木の姉上(※一葉の姉、ふじ)が来られた。母上と共にある所へ行かれた。今宵もいつものようにだらしなく早いうちに床に入った。
(明治24年)9月18日 朝から曇天。十一時頃より小雨が降ってきた。今日はいろいろとすることが多く、あわただしかったので、仕立物はせずに、机に向かった。一日雨に降り暮らして、夕暮れ方より風が大変寒くなった。燈火のそばに近づいて、さらにもの思いをすると、今日も何もできずに暮れてしまったなあ(と感じられる)。「ああ、残念だ」と思うのは毎日の事だが、努力して勉めることもできないでいるのはどうであろうか、我ながら大変いやになる。一晩中雨が降りに降った。十一時頃床に入った。
(明治24年)9月19日 朝は小雨が降る。今日はいつもの(萩の舎の)稽古日である。早朝家を出た。(萩の舎では)師の君(※中島歌子)が朝食を召し上がった折であった。少しお話していると、門人の人々が集まってきた。(師の君は)てにをは(※助詞、助動詞のこと)の誤りなどを正されて、それから(次のように)おっしゃった。「あなたは近頃『新古今和歌集』を読んでいるのではないですか。歌の調子が大変似通っているようです。悪い事ではありませんが、(『新古今和歌集』の)真似をするのははなはだよからぬことですよ。なんといっても『古今和歌集』をお読みなさい。手元にないのなら、ここにありますよ。」などと、親切にお教え下さった。明日、松園(※まつぞの/歌人、加藤安彦の号。明治24年6月10日の年齢比べの時にもこの名が出ている)の月次会(※つきなみかい/月1回開かれる歌会)なので、その兼題(※けんだい/歌会などで前もってだしておく歌の題)を点取(※てんとり/歌の点数を競う催し)にした。「八点(※十点満点)以上の歌は(紙に)したためて(松園に)送りたい」と思ったからだ。みの子さん(※田中みの子)、夏子さん(※伊東夏子)、広子さん(※鳥尾広子/貴族院議員鳥尾小弥太の長女。明治24年6月10日の年齢比べの時にもこの名が出ている)、艶子さん(※小笠原艶子)たち、そして私の五人(が八点以上)だったので、色紙に寄せ書きして(松園に)送った。家に帰ったのは三時過ぎ頃であった。空は名残なく晴れ上がった。この夜も早く床に就いた。
(明治24年)9月20日 曇天。師の君の仕事をする。(※頼まれた仕立物か)別して書くこともない。中島倉子さん(※中島歌子の妹。明治24年6月6日に樋口家に来訪したと書かれている)に葉書を送った。
(明治24年)9月21日 朝から曇天。昼過ぎから母上は築地(※地名/つきじ)へお寺参りに行かれた。(※彼岸の寺参りで西本願寺に行ったらしい。)望月(※もちづき/一葉の父則義在世時からの知人。八百屋で屋号は豊屋。生活が貧しく樋口家から時折援助を受けていた。一葉の作品「大つごもり」に出てくる主人公お峯(みね)の伯父一家のモデルといわれる)から使いが来た。サツマイモが到来した。日没後から雨が降り出した。夜が更けてからはさらに風さえ吹いてきて、非常に恐ろしげに、ただもう天に流れる川の樋(とい)の水の出口でも切ってしまったように(雨が激しく)なった。なすこともなく空しく起きていて、寝床に入ったのは一時過ぎる頃になった。
(明治24年)9月22日 未明から雨はやんで、朝日の光がうっすらとさし(、太陽が)昇る頃、木々の梢や小柴垣(※こしばがき/小さい柴で結った背の低い垣)の隙間などに、露が玉を連ねたように見えるのも大変風情がある。稲葉さん(※稲葉寛)が来られた。伊勢利(※いせり/一葉の父則義在世中から出入りしていた知人。呼び捨て故商人かと思われる)が来る。昼過ぎ、中島倉子さん(※中島歌子の妹)から運送便で書籍が返却された。(※『源氏物語』の注釈書を貸していた)(お礼の)書状があった。日没前までに師の君(※中島歌子)の仕立物が終わった。黄昏時より雨が降りだして、今宵もたいそう降った。寝床へ入ったのは十二時であったけれども、(それからは何の勉強、読書もできずに)大方は居眠りばかりしていたことだ。どうしてこう忍耐力に乏しいのだろうか。そうはいっても勉強しようと思う気持ちがないのではない。筆をとれば物を書くことを願い、書物に向かえば読んで解(わか)ろうと思うのだけれど、志が浅く思いが至らぬせいであろうか、平凡な智恵、凡人の思慮(の私は)いよいよもって愚かで、分からないことは日を追って(※日がたつにつれての意)分からず、昨日覚えたことも今日は忘れてしまっている。女の踏むべき道を踏みたいと願ってはいるけれど、(※明治時代、女性の理想的な在り方は良妻賢母、要は結婚と家庭の中での幸福を指す。一葉の場合、樋口家の戸主であるから、よい婿をとって、自身は家事にいそしむことこそが「踏むべき道」であったはず。)それもなし難く、そうかといって、男の行う(べき)道をうかがい知ることなどなおさら出来ようはずがない。(※明治時代、男の道とは、学業を積み社会で身を立てる事。いわば立身出世。)このままで、挙句の果てはどうなるのだろうか。老いた親もおられる。この(親の)身の上が大変憂うべきありさまで、その上、適齢期の妹の(これからの)結婚と生活(を考えるとこれ)もまた大変気持ちが痛む。あれこれ考えると、(それは)ただ我が身の意気地のなさばかりに原因するのだ。いやもう、「過ちて改むれば」(※論語「子曰く、過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」より)という古語もあるので、明日からは(自分を改めよう)、と思うの(だが、そんな反省)も、今宵ばかりの事ではないのだ。
(明治24年)9月23日 空は曇ってはいるけれども、雨もまた降らなかった。今日は秋季皇霊祭(※現、秋分の日。歴代の天皇、皇后などを祀る祭儀があり、昭和22年まではこの名目の祝日であった。)であるから、隣の家から、強飯(※こわいい/もち米をせいろで蒸したもの。普通、小豆を入れて赤飯にする。)を吹かすことのできるものを借りて来た。家で牡丹餅(ぼたもち)などを調理して先祖の御霊(みたま)に献上した。(それから)いつもの仕立物を、師の君の元へ持って行った。帰ってみると、稲葉のお鉱(こう)さん(※稲葉鉱/一葉の母たきが、長女ふじを里子に出して乳母奉公に行っていた二千五百石旗本稲葉正方の養女。一葉らにとっては乳姉妹と言えよう。鉱は明治15年に稲葉正方の死亡により戸主を相続していた。鉱の入り婿が稲葉寛。正朔(しょうさく)が二人の間の子。また、鉱は当時34歳。明治維新後、屋敷を官収されていた。)が来られていた。昼過ぎからは野々宮さん(※野々宮きく子)が訪れた。一人は元旗本の家柄の(没落と生活の)困窮(明治24年7月21日の日記に、稲葉寛が、落ちぶれたら人力車夫にでもなる覚悟をした話がある)、一人は今の女学生の意気(盛んな様子)、(お二人の)話(の内容)もまた大変違っておられた。やはり浮世は面白くも、悲しくも、むなしくも、つらくも、あるのだなあと思われた。三時頃ひとしきり雨が降りに降った。野々宮さんが帰られるとすぐに、国子(※邦子)が、「吉田さん(※邦子の友達)に借りていた書物を返し(に行き)ます」と言うのに伴って、湯島まで行った。雲が漂いに漂って、空の様子は大変気がかりであったけれども、雨は降らなかった。家に帰ったあと(は、)することが大変多かった。今宵はそれほどには眠たくもなく、(日頃)思っていることが少しはできたようだ。寝床に入ったのは十二時過ぎた頃であった。
(明治24年)9月24日 今日はみの子さん(※田中みの子)がお引越しなさる日だと思うにつけ、「空よ晴れよ」などと昨日から願っていたところ、思っていた通りに(晴れに)なって大変嬉しい。国子(※邦子)が、家の障子の張り替えをした。昼過ぎ、お鉱さん及び本所(※地名/ほんじょ)の千村礼三(※ちむられいぞう/元稲葉家の家来か。本所で職工を使う何かの事業をしていた模様。稲葉はこの千村を頼って本所に移り、ある事業計画を立てたがうまくいかず、翌年3月には小石川の寛の実家に戻ることになる。)さんがお越しになる。いろいろな話が合って、母上に是非同道(※一緒に行くこと)してくれるよう頼まれるので、「それでは」と(母上は)連れ立って本所に行かれた。
甲州(山梨県)の広瀬七重郎(※ひろせしちじゅうろう/一葉の父則義のいとこ。当時、山梨県東山梨郡玉宮村在住。)が来る。同姓、広瀬ぶん(※広瀬七重郎の姪(めい)。)の犯罪についての上告(判決を不服として上級裁判所に審理を求めること)事件(※ぶんが、自身に下った判決を不服として上告した)のためだと言う。自分(※一葉)のためにも遠縁の身より(親類)なので、非常に気になって、「それはどういったことでしょうか」と言ってさらに問うと、(広瀬七重郎は)「言うのも大変恥ずかしく、きまりがわるいが、言わないで済むはずのものではないから」と言って、(次のように)語った。「自分の姪ではあるけれども、文(ぶん)はたぐいまれな淫婦(※いんぷ/ふしだらな女の意)ではあるだろう。夫を替えること既に六、七人にもなった。今現在連れ添うのは信州(※長野県)の種商人(たねあきんど/蚕種(さんしゅ)業といい、蚕(かいこ)の卵を和紙に産卵させたものを販売していた)で、小宮山庄司(こみやましょうじ)という男である。(ぶんが)この(男の)前に持っていた夫は、(自分と)同じ郡の北野象次(きたのしょうじ)という者であった。(北野と)縁が切れてから、今年で四年にもなるであろう。今度の(裁判の)原告は、とりもなおさずその男である。その(※ぶんの)上告書によると、ぶんとかの北野とは、いつしか再び寄りを戻し、昔の縁を結び直して、(今の夫の)小宮山からは離縁状をもらい受けて、元のように夫と呼ばれようと、並々ならぬ約束をしたとかいうことだ。
ところで、今年の四月半ば、(自分と)同じ郡の市橋(※地名だが、東山梨郡に市橋という地名がない故、未詳。)という所で、国内一とも思われる祭典(※国の県制がこの年の10月から始まるに先立って行われた祝賀祭典)があった。この日、甲府(※甲府市)の柳町三丁目に、山がた屋という旅館の二階で、彼ら二人(ぶんと北野)は酒を飲んでいちゃついていたのを、かの小宮山が聞き知って、『おのれ、どうして見逃すことが出来ようか』と、右手に一尺(※約30cm)ばかりの槍(やり)の穂先を携え、左手には麻の縄を持って、そこの座敷に躍り入った。二人は胆(きも)が体から離れんばかり(に驚いて)、どうか命だけでも助かりたいと、ひたすら伏し拝んで詫びていたところが、ちょうどその時傍(かたわ)らに、北巨摩郡(※甲府の北西)のなにがし村の伊藤寛作(いとうかんさく)という者があって、『あなたが助かりたいと思うのであれば、金の他には(助かる)手はないでしょう。自分がよろしく仲裁いたしましょう。』ととりなすのに従って、『命にかえる宝はない』と言って(承諾したが)、しかし、ここに(手持ちの)小金も持っていないので、そこで(小宮山への)百円の借用書をしたためてその場は(どうにか)すませた。そういうことではあったが、後から思うと、これは全く(ぶんと小宮山と伊藤の)三人が計画してやったことだと気付き、憤りがさらにいっそうはなはだしく胸に満ちて、そこで訴えを起こしたのだ、ということだ。
ぶんの答えは、またこれと違っていた。『それは何の根拠もないことで、かの北野象次郎(※北野象次)には、以前夫婦でありました時、私の服や調度品などを質草にされたもの七種もありましたが、その後にも小金でまた二十円ばかり貸しました。合わせれば百円余りのものになります。(私と小宮山を疑えばその百円に当たることになるので)その小金を返すまいと思って、こんな訴えを起こしたのでしょう。本当に(私は)無実でございます。また、かの伊藤寛作とやら、(私は)全く顔を見たこともございません。」と(ぶんは)陳述した。小宮山は何処へ行ったのか、影すら見えないので、全くどうしようもない。伊藤寛作も、『ぶんという人は全く知らない』と言う。そうではあるが、『その日そこ(山がた屋という旅館)の宿帳にはまさしく寛作の名前も記されていたのはいかがであるか』というわけで、ついに(三人は)有罪と事が決まった。恐喝詐欺取財(※きょうかつさぎしゅざい/取財は財産をかすめとること)と決定した。けれどもぶんは全く承知せず、『これは道を間違っています。道理に反しています。』と言って、ここに上告することになったのだ。」(と広瀬七重郎は語って、続けて、)「憎いものではあるが身より(親族)は身よりだ。こんなことを見聞きするのはどうにも耐えられないので、すぐに(山梨から)東京にたどり上って、弁護は守屋此助(※もりやこのすけ/当時一流の弁護士であった)さんに依頼した。昨日いろいろと相談して、公判は今日開かれたのだ。今日は事実の取り調べのみで終わって、(結果の)申し渡しは明後日十六日だと聞いている。言うのも恥ずかしい(限りだ)。」とうち嘆かれた。しかし、この方も、道徳を明らかにして暗い所に(隠した不名誉をも)恥と思うということわざ(※正しくは「暗がりの恥を明るみへ出す」/隠しておけば知られずに済むような不名誉なことをわざわざ世間に知らせるという意味)ではないけれど、そうはいってもやはりまだ、そのような素性のよくない罪を(おぶんさんは)まだ身に負っていないのではなかろうか。(※まだ上告の判決が出ていないのではっきり罪だと決まったわけではないのだから、まだ恥だと思うのは早い、というほどの意)今宵はここに泊まって、夜通し守屋さん(※弁護士)の申し立てなどを話し明かした。
(明治24年)9月25日 晴天である。小石川の定例の月次会(※つきなみかい/萩の舎の例会、通常毎月9日であった。)が、今月はたいそう延びて今日の催しになった。師の君(※中島歌子)はいつも体がおつらい頃(※血の道か)なので、自分に「早くから来られたし」とおっしゃられたお言葉もあったので、十時頃から行った。この時に七重さん(※広瀬七重郎)も決めておられた旅館に一度帰られた。(萩の舎の)来会者は十八、九人だっただろう。点取(※てんとり/歌の点数を競う催し)は「秋の鳥」という題であった。甲乙(※最高得点と次点)は伊東の夏子さん(※伊東夏子。一葉の親友)と、自分との二人であった。賞品には立派な柿の実をくださった。家に帰ったのは日がだんだん暗くなる頃であったから、母上が途中まで迎えに来られた。今夜お鉱さん(※稲葉鉱)から葉書が来た。とても疲れて今宵も早く就寝した。
※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ( )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※ )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(小学館)