我が痔との闘争
あれは12才の時です。
風呂に入っている時、肛門付近に心当たりのない突起があることに気がつきました。
それが我が痔との闘争のはじまりだったのです。
それまで大きな怪我も病気もなく、ピンチといえばハイハイしていた頃に掘りごたつに落ちてしばし行方不明になった位のことですくすくと育ってきました。
思春期の入り口であり、中学受験と反抗期のコラボを絶賛繰り広げていた私は親に痔のことなど相談できるはずもなく一人胸に抱えて生きることを選びました。
親に打ち明けたのは実にこの18年後のことです。
中学生になると家からも駅からも離れたドラッグストアへ自転車を走らせることがありました。生理用ナプキンや痔の軟膏など、購入するのに気恥ずかしいものを買うためです。
高校生のある日その店で市販の軟膏を購入しようとしたところ、レジのバイトが小学校の同級生でした。
その女子は小学生の折りには子供会の班長でありながら広場でのカレー作りを平然と離脱するような危険人物でした。あまつさえ中学生時分には、よりによって図書館正面入り口前で堂々とタバコを吸うという大胆不敵な振る舞いをしていたのです。
そんなインモラルな人物から痔の軟膏を買わねばならなかったのです。
私は「おじいちゃんのための塗り薬ですよ」みたいなツラをして会計に挑みました。
しかし、地元なので“誰々のおじいちゃんはもういない”などの情報も周知されているのです。
彼女は何年も交流のない私を私と認識したかわかりません、それほどノーリアクションでした。しかし接客の最中に同級生に出くわしても気づかないふりをするなどよくある話で、彼女がドラッグストアのレジ係としての守秘義務を守る保証など前途の事情からありません。
当時はまだドラッグストアの店舗も多くなく、おこづかいの中から軟膏を買うのに交通費をかけていられなかったので他の店へ行く選択肢はありませんでした。「地元での評判など切り捨てよう、とにかく私は今日それが欲しい」とあらゆる恐れを葬り無の心になりました。
このように大して効きもしない軟膏をリスキーな状況で入手して痛みを誤魔化し、尻に突起を秘めて暮らしていたのです。
大学生になりお酒を飲むようになると痔核が台頭し、腫れ上がることがありました。
渋谷のカラオケ店で「ちょっとトイレ!」などと告げて皆に背を向けた私の心中には"尻の突起がいまどんなにか腫れ上がっているだろう"という懸念だけがあり、まさに孤独な戦士でした。
トイレの個室で患部を見るわけではありませんが、見なくともわかります。痛々しく熱をもって存在を主張するその姿が。「あぁ、やっぱり」という諦めと「この問題に出口はあるのだろうか?」という強い不安。解決できない悩みが胸の奥で人知れず赤く腫れて疼いていました。
振り返ってみると小学校、中学校、高校、大学と私のスクールライフにはいつも痔がありました。
社会人になってから痔の日帰り手術をしている或る病院へ行きました。一般に普及して数年経った頃のインターネットで見つけたクリニックで、当時の手術費用が『14~18万』とホームページにありました。
その額を出すのは容易ではありませんでしたが、「手術するかしないかよりまず診察を受けてみよう」と初めての肛門科の扉を叩きました。
驚愕したのはそこのトイレです。無駄にベルサイユ風の豪華な造りでその設備投資っぷりには目を見張りました。
診察室で出迎えた医師に至っては蝶ネクタイを着けています。
それを見た瞬間「こいつは信用ならない」と直感しました。
蝶ネクタイをして痔の日帰り手術で儲け、マリー・アントワネットも訪れそうなロココ調のトイレを設える。そんな医者に私の尻の治療をまかせることはできないと思ったのです。
そうはいっても雨の中はるばる横浜線に揺られて南多摩地域まで来たので、一応診察のために尻をさらけだしました。
この時が私の初めての肛門・直腸診でした。
婦人科より恥ずかしかったけれど、そこを乗り越えた私は人として一歩前に進んだ気がします。
衣服を整えた私に、医師は裏紙にボールペンで図を描いて説明をしました。
「ここがお尻の穴でここにおしもがありまして……」
性器周辺のことを"おしも"と呼ぶのかと驚きました。
その響きは今も心に残っております。
ふりしきる雨の中、私は宮殿と見まごうトイレを有する肛門科を後にしました。
処方箋薬局ではじめて市販ではない痔の軟膏を受けとりました。
それは木工用ボンドのような匂いと色でした。そしてあまり効かなかったのです。
後年同じ薬であろう軟膏をやはり処方されましたが、その時は抜群の効果がありました。
処方した医師への信頼があるかないかはここまで薬効に影響するのでしょうか。
時は流れて27才のある夜。
先輩に頼んで連れて行ってもらった海軍居酒屋で私はセーラー服を着て海軍式の敬礼をし、艦長(店のママ)に写真を撮ってもらっていました。
数日後にこの新橋の街にある肛門科での日帰り手術を控えていました。
いま振り返ると新たな船出のための敬礼だったような気もします。
その肛門科は兄がお世話になったところで「ここは手術件数こなしてるからいいよ」と勧められた、駅前のオフィスビルにあるクリニックでした。
兄はこれよりも以前に痔瘻の手術を受けることを公表していたので、流れで「実は私も……」とカミングアウトしていました。長年ひた隠しにしてきた秘密の告白ですが実にあっさりとしたものとなりました。術後7日の入院を余儀なくされる痔瘻という大横綱の前では、長年温存しておいた末に日帰りで除去できるいぼ痔などせいぜい小結止まりだからです。
この頃友人たちにも打ち明けていました。
もつ鍋屋で「そういうわけで術後はしばらく酒は飲めない」と気さくに述べると友人らも「私も」「実は…」と情報開示し始めました。
私は通っているクリニックを彼女達に教えました。こうして肛門科の輪は広がっていったのです。
10代の頃より隠れキリシタンの如く秘し隠してきた痔。大人になってさらけ出してみれば仲間がいました。皆孤独な戦士だったのです。
ある同僚に至っては出産のときの会陰切開で医師が腸まで切ってしまい、膣から便が出て来てしまったという「それはるかに上回るやつやん」的過去を公開してきました。
さて、運命の当日です。
「手術室ってどんなところ?」と思っていましたがそこは書類用のキャビネットがあるような事務室然とした一室でした。ストレッチャーに乗って入室し、入ったドアのすぐ側にそれを停め、なんとそのままオペが行われました。想像よりはるかにカジュアル、むしろ"オフィスカジュアル"と表現したい風情です。
麻酔は仙骨硬膜外麻酔で、自分からは見えない背中側から注射をします。
その麻酔を打つ瞬間が怖くて「好きな人のことを考えれば怖さもふっとぶ」という『ジェリーインザメリィゴーラウンド』(安野モヨコ)の一節を思い出し、咄嗟に宝塚のスターを思い浮かべました。
「好きな人ということで浮かんだのがタカラジェンヌでいいのか?」と、ゴリゴリの異性愛者で一応世間的には適齢期でもあった私は別の意味で不安になりました。
ちょうど今テレビにジャニーズWESTの重岡大毅氏が映っています。
もしその頃重岡氏を知っていて好きであったなら、これからまさに15年物のイボ痔を摘出するための麻酔時に彼の人を思い浮かべたでしょうか。
「ああ……重岡くん、顔からイメージする声と実際の声にギャップありすぎるよ……」と思いながら肛門科で顔を伏せたでしょうか。
答えは新橋のガード下の嬌声にかき消えるばかりです。
手術中は何の痛みもありません。おそらく縫合していた時ですら「なんか腰より下でごそごそやってんな」程度で先ほどのような恐怖もありません。
摘出したものを見せて欲しいと言ったら看護師さんが見せてくれました。
ゴム手袋をした手のひらに載せられたそれは、ある人気のおつまみに酷似していました。これを読んでいる皆さんがその食品を食べる時これまで通り美味しく召し上がって欲しいので、それが何か記すことは自重します。
ともかく手術は無事に終わりました。
看護師さんによると、「麻酔をかけてから患部を見たら前回の診察時より大きく腫れていた。正直入院レベルだったが先生がなんとか摘出してくれた」とのことでした。
ストレッチャーは狭いクリニックの廊下をスーッと滑るように走り、すぐ隣の回復室へと入りました。仕切りのカーテンの内側に停めて点滴をし、そのまましばらく休みます。おぼろげですが確かベッドに移らなかったのだと思います。合理的すぎるほどに合理的だと感心しました。
いつの間にか大人用紙オムツを着用しているという本来インパクトのあるはずの状態でしたが、他に衝撃がありすぎたのか印象に残っておりません。
「病院の廊下って段差がないんだなぁ」と先ほどのストレッチャーの滑らかな移動を思い出していました。本当に車輪が小さな段差を乗り越えた感触すらなく、宙を浮いているのかと錯覚したほどです。術後の回復もこのようにするすると順調に進むものと信じていたのでしょう。この時は。
日帰りなのでしばらく横になってから徒歩と電車で帰ります。
まっすぐ帰ればいいものをこの日他フロアで働く男子に「携帯の充電器貸して」と言われ、「一駅だからいっか」とわざわざ虎ノ門の勤め先に寄ることにしました。
麻酔も切れ始め段々痛くなってきたところに同僚男子はやってきました。
歩き方が少しおかしい私に「どうしたの?」と訊いてきます。
「ちょっと今日手術してきたの……」とだけ言って去りました。
日帰り手術。
おいそれとは追及できない情報を充電器と共に残して来てしまいました。
15年共に暮らした肛門の突起と別れてきたとは言えません。
さて、“術後こそ肝心”という言い伝えは痔の手術においても全くその通りでした。
自宅にはウォッシュレットがなかったので会社の別フロアのトイレへ移動し孤独な戦いに挑んでいました。
それはいつも15時頃に訪れました。
私は手術してまだ癒えきってない繊細なゲートと語らうように、腸が送り出すべきものを無事送り出すよう努めました。そして何より祈ったのです。
当時『臨死!江古田ちゃん』(瀧波ユカリ)にハマっていたので作中のアメリカ人仏教徒サムを思い浮かべました。サムがブッダに祈るのにならって、大いなるブッダに自分とその手負いのゲートの安全を祈りました。
腸の蠕動と宇宙の鼓動は一つ、そんな境地に至ったものです。
当時の心の支えはアメリカ人仏教徒サムと痔瘻経験者の兄でした。
兄に「毎日会社のトイレでブッダに祈ってるよ、こんなことなら日帰りでなく入院すればよかった……」とメールで泣き言を言うと「ブッダか、辛いわねぇ」と返してくれました。
同病相憐れむ。兄弟のいるありがたさがこれほど沁みたことはありません。
小学校のパン工場見学で私がもらってきたパンを食べたられた恨みも5%くらい和らぎました。
狭量な私が人を許すことを学んだ。まさに“病が人を育てる”でありました。
さてここからの話はいっそう尾籠になります、ご容赦ください。
日帰り手術の当日だけ有休をとればいいと想定していたのに、経過がよくないので会社を休む羽目になってしまいました。当時の私は痔とは別の病気のため服薬しており、その副作用でひどい便秘になっていたのです。
術後はそれを解消する薬が痛み止めとともに処方されていましたが効果が足りませんでした。結果出るべきものが出ずに術後の痛手を負っているゲートを圧迫し、先へも進めない後にも戻れない膠着状態になってしまいました。
「いっそ高いところから飛び降りたら全部無しになるんじゃないか……」
そんなことを考えてしまうほどに痛かったのです。
『どうやって食べていくつもりだ?』という風に、人間は口から食べることの方に気を取られてしまいます。
しかし、実は口から食べるのと同じくらいに、スムーズに出すべきものを出すことが大事なのです。それができるのは本当に有難いことであったと痛いほど身に沁みました。
音を上げて手術したクリニックに行くと、医師は手袋をした指で私の内部の滞留物を確認し「あーこれは粘土状でかたいねぇ」と告げました。
溶ける予定の縫合糸もまだ溶けてはおらず、医師が指を動かすのに合わせて糸がつれる。致し方ないとはいえ傷が強く刺激され、それはこれまでの人生でもっとも痛い医療行為となりました。
その直腸診の時、カプセル状の下剤を入れてもらいました。
「しばらくすると柔らかくなって出てくるから」と言われ、待合室で待ちます。
すると本当にそのとおりになった予感がしてトイレへ向かいました。
そこも広くて立派なトイレでした。肛門科はトイレに設備投資するのです。ただし、いつぞやのベルサイユ風ではなく新橋のサラリーマン達を静かに受け入れるニュートラルでシンプルな空間でした。
私は下剤という援軍を得て戦いに勝利しました。
この天下分け目の関ヶ原以降はひどい便秘もおさまり、私の肛門付近の戦後復興がなされていきました。
酒を飲んでは腫れ上がることに怯えた日々は終わりました。
彼氏と東北旅行に行って冷えで腫れ上がり、こっそりカイロを貼ってボラギノールを塗り、ひきつった笑顔で取り繕った日は過去のものとなりました。
もう会社のトイレでブッダに祈りながら上半身を激しく揺すり、切れたセンサー付き照明の光を取り戻すこともないのです。その様子は踊ることで神と一体となるスーフィズムにも似ていました。
もうどこへ出しても恥ずかしくない、突起のないゲートなのです。
勿論私も貞操観念と幾ばくかの恥じらいを持っているので本当にどこへでも披露するわけではありません。
しかし12才の頃から一人抱えていた突起が無くなりこざっぱりとしたプライベートゾーン、そこを祝福したい気持ちであふれていました。
こうなるともはやそれを『凱旋門』と呼び、讃えたい。
そこから数年の時が経ち、30歳となった私は転職の合間の優雅なフリータイムを楽しんでいました。
有楽町イトシアでハンドバッグを物色していた時です。
実にシティウーマン的な過ごし方をしていた昼下がりに、平和だったはずの凱旋門に異変を感じました。腫れ上がっていてとんでもなく痛かったのです。
痔核は取り除いたはずなのに、まさか取り残しがあったのだろうか?
青天の霹靂に動揺しながらも京浜東北線で新橋に移動し、手術をした肛門科へ向かいました。
「一駅のところで発症するなんて不幸中の幸い……」と自分をなぐさめました。
戦況を見て即時最適な判断をするのが戦士です。
さっきまで若い女性のショッピングスポットに居たのに20分後には新橋リーマンの肛門駆け込み寺にいました。
診察が始まると『血栓性外痔核 通称:血豆』という診断がすぐに下りました。
「原因は過労です」と医師。
過労。
働いている時に過労と言われたことなどないのに辞めてふらふらしている今過労と言われるとはどういうことでしょうか。
私は言いました。
「また手術をしてください」
医師はかぶりを振りました。
「手術したとしてもまた再発します。よく休んで血行をよくすることです」
私は絶望しました。
この血豆、イボ痔より痛い。
死ぬほど痛い。
凱旋したはずの門に核弾頭を抱える生活に転じたのです。
私は円座クッションの購入を決めました。しかしAmazonで届くのを待っていられません。
なんとか徒歩圏内で見つけて即座に買って帰れないかと探しまわり、ついにしまむらで円座クッションを見つけた時にはこのファッションセンターに騎士の忠誠を誓う勢いでした。
『円卓の騎士』ならぬ『円座の騎士』というわけです。
「イカれたのは尻だけではないのでは、気の毒に……」とお思いになるかもしれませんが、尻に血豆を抱えた者にとって円座クッションは救命浮輪にも等しい命綱です。
なにせ“バスタオルを丸く輪にしてビニール紐で縛り、浮き輪型にする”といった急ごしらえの代替品ではまったく患部を守れなかったのですから。
この円座クッションはもう出番がなさそうにもかかわらず今もクローゼットで退役生活を送っています。
軟膏が処方されましたがそれは痛み止めであり、血豆を治すわけではありません。
過労状態の身体を休めて血行をよくするほかありません。冷えは大敵です。
忘年会のシーズンは過労、飲酒、冬の冷えでサラリーマンが肛門科のドアを叩くことも多いそうです。
血行をよくするために半身浴をし、下半身を冷やさない。十分な睡眠。無理をしない生活。そうやって私の血豆はだんだん萎んで癒え、最終的には引っ込みました。
パターンを覚えた私は状況に慣れていきました。
一、二年に一回肛門に血豆が出来たからとておそるるに足らず。
私にはしまむらの円座クッションと軟膏があるじゃないか。
この二つは肛門戦士にとって盾と矛です。
何より助けてくれるのは自身の経験からくる自信。
私はもう肛門の出来物に怯えない。
ある年の6月また血豆ができました。
ちょうど夏至の日にヨガ教室のキャンドルナイトを予約していました。
いつもそんなオシャレな過ごし方をしているわけではありません。
たまたまヨガに行きたくなり予約しようとしたらそんなスカしたイベントをしていたのです。
蓮の形のキャンドルライトの中、リラックス度の高いポーズをゆったりと行います。これなら血豆経過観察中の私でも大丈夫であろうと二子玉川のヨガスタジオに向かいました。
お香の香り、キャンドルのゆらめき、インド音楽、そんな安らぎの空間の中で体勢を動かしたときです。
私の肛門付近でブツッとした感触がありました。
血豆が破裂した。
すぐにわかりました。
事件現場付近が気になりつつもキャンドルナイトの空気を壊すのが忍びなく、青ざめたままヨガを続けました。大丈夫。万一出血していても薄暗いし誰にも見えていない。
終了直後トイレへ駆け込むと予想通り血豆は破裂して出血していました。が、もともと萎んで癒えていくところだったので大きな被害はなく、患部保護の為下着にシートを貼っていたので血は留まっていてくれました。
安堵しました。ヨガの最中よりこの瞬間の方がほっとして、「神の平安とはこのことか」と思ったものです。
破裂してその後どうなったかいうと、血止め効果のある軟膏のおかげでそのままそっと治っていきました。
そしてその後血豆発生も新たな痔核の台頭もなく、現在に至るまで太平の世が続いています。
いまでも蓮のキャンドルを見るとあの夜の最終決戦の鮮やかな血の色を思い出します。
漫画の名言を頼りに宝塚の贔屓を思い浮かべてみたり、ブッダに祈って宇宙を感じてみたり。果てはスーフィズムに思いを馳せもして、随分心の旅をしてきたものだと感慨深くもあります。
しかしながら争いに終止符を打ったのは、ヨガの後に自分の中にある平和を感じたことなのやもしれません。
みなさまの肛門にも幸多からんことを。