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色彩を持たない彼の話
村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。
主人公である多崎つくるの周囲にはなぜか、名前に色を持ち、内面も個性的な人物が多い。名前と個性、二重の意味で「色彩を持たない」多崎つくるの物語。
読み始めてすぐに思ったのは、村上春樹が希死念慮を書くとこうなるのかぁ、ということ。
大学二年生の七月から、翌年の一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。
書き出しの一文。ここから約三ページ半にわたって、死にとり憑かれた精神状態について、いくつもの比喩をまじえながら語られる。この三ページ半だけでも読む価値があるし、高校の国語の教科書に載せてほしいくらいだ。
希死念慮というのは、一部の人々にとっては、非常に身近なものだと思う。常にそこにあって、上手くやり過ごしながら、時に戯れながら共生している。
性欲に似ている。公共の場ではあまり表に出さないし、個人差も大きい。村上春樹は性欲を真正面から書くことが多いから、同じ性質を持つ希死念慮を書くのも上手いのかもしれない。エロスとタナトスを書くのが上手いということ。
正直なところ私は自分が女性であるせいなのか、性欲についての描写は共感できる部分が少ない。(え、なんでそこで抱き合うの?)(その行為ってそんなに重要?)と読みながらツッコミを入れているうちに、しらけてしまうことも多い。でも、希死念慮の描写は共感というか、共鳴する部分があった。
多崎つくるが激しい希死念慮に見舞われたのは、高校時代の仲良しグループから、ある日突然関係を切り捨てられたことがきっかけだった。なぜなのか理由が分からず、グループ内の関係が密でありすぎたがゆえに喪失感も大きかった。
彼は他の四人のことが心から好きだったし、そこにある一体感を何より愛した。若木が地中から養分を吸い上げるように、思春期に必要とされる滋養をつくるはそのグループから受け取り、成長のための大事な糧とし、あるいは取り置いて、非常用熱源として体内に蓄えた。
私が時折、自分には人として何か大切なものが欠落していると感じるのは、思春期に同年齢の仲間と密な関係を築けなかったからだと思っている。それが理由のすべてではないかもしれない。でも、理由の一部にはなっているだろう。思春期に学校生活をどう送ったかは、人格形成に大きな影響を与えているはずだ。
仲良しグループのメンバーとは別にもう一人、多崎つくるは名前に色を持つ人物と出会う。灰田という名前の、大学の後輩。この物語のなかで個人的に一番好きな登場人物だ。つくると灰田の会話シーンは静かで知的で心地よい。
「純粋に思考するというのは考えてみれば、真空を作っているようなものかもしれませんね」
「自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体という限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる。論理に自然な生命を与える。それが思考における自由の中核にあるものです」
灰田の話のなかに登場する、緑川という人物と灰田の父との会話も印象に残る。
「才能というのはな、灰田くん、肉体と意識との強靭な集中に支えられて、初めて機能を発揮するものだ。脳味噌のどこかのネジがひとつ外れ落ちてしまえば、あるいは肉体のどこかの結線がぷつんと切れちまえば、集中なんぞ夜明けの露のように消えちまう」
「たしかに才能は儚いものかもしれません。それを最後まで支えきれる人間は少ないかもしれません。しかしそこから生み出されたものは、時として精神の大いなる跳躍を生み出します」
この世に生まれ落ちた人間は誰にでも、何かしらの才能があるのだと思う。でも、「肉体と意識との強靭な集中」によってその才能を開花させることができるのはほんの一握りの人だけで、彼らは時に天才と呼ばれる。
村上春樹の作品のなかでは、わりと普通の話かもしれない。一人の平凡な男(平凡だと本人が思っているだけなのだが)の、人生の話。
ミステリー的な要素もあって、先が気になってどんどん読み進めてしまう。読み切ったところですべての謎が解き明かされるわけではなくて、そこがまたリアルだなあと思った。