朝倉宗滴の自負と卑屈
母親の死去に伴い実家の片付けなどしすると、物が多くて大変。自分も整理しなければ、と、古い服や過去の資料などを廃棄。返す刀で大量に蓄積した本を売る。ただ、積読の本をそのまま放出するのは勿体無いので、通勤時間に読んでたのが石井進氏の『中世武士団』(講談社学術文庫)です。
鎌倉殿の十三人の功績
この本、曾我物語からスタートします。しかし、鎌倉時代は、さまざまなゲームや漫画になってる戦国時代より馴染みが薄く読んでもイメージが湧かなかったので積読になっておりました。
これを打破してくれたのが昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」。
三浦義村といえば山本耕史が、上総広常といえば佐藤浩一が、八田知家といえば市原隼人が頭に浮かぶので人物像を把握しやすくなった訳です。それで読み始めたら抵抗感なく読み進めるこちができ、今回無事読破と相なった訳です。
本の内容
武士団の発生がどうだったか、というのが本の問いです。
主君と家臣の関係で、イエの支配権が強固で家臣団が主君に従いつつも一族内部は家臣団で決めている関係から、総領家を争う中で、主君による総領の裁定を依頼することが多くなり、徐々に主君が家臣団内部に介入できるようになり、最終的に鉢植大名となっていく点に着目して書かれています。
本筋と関係ないのですが、おお!と、思ったことに「相殺(そうさい)」があります。よく過失相殺とか法律で使ってますが、寝取られてしまった人が間男を殺すことは昔から認められていたものの、密通した妻の殺害を間男一族側が要求して、大乱に発生しそうになってしまい、結果室町幕府は「相殺の論理」により解決を図り判例化していったと書いてありました。「相殺」って深く考えずに使ってましたが、まさに文字通りの意味からスタートしてたんだと感心した訳です。そして、NTRって昔からあるんだな、ということも…。
朝倉宗滴の自負と卑屈
マイナー武将ながら、信長の野望の早い時代でやたら強い武将、というイメージの朝倉宗滴。なんとなく一条谷で滅亡した越前朝倉家には最後の当主義景の優柔不断さと相まって柔弱なイメージがありますが、越前兵は応仁の乱初期などは強兵で知られてました。
「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つ事が本にて候」
と言って、朝倉家の軍事一切を取り仕切って加賀一向一揆を寄せ付けず、79歳の最期まで戦場におり死去した猛将です。犬と言われようが畜生と言われようが勝たにゃ意味なし、という勝ちにこだわる成果主義!現代の企業でも勝ち残れることでしょう。
そんな宗滴は、俺は常に用心して戦に負けない、と、思いつつも、80にもなって戦場に出るてるのは主君へのおべっか使いだと陰口叩かれるけど、主君あっての自分なので総領に這いつくばいたいくらいだ、と、言ったとか。
この言葉に対し、筆者は
宗滴の自負と、それとうらはらのこの卑屈さ。その背後にはなんらかの深い理由が隠されているのではあるまいか。
との問いを投げかけます。
おお、確かに。
朝倉宗滴の出自と経歴
そういや宗滴についてそんなに深く知らずにいただけに、読み進めると、元々、宗滴は越前朝倉氏を確立した英林孝景の子で、正妻の子どもだったそう。仮名の小太郎から推測するに本来後継候補でありながら、家がガタついてて幼い子には跡を継がせられないため庶長子(?)氏景が相続。その子貞景の代に大規模な謀反が発生し、その際、当初は反乱側に付きながら土壇場で当主貞景に寝返り、武者奉行の職と敦賀の領地を得たそうです。結局自分の子はいながら当主家から養子をもらって跡を継がせようとしていたそうです。
本来ならば自分が当主だったかも、ということや、一度裏切って寝返ったという後ろめたさが、宗滴の自負と卑屈になったのではないか?という説を本書では唱えています。
まとめ
今回は、宗滴の話を読んで、へぇ!と、思ったことが書く発端です。戦国時代に詳しい人なら知ってる話かもしれませんが、私は名前と信長の野望で強いけどすぐ死ぬ、くらいしか知らなかったので、思わず書いてしまった次第です。忠臣というイメージだっただけに、意外と複雑な背景持ってて用心のためだったのか?とか、宗滴の人物像が深まりました。そして、もいつの世にもNTRが絶えない、ということも気になってしまった。どうでも良いですけど。
小説とかではないので、とっつきにくいとは思いますが、ご興味のある方はこちら👇