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中世東海道の風景って、どんな感じだったのか?

 古本とカフェ、というオサレな店に行った際、歴史関連の本が充実していて歓喜する。その時、ふと目に入ったのが榎原雅治氏の『中世の東海道をゆく 京から鎌倉へ、旅路の風景』(中公新書)です。帯に「鎌倉時代中頃、旅人の目の前にはこんな景色が広がっていた」と、ありました。城だ戦だ暗殺だなんだと歴史のことが気になりますが、風景ってあまり気にしたことないですが大事。こんなところに城?と、今見ても、当時は海が近くまで来ていた、となれば意味が異なってくる。風景を具体的に考える助けになるなら、と、読んでみました。


干潟を歩くということ

 新田義貞が鎌倉を攻める際に稲村ヶ崎で宝剣を海に投じたら潮が引いて攻め込めた、という話や親不知海岸の悲話を聞いてはいましたが、一体なぜそうなるのか、あまり深く考えたことはありませんでした。本書では、京都と鎌倉を往復しまくった飛鳥井雅有という公家の日記を基に旅行の状況を教えてくれます。名古屋市に鳴海という地区がありますが、当時は有名な干潟。潮が引くのを待つため熱田で遊んで、引いたら渡っている描写があるそうです。一方、山際をいくルートもある。現在鳴海は完全に陸地になっており、それこそ毎日通勤で通過してるので、陸路をいくイメージしかない。なぜ干潟を待つのか?
 干潟が現れると直線で最短距離を行くことができる。ただし、干満の時間と日没の状況を考えて、足が遅ければ潮が満ちてきてしまう、あるいは日没が早い時期だと暗くなってしまうため、山を行くルートもあった、ということのようです。
 なるほど!
 干潟を歩く、ということの具体的な方法は、あまり考えたことなかった。歩いてる途中で潮が満ちてきたら恐ろしい。夜になっても困る。潮待ちするにもその辺りを勘案して遊んでいた訳で、うまく時間が合わなければ遠回りで高低差もある山ルートを取らないといけない、ということだったようです。

川砂の堆積が殺人を引き起こす

 美濃と尾張の国境を流れる大河木曽川。砂の堆積等に酔って河川の流路が変わってしまうことが度々あり、しかも水の行き先が塞がれたことで尾張方面に洪水が発生するようになってしまったとか。それで困った尾張の役人が太政官に開削してもとの流路に戻させて欲しいとお願いをしたところ認められ、もとに戻したところ、美濃国の役人が兵700で襲ってきて尾張の郡司に乱暴を働き川の水が血に染まった、という話が『日本三代実録』に記録されているとか。
 川では堆積物によって流路が変わる、という風景的な話でしたが、血の雨が降ったという恐ろしい話のインパクトが過ぎすぎて…。私も生まれ育ちは川の近くで、私の出身中学を含め、付近の中学は皆荒れていたことを思い出しました。水の恨みは怖いですよね。

天龍川と大井川

 静岡県にある天龍川と大井川。どちらも大河で有名です。天龍川は 別名「暴れ天龍」と呼ばれていたとか。天龍川は幅300メートルくらいで流れも速く深かったようです。舟で渡って転覆とかしたそうです。一方、大井川。こちらは小さな流れが3キロとか続くようで、渡渉していたそうです。同じ大河でも様相が違うんですねぇ。舟で渡る川もあれば、歩いて渡って行く川もあったんですね。ちなみに天龍川は今では上流に佐久間ダムができたことですっかり暴れん坊から穏やかになってます。

テンリューガワ?、テンチューガワ?

 この天龍川、昔は天中川と呼ばれており、天龍に変化したようにも見えるようです。天龍と天中が入り混じってる。これは一体どういうこと?という考察もしてくれています。どうも中世の日本語の発音と関係しているそうで、「てんちう」と書いて「テンテュー」「デンデュー」と昔は発音してたようです。そのため、徐々に日本語の発音が変化する中で、「チューというよりリューだよね。」と、なってったんじゃないか、という話もあります。

とにかく目から鱗だった

 極めて面白く読ませていただきました。今回ご紹介した以外にもたくさん面白い話が載ってます。中世の風景に想いを馳せながら歴史を考えるには最適。特に私のように東海地方に住んでる人間には知ってる地名だらけで馴染みがあって、豊川市のよく通る場所に古宿という地名があって気になってましたが、これも東海道のルート変更に伴っていた、とか、わかる。宿の考察もしてたり、色々と目から鱗の話が一杯でした。
 私は大変楽しく読みました。ご興味のある方は👇


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