現代語訳 樋口一葉日記 4 (M24.7.17~M24.8.10)◎土用三郎、上野の伯父さん、山下直一大病、邦子の蝉表、安達の伯父さん、図書館、帰り道の風景と出来事
無題(※「わか艸(くさ)」という題の詠草入れの余白に書かれた日記で、日記そのものの題や署名はない)
(明治24年)7月17日 みの子さん(※田中みの子)の月次会(※つきなみかい/月1回開かれる歌会)である。昼少し前から家を出る。道案内だとおっしゃって、母上も(一緒に)お出になる。高等中学校の横手の坂を下っていると、雨が少し降ってきた。空は薄墨のような雲がだんだん重なっていって、「やがて夕立が降るだろう」などと、道行く人も言っていた。真下まき子(※先述の真下専之丞(ましもせんのじょう)の次女。専之丞は一葉の父則義の祖父の知己で、則義とたき(一葉の父母)とが江戸に出てきた時に二人を助けてくれた恩人。)の墓が谷中(※地名)なので、母上とともに墓参りしているうちに、空はますます暗くなって、雨はいよいよ強く降ってきた。ここで母上とお別れ申し上げ、みの子さんの家はすぐその向かいの道だったので、ただちに(みの子さんの家に)行った。集会者は十人ばかりであった。
(明治24年)7月20日 今日は土用の入り(※立秋の前の18日間を夏の土用という。本来、立春、立夏、立秋、立冬それぞれに土用はあり、季節の変わり目を意味し、土いじり、引っ越しなどを忌む。夏の土用は例年7月20日頃から。)という。土用三郎(※夏の土用の一日目を土用太郎、二日目を次郎、三日目を三郎と呼ぶ。土用三郎の天候でその年の豊凶を占う習慣がある。)とかいうが、「この三日ほどの天気は(農)作物にはなはだしく関係するものだ」ということで、人々は空を仰いで(あれこれと)思い悩んでいるようだが、朝から空は暗く曇って、昼過ぎる頃から少し雨が落ちて来た。さしあたっては、何事も思わないけれど、ことわざ(というもの)は大変わずらわしいものだ。そのためであろうか(※雨が降ってきたことを指す)、今日は風が冷ややかで、とても過ごしやすい。
(明治24年)7月21日 朝より雨が降る。昼を少し過ぎてから稲葉さん(※稲葉寛(いなばかん)。一葉の母たきが乳母奉公していた稲葉家の養女、鉱(こう)の入り婿。)が来られる。「いよいよ落ちぶれてしまったら、車をひくことにしよう。(※人力車の車夫。当時の人力車夫は下層民の仕事であった。人がまるで牛馬の仕事をしているように見られた。)」と話す。悲しいことが大変多い。五時頃帰る。その夜地震がある。五分間ばかりで止んだ。夜に入って、雨はますます降る。この夜、新聞の号外が来る。(現東京府知事の)蜂須賀(はちすか)さんが貴族院議長になり、富田鉄之助さんが(新たに)府知事になる。
(明治24年)7月22日 朝から雨。今日の新聞に、下田歌子さん(※しもだうたこ/日本女子教育の先駆者。実践女子学園の創始者。歌人でもある。)が、加納さん(※当時の文部参事官)の元へお輿入れ(※おこしいれ/嫁入りの意)されたとあった。(※実際はこれは誤報であった。)午後一時頃、師の君(※中島歌子)から葉書が来る。縫物の依頼であったので、すぐに行って、品物を持ってくる。夕刻まで縫物をする。(※このように、一葉は生活費を得るために師の中島歌子からも裁縫の仕事をもらっていた。)日が暮れてから、国子(※一葉の妹、邦子)とともに通りまで買い物に行く。今宵は毘沙門(※実際は本郷薬師)の縁日だったので、はなはだすごい雑踏だ。女郎花(おみなえし)、朝顔などの植木(を売る店)も、とても多く目に映った。帰宅後、雨がだんだん降りつのる。久保木(※久保木長十郎。一葉の姉ふじの夫。)から魚を少しもらう。今日(久保木が)釣りに行った(時)の(釣果(ちょうか))である。
(明治24年)7月23日 朝から空は晴れて、日の光が大変暑い。午前のうちに浴衣を一枚縫い終わった。昼過ぎから上野の伯父さん(※上野兵蔵。一葉の父則義は江戸に来て真下専之丞に助けられ、しばらくその下で働いたのち、勘定組頭の菊池隆吉の中小姓(※ちゅうごしょう/小姓は主の身辺に仕え、雑用を請け負う職。)の地位を得る。その際同じ山梨の上野兵蔵を名義上の弟として附籍(ふせき)し、仕官先を世話した。実際の血縁はない。附籍とは、血縁がなくとも、養育される者が養育している者の戸籍に入ることが出来る制度で、明治19年に廃止。)がいらっしゃる。昼飯を出す。いろいろなお話があった。四時過ぎに御帰宅された。夜になって、野々宮さん(※先述の野々宮きく子。きく子は菊子と書く。一葉の妹邦子の友人で、半井桃水を一葉に紹介したのも彼女である。当時は東京府高等女学校に通っていた。)と吉田さん(※邦子の友人。明治24年4月21日にも野々宮きく子と二人で景物のことで樋口家を訪れている)が来られる。野々宮さんは学校の試験休みだとのこと。十一時に帰宅された。今宵は(裁縫の)夜なべをせずに終わった。
(明治24年)7月24日 晴天。午前中に掻い巻き(※かいまき/うすく綿が入った袖付きの着物の形をした掛布団。部屋着としても使える。)の綿入れをする。午後から西村さん(※先述の西村釧之助)、菊池のお政さん(※一葉の父則義が仕えていた菊池隆吉の奥方。菊池隆吉はこの2年前に死去。)が来られた。西村さんは三時、奥方は四時ごろ帰宅される。菓子折りをもらう。日没。針仕事を終わる。この夜は一時に床へ入る。
(明治24年)7月25日 晴天。今日は小石川の稽古である。昨晩仕上げた縫物に、火のし(※今でいうアイロン。ひしゃく型の金属製の器具で、中に炭火を入れて底部を加熱し、布のしわをのばす。)などをしてから出かける。田町(※地名)より車(※人力車)を雇って行く。今日は少し遅刻したようだ。すでに四人ばかりいらっしゃった。昼頃皆帰宅された。二、三人残って、(歌を)もう一題互いに詠みあう。三時頃帰宅する。頭が大変痛く、どうしようもなく苦しいので、今宵は十時に床へ入った。(悪い)夢に襲われて、怯えたりなどする。頭が痛かったせいだろう。
(明治24年)7月26日 不忍池(※池の名。しのばずのいけ)の蓮、(と)入谷(※地名/いりや/朝顔の栽培で有名)の朝顔、いま時分花盛りという。
(明治24年)7月28日 昼は晴れ、夜になってから雷雨はなはだしく、十一時ごろには屋根を貫かんばかりに降る。(夜も)更けてからか(ようやく)止んだようだ。
(明治24年)7月29日 空は名残なく晴れて、少し風さえ吹きつのって、とても過ごしやすい日である。昼過ぎ、母上が神田へ行かれた。その頃からまた空が曇り出して大粒の雨が降ってきた。(母上が)お帰りになった頃にはまた晴れた。夜十時頃よりものすごい雷雨になる。
(明治24年)7月30日 今日の新聞を見ると、一昨夜横浜は大雷雨であったという。東京だけではなかったのである。地方では大水が出た(※洪水のこと)模様である。非常に恐ろしいことだ。大変心配になる。きょうは春木座(※はるきざ/前年火事で焼失し、この年9月に再建した歌舞伎の劇場)の棟上げ式だ。昼過ぎよりあとは浴衣を縫う。夕刻には大方出来上がる。三枝信さん(※三枝信三郎(さえぐさしんざぶろう)/真下専之丞の孫。専之丞の長女とみ子(※先述真下まき子の姉)の長男。とみ子は三枝家に嫁していた。)が来る。母上いつものように土産物を(三枝さんに)あげる。夜になってまた雨が降る。
(明治24年)7月31日 晴天。浴衣が縫いあがる。午後から書きもの。明日小石川の稽古なので、この夜は一時まで起きていた。(※<書きもの>とは小説ではなく、田中みの子の例会の時の歌の清書。また、萩の舎では毎週歌の宿題があった。)
(明治24年)8月1日 晴天。朝六時半に家を出て小石川に行く。まだ誰も来ていなかった。師の君(※中島歌子)としばらくお話をして、お菓子などをいただく。(師の君から)この次の仕立物を頼まれる。(萩の舎門人の)友達たちは八時頃に揃った。大方は避暑に赴かれていたので、集会者も多くはなく、十人ばかりであった。(歌の)お題は二つ。午後二時頃皆帰る。そのあとでまた(師の君と)しばらくお話して、三時頃帰る。前島さん(※先述の前島菊子。郵便の創業者前島密(ひそか)の娘。)から小説本『むら竹』(※饗庭幸村(あえばこうそん)の小説集。)及び『涙香小史』(※涙香小史は黒岩涙香(くろいわるいこう)の筆名。この頃出された小説集か、翻訳書かと思われる。)、十二冊借りる。この日佐々木さん(※佐々木東洋。中島歌子の主治医で、佐々木医院を経営。)代理の岡村さん(※佐々木の代理の医者)が来る。師の君に貸し置いていた吸入器の(返却の)催促である。その所在がはっきりせず、(師の君は)大変当惑されていらっしゃった。きね女(※きねじょ/中島家のお手伝いさん)が、お暇をもらって、里へ帰ると言う。それでも師の君はそこまで不自由を嘆きなさる様子はなかった。我が家へ帰ったのは三時過ぎであった。いつものように、(自分は)小説気違いだけあって、この夜十時まで(小説に)とりついてばかりいて10冊ほど読んだ。(我ながら)馬鹿げた行いであることだ。国子(※邦子。一葉の妹)は今日関場さん(※先述の関場悦子。邦子の友達。夫は医師、父は有力な名士であった。)のところで反物を貰う。幾度となく取り出しては眺めているのは、(やはり)嬉しさ(からで)あるようだ。この夜、山下次郎(※樋口家は明治2年8月から3年間、内幸(うちさいわい)町一番屋敷の官舎に住んでいた。その内幸町時代に埼玉の人、山下直一(やましたなおかず)という書生が寄宿していた。その弟が山下次郎。この時、次郎は父信忠(のぶただ)と共に埼玉県熊ケ谷から上京して、直一の看病のために直一の下宿にいた。)が来る。直一さんが大病とのこと。夜具を仕立ててもらいたいとのことである。
(明治24年)8月2日 晴天。母上、山下の見舞いに行かれる。九時頃稲葉さん(※稲葉寛)来る。午後山下信忠さん(※山下直一、次郎の父)がいらっしゃる。直一さんが病気につき、母上に(何か)相談でもあるように思われたけれど、(母上が)留守なので、何度も(夜具などの)依頼をして帰られる。母上は四時頃帰宅された。
(明治24年)8月3日 晴天。稲葉さん(※稲葉寛)が来られる。姉上(※一葉の姉、ふじ)が来られる。母上、岩佐(※蝉表内職の元締めの名か。蝉表(せみおもて)とは、下駄の表の地で、籐(とう)の皮を細かく編んだもの。一葉らは生活のため内職でこれを作っていた。邦子が上手だったという。)へ行かれる。昼過ぎ、母上が界隈の子供に物をあげる(※何かは不詳)。大喜びであったとのこと。国子(※邦子)は、当節、蝉表職の中では一番の腕前との風評がある。(※母が岩佐にそう言われたと推測される。)「今宵はいつもより酒がおいしい」とおっしゃって、母上大いにお酔いなさった。国子(※邦子)と二人で湯島(※地名)へ買い物に出かける。山鹿(※呉服屋の名。山加屋。)で切れ(※布の切地)を買い、中島屋(※紙屋の名。一葉の用いた原稿用紙、半紙、罫紙はここで買われた。明治25年頃から金清堂と称した。)で紙を求め、かね安(※小間物屋(女性の化粧品、装飾品、はみがきなどの日用品を扱う店)の名。兼安。)で小間物を買いそろえる。日が暮れて帰る。
(明治24年)8月4日 早朝、稲葉さん(※稲葉寛)が正朔(しょうさく)さん(※稲葉寛と鉱(こう)の間の子。当時6歳ほど。)を連れて押しかけて来て、「(この子を)預かってくれませんか」と言う。「それでは今日一日なら」と言って預かる。(※稲葉寛は引っ越しのため正朔を預けたらしい。)午後、母上は、山下さん(※山下直一)のお見舞いに行かれる。
(明治24年)8月5日 朝、小雨が降る。まもなく晴天。稲葉さん(※稲葉寛)来る。「正朔を今日の夕方まで預かっていてほしい」と依頼する。午後、江崎牧子(※先述の乙骨まきのこと。結婚して江崎姓となり、岐阜県に住んでいた。)から葉書が来る。国子(※邦子)とともに安達さん(※安達盛貞。一葉の父則義からの知人で元菊池家に仕えていた官吏。前述の<上野の伯父さん>と同じように附籍されていたことがある。上野同様、実際の血縁はない。)のところに暑中見舞いに行く。脳病(※頭痛)の話をしたところ、安達の伯父さんは、「くれぐれも読書や作文などはしないように」とお話しされる。「脳は神経が集中するところなので、病気はそこにとどまらず、余病を引き出すこともある。あるいは充血して不測の禍(わざわい)を生ずることもあるだろうから、たいしたことがないうちに十分に養生しなさい」とおっしゃって、ご自身を例にひいて諫(いさ)められた。承って帰った。「夕餉を食べてゆけ」などおっしゃったが、「不忍池の蓮が見たい(ので)」と言って早めに帰る。不忍池の記録は(また)別に記す(つもりだ)。帰り道は池之端(※地名/いけのはた)をめぐって大学(※東京帝国大学)を通り抜けて帰る。五時過ぎであった。この夜、稲葉さん(※稲葉寛)がまた来られた。明朝まで正朔(さん)を置いてもらいたい由言う。
(明治24年)8月6日 晴天。早朝より運動(のために)と思って、界隈を散歩する。帰って、家の周りを掃除する。
(明治24年)8月7日 昼は晴れ。夜になってから雷雨。土用明けとのこと。この夜は徹夜。
(明治24年)8月8日 早朝、師の君(※中島歌子)より手紙が来る。「この二日間、腸カタルで腹痛耐え難いので、今日(※土曜日で、萩の舎の塾がある日)の塾はお休みにしたい」ということであった。(師の君)ご依頼の浴衣も出来上がっていたので、直ちにお見舞いに行く。「たいしたことはない」と(師の君は)言う。「また綿入れを仕立てておくれ」と一枚頼まれる。帰宅したのは九時頃であったので、「これから図書館に行きたい」と思って(家を)出た。
空は一片の雲もなく、焼けつくような太陽の光、煙かと見える(ほどの)大通りの砂ぼこりなど、暑いといったらない。大学を通り抜けて池之端へ出た。茅町(※地名/かやちょう)のほとりから蓮の清らかな香りが遠くから香って、気持ちもすがすがしくなった。「ひろごりたるはにくし」(※『枕草子』からの引用。柳の葉が広がっているのはいやだ、の意)と清少納言が言った夏の柳が、岸辺になびく姿も涼しげで、まして、水の面が見えないばかりに咲き満ちている紅白の蓮が、吹き渡る風に(その)葉裏が裏返って見えるのも楽しい。蓮根(はすね)取りの船(※蓮の地下茎がレンコン。食用。)がつないであるのが、これだけはあってほしくないと思う。競馬場(※当時、不忍池を周回する形で競馬場が作られていた)の柵が結ばれているのは、とても見苦しく、興ざめだとはじめは見ていたが、古びてところどころ壊れていたりしていたので、少し気分がなおったように思うのも(私の)ひねくれた心なのだろうか。東照宮(※上野東照宮。不忍池の近くにあり、徳川家康を祀った神社)の石段を上る際に、さっと吹き降ろす風に杉の下露(※したつゆ/木から滴り落ちる露)がこぼれ落ちるのも涼しい。ここだけは、決して夏と感じられないのだなあ(と思う)。図書館(※東京図書館。二階建ての閲覧室と三階建ての書庫があった。閲覧室は1階が男子専用。2階に婦人席と特別閲覧室があった。図書館の利用法は現代とは大きく違っていて、まず入り口で求覧券を購入(有料であった。一回三銭程度か。)中に入ると看守所で求覧券を閲覧証に交換。そして蔵書の目録が置いてある所まで行き、その目録を開いて読みたい本の書名、その本が置かれている書庫の棚の番号などを調べ、先の閲覧証に自分の住所氏名職業などとともにそれを記入し、出納(※すいとう/物の出し入れのこと)所の係員に渡す。係員がその閲覧証をもとに書庫から本を持って来てくれるのを待つ。名前を呼び出されて本を受け取ったら閲覧室で読む、というものであった。現代のように閲覧室と書庫がほぼ一体となっていて各自で本を探して自由に読むというスタイルではなかった。)はいつも大変狭い所へ押し入れられるから、さだめし暑さも耐え難い事だろうと思っていたが、軒が高く窓が大きいからであろうか、吹き通る風が何となく寒くまでなるのは、大変嬉しい(ことだ)。いつ来てみても、男性は大変多いけれど、女性の閲覧者がほとんど一人もいないのは不思議なことだ。(まあ)それもそのはずで、多くの男性の中にまじって、(読みたい本の)書名を書き、(目録で書棚の)番号を調べたりして(出納所に閲覧証を)持っていくと、「これは間違っている。もう一度書き直して来なさい」などと言われたら、(恥ずかしさで)顔が熱くなって体も震えてしまうだろう。まして、(周囲の男性に)顔を見られ、(ひそひそと何か)ささやかれなどしたら、(身も)心も消える様になって、びっしょりと汗に濡れそぼって、文献を調べる心地もなくなってしまうに違いない。(※だから図書館に女性は少ないのだろうと一葉は言っているのだが、当時の女性の社会的地位の低さ、それと切り離せない「恥じ」の感性がうかがえよう。)今は代言試験(※弁護士(当時は代言人と言った)になるための司法試験のこと)も近づいてきた頃であるとかで、法律書を調べる人がとても多い。(今日は)思うままに本を借りることが出来て、読みに読んで、長い一日ももはや夕暮れ時になったのだろう、(図書館の)庭の(木の)梢にひぐらしが声高く鳴いて、入相(※いりあい/暮れ方の意)の鐘がかすかに響き、窓に差しこむ夕日の光も少し薄くなった。(閉館の時間だと)知らされて部屋(※女性の閲覧室)を出ると、大方(他)の人も帰っていた。本を返して(図書館の)門を出ると、からすが群れてねぐらへ帰る姿さえ見え始めていた。母上が、「今日は早く帰りなさいよ。夕べは一晩中眠っていないのだから、体が疲れてしまってはつまらないでしょう。」と何度も何度もおっしゃったことを忘れたわけではないけれど、大変遅くなってしまった。「さあ、近道をとって谷中(※地名)より帰ろう」と思って(谷中に)来る。西日がだんだんかげってきて紅(くれない)の色だけを(空に)残して、(通りで)「明日も晴れよ(※あした天気になあれ)」と小さな女の子が歌う声も、道を急ぐ身には気ぜわしく聞こえてしまう。床机(※しょうぎ/横長の腰掛け)というものを表へ並べて、洗った浴衣の糊の利いたものを着て、うちわで胸のあたりを扇(あお)いでいる人は、今行水を終わったところなのだろう。十歳くらいの女の子が、(何か)白いものを(体中)まばらにつけて、三歳くらいの子の、汗もができたのか(天花粉で)頭ばかり大変白くしたのを背負って歩く姿も愛らしい。片町(※地名)というところの八百屋に新芋(※しんいも/早生(わせ)のサツマイモ)の赤いのが見えたので、土産にしようと思って少し買った。道を急ぐと汗びっしょりになって、目にも口にも流れ入るのを、ハンケチで拭(ぬぐ)い拭いして、しまいには少し痛くさえなってしまった。日は薄暗くなったけれども、(自分の汗まみれの姿を)人に見られるのもはばかられて、日傘はそのままかざしていた。空橋(※からはし/陸橋のこと)の下を通っていると、若い男で、書生(※しょせい/学業を修める学生のこと。また、他人の家に寄食して家事などを手伝いながら勉学する学生のこと。)などであろうか、(数人が)群がって(橋の)欄干(らんかん)に寄りかかって見おろしていたのが、ひそひそと何か言って笑っている。知らん顔をしてそのまま急ぎに急いで通ると、皆等しく手を打ち鳴らして、品性下劣にも、「こっちを向き給え」などと言う。(一体)どういう気持ちで(そんなはしたないことを)言うのだろうか、書の一端をも読む人の所業かと思うと、不審な気持になった。家に帰ると、母上は外に出て(私を)お待ちになっておられた。妹は夕餉の支度に忙しそうであった。「ただいま帰りました」など言っているはしから、「さあ帯を解きなさい、着物を脱ぎなさい。暑かったでしょう。疲れたでしょう。湯もわいているから浴びて来なさい。」と、(母上が)余すところなくおっしゃっるので、ありがたくも、嬉しくも思われて、汗まみれの麻衣(※あさぎぬ/麻織物の和服)を脱ぎ捨て、湯あみをして上がると、(母上は)洗った白い着物を出して、「(お前が)留守の間にこれを洗っておいた(よ)。着替えなさい。」とおっしゃった。妹は、「姉上、見てごらんなさい。姉上がお好きでいらっしゃるものをご用意しましたよ。薩摩煎り(※さつまいり/
煎り米に、あずきと刻んだサツマイモの煮たものをまぜて、醤油と砂糖で味付けしたもの)もこしらえておきました。さあ、夕餉(の時間)です。」と言って、勧められたが、空腹で長い道のりを巡ってきたので、たださえひどく飢えていた私には、いずれもおいしくないものはなく、ゆったりとくつろいで食べてしまった。
(明治24年)8月9日 江崎牧子さん(※先述の元、乙骨まき)へ返事を出す。甲府(※山梨県甲府市)の伊庭(いば)さん(※樋口家の友人、伊庭隆次。郵便局員。)ならびに北川秀子さん(※邦子の友人。雑貨商の娘。)へ、はがきを出す。国(※邦子)の帯を一本仕立てた。昼過ぎ、植木屋が御用聞きに来た。そこで建仁寺垣(※けんにんじがき /割竹を皮を表に平たく並べて、縄で結いあげた垣)を結うよう申し付けた。(※この<申し付>という言葉に、樋口家が士族であるということの矜持(きょうじ/プライド)がうかがえる)「明日から参りましょう」と言って(植木屋は)帰った。洋傘(※いわゆるこうもり傘。和傘に対しての西洋傘のこと。)を二本(布地を業者に)張り替えさせる。一つは甲斐絹二重張り(※かいきふたえばり/織物の名称。すべりよく光沢があった)、一つは毛繻子(※けじゅす/織物の名称で実用向き)の普段持ち用である。両方で一円十銭という。
(明治24年)8月10日 早朝より植木屋が来る。
※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ( )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※ )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(小学館)