風邪と仏壇。
仏壇の中というのは何故あんなにも独特の籠った匂いがするのか。
そして、そんな中に何故年寄りは物を仕舞うのか。
ドラッグストアの棚にはアセトアミノフェン系の解熱剤が充分な数揃っているようだった。ニュースによると新型コロナウイルスの第7波が急拡大しているために、解熱・鎮痛剤のカロナールが不足しつつあるらしい。私はロキソニンが飲めない体質なので、これだけ店頭在庫があるなら一つ買っておこうと小さい箱を手に取ってレジに並んだ。
子どもの頃風邪をひくといつも祖母が居間にある金茶色の大きな仏壇から薬を出していた。
普段は近所の人も「あぁ…」と納得するほど恐ろしい祖母でも、子どもが病気をした時は優しい。怖くない、と言った方が正確かもしれない。
まず仏壇の左の引き戸を開けて整腸薬・ミヤリサンの細粒を出してくる。何十年も線香の匂いを焚き染められて、もはや“仏壇の匂い”としか形容できないものになっている。
ミヤリサンの入っている反対側には終戦から時が止まっているかのような古い木製の救急箱があって、その中の赤チンも独特の匂いを放ち、線香の移り香と共演していた。箱の内側の赤チンのシミが血の跡に見えて、もしかして祖父と共に従軍して戦地で兵士の治療の際に使われたのではないかと思ったものだ。年季の入った包帯や鈍色になったピンセットが子供心に怖かった。
ミヤリサンを祖母がスプーンで一匙すくって私の口に入れるので、私は即座にそれを水で飲み込む。この甘い、不自然なほど黄色いつぶつぶした粉を飲むといつも「あぁ、『風邪』が始まるな…」という気持ちになった。
次はキヨーレオピンというニンニク抽出液の出番だ。にんにくというよりは薬品らしい強い匂いが鼻にツンと来る。仏壇の複雑な香りの一端を担っているのだろう。茶色いとろみのある液体を付属のカプセルに注いで閉じて飲む。カプセルに入ってからも若干匂いがして嫌なので、多めの水で一気に飲んでいた。
このキヨーレオピンを祖母は崇拝していて、私は風邪の時だけだったが4つ上の兄には幼少期から毎日飲ませていた。そのせいかは知らないが兄は子どもの頃から吹き出物が多くて、母は「おばあちゃんがキヨーレオピン飲ませるから!」と憤慨していた。
この長男たる兄へのキヨーレオピンの注ぎっぷりから祖母にとっての跡取りの重要性が伺える。実際、日頃の兄と私の扱いの差に傷つくことも多々あった。しかし、この強烈な臭気の滋養強壮剤に関しては羨ましさがまったく無く、兄の背負わされた十字架のようで気の毒に思えた。
ミヤリサン、キヨーレオピンに続いて真打ちの風邪薬・パブロンの登場である。順番からして『真打ち』だが、本当の真打ちは翌日以降かかりつけ医でもらうシロップ薬や錠剤であって、これは一応願掛けで飲んでおくといった風情だった。
パブロンというこだわりがあったわけではなく別の商品だったこともある。「これでなんとか治まってくれたら…」という大人である祖母の祈りを子どもである私も同じように込めて飲むが、結局翌日も高熱が下がらず医者に行くことになる。
仏壇の前で定番の三種の薬を飲むといよいよ和室に敷かれた布団に移る。横になると祖母が小さめのお盆に水を入れた急須を載せて持ってくる。これを吸い飲みのようにして、注ぎ口を直接私の口に入れて水を飲ませる。「水をたくさん飲めば熱が下がるだわ」と自分にも私にも言い聞かせるように唱える。
思えば大正5年生まれの祖母はこうやって水を飲ませて熱が下がるのをひたすら祈る場面に多く立ち合ってきたのかもしれない。
私が生まれ育った昭和の終わりでも、子どもが風邪をこじらせて結果的に仏壇の中に納まってしまうなどという急転直下の悲劇はそうそうなかったと思う。しかし祖母の生きた時代、それは十分あり得ることであった。
朝食をとる時仏壇にあげられた朝の線香の煙が食卓に充満するので、私はそれが居間にあるのが心底嫌だった。しかし祖母にとっては仏壇の中にいる夫や写真となった父母、過去帳に記された先祖こそが側に居てほしい人たちであった。
仏壇にしみ込んだ線香の煙のぶんだけ彼岸の家族が恋しくて拝み、此岸の家族の平穏無事を祈ってきたのだろう。
私は薬箱にしているプラスチック製の書類棚に先ほど買ってきた解熱鎮痛剤を収めた。どうかこの薬の外箱を開けなくて済みますように。この薬を飲む時は速やかに効いて、すんなりと回復しますように。
薬がしまってある棚がそのまま拝むための仏壇というのは実に合理的であった、と気づいた。
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