見出し画像

吉田城堀下隊に参加して来た!

2025年1月18日(土)午前10時から、吉田城の堀下隊の整備活動に参加して来ました!
前回体調不良で欠席してしまい今回が3回目。今回は血圧とかの薬を医者に貰いに行ったため気持ち遅刻。こういうルーズな参加も可能だと良いですね。そして、参加が3回目になると記念の缶バッチがもらえる!


ボランティア活動内容

高校生らしき集団

相変わらずすごい人数。大都市だと学生参加があるのが大きい。過疎地だと、学生さんの交通手段がないのが悩み。また、近くの企業からボランティアの方が参加しており、やはり数はパワーだと、実感。

この写真の後も、人、人、人。

作業は1時間ほど。人数が多いのであっという間に大量の枯れ枝やら落ち葉やらが集まり、ゴミ袋が足らないくらいです。

途中の段階でこれだけ。最終的にはもっと多い。

150人弱の参加者を収容してしまう吉田城。さすが政庁機能を備えた巨城。作業後のお楽しみは学芸員さんによる解説。ボランティア参加者にとってのご褒美タイム。

学芸員さんのガイドタイム

学芸員さん、盛り上げる、盛り上げる。芸人か?というレベル。

吉田城の堀と第二次世界大戦

巧みな話術に引き込まれる

上の写真は第二次世界大戦と吉田城の解説。
豊橋空襲で戦災瓦礫が出て、捨て場所に困り吉田城のお堀に捨ててしまったので、写真の学芸員さんが立っている場所あたりが平地になってるけど、ホントは深い堀だった、とのこと。話が堀並みに深い。

石垣のおかげで堀の形状がわかりやすい

堀いろいろ

まずは本丸への土橋下で堀の形状に関する説明。
ここは火縄銃にも対応した幅広に作られた箱堀(逆台形の箱型)。火縄銃の射程距離に合わせて、堀の幅を広げると傾斜がなだらかになるので箱型になる点を現地で実感。

ちょっとわかりにくいけど石垣の石の形状が異なる。

この箱堀が池田輝政時代に築かれたことが石からわかるとか。
上の写真の左側は、遠方から運んできた花崗岩。右端が豊川周辺で取れる石だそうです。江戸時代に崩れた石垣を直したものが花崗岩側で、元々全部豊川の石で作ってたそうで、箱堀が池田時代とわかるとか。
その後、今回綺麗にした薬研堀へ移動。

箱堀と異なり狭い!

V字形状の堀が薬をゴリゴリと潰す薬研(やげん)と呼ばれる機材に似ていることから名付けられた薬研堀。こちらは鉄砲出現前の堀。狭いので一列じゃないと歩けない。武器の性能が城を守る形状に影響するということを一つの城で説明できるのが素晴らしい。

横矢掛けで攻撃される

土塁に沿って進む。テニスやってる人からすると不審者だ。

攻撃するポイントを増やすために堀を屈曲させてるポイント現地で説明。贅沢だ。

学芸員さんの後ろが突出部

上の写真は、豊川から侵入して薬研堀を移動して来た敵(写真右側)と当時の大手口(写真左奥の照明灯のあたり)の2ヶ所に同時に睨みを効かせるために突出している場所とのこと。
ちなみに大手口は酒井忠次時代は東側、池田時代は南側の現在の場所になったそうです。この辺りは解説があるとすごくよく理解できます。

次回も参加したいぞ

しっかりと説明していただき、ちょうどスピーカーの電池が終了直前で切れるというオチもついてました。
城機能の解説で、城への理解が深まり愛着も湧きます。次回も整備活動参加しようという気になるものです。
次回、皆さんと現地でお会いできたらうれしいですね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集