石田城
石田城は新城市石田字西金国にある豊川沿いの城です。
右下を流れる豊川と左を流れる野田川に挟まれた台地状に存在しています。
豊川沿いの河岸段丘には多くの城が作られており、豊川右岸は城銀座とも言える状況で、城が作られまくった結果、新城(しんじょう)ができたと思ったら、さらに新しい城ができちゃったので区別して新城(しんしろ)と呼んだことから、新城市と書いて(しんしろし)と読む事態になっています。普通「しんじょう」と読む場合が多いんですよね。
ところでこの石田城、戦国時代でも後期、徳川家康が関東に国替になり池田輝政が吉田(現在の豊橋市)に配置された際、家老の片桐半右衛門一長がこの地に配置され築いたとされます。この一長、実子がおらず輝政の弟子、恒興の四男の長政を養子にしていたことから、片桐家は主家の血筋になっているとか。
城のそのものは単郭方形とされており、100m四方の城とされています。
この城は巨大な土塁があり、堀だったであろう現在の畑部分とのコントラストはなかなか立派です。
以前訪れた時は整備されていたのですが、どうも最近は手入れがされておらず、荒れ放題になっていました。(2022年9月22日現在)
いや、これでは内部がわからない!歩くにも歩けない。結構この辺りマムシも多いですし、最近ではマダニもいますから、とても恐ろしくて突撃できません。
ところでこの石田城。せっかく城を作った割には城下町や武家屋敷の区割りが認められないそうです。ただし、古地図では城専用の河岸や地域が利用する河岸が城に隣接する豊川沿いにあったようです。元々野田城の城下町であった場所(現在の横浜ゴム新城工場)が近いですし、奥平家が利用していた新城城(現在の新城小学校)は廃城とならずに存在しており、片桐氏時代に領内に2城あったことが片桐家の特殊性として指摘されています。領主輝政の弟が跡を継ぐ家であったことが大きいように思えます。
この近くには武田信玄最後の城攻めとなった野田城や長篠の戦いの立役者奥平信昌の新城城など派手な経歴を持つ城が多くありますが、その中間となる場所に、むしろ関東移封後徳川家の影響を消すことを期待された池田家の城が存在している訳です。結果的に、慶長5年に関ヶ原の論功行賞で池田家は姫路へ移封され、天領となったため11年で城の歴史は終わったようです。
ちょうど豊川の渡河点だった石田地区なので豊川の水運を考えて築かれたのでしょうかね。
ちなみに、地元にちさと郷土研究会が、この城を見やすく整備できないか検討をされていますので、今後が期待されます。
参照:「中世城館跡調査報告Ⅲ(東三河地区)』1997年愛知県教育委員会 164頁
『千郷物語』2022年6月ちさと郷土研究会 120頁
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