おじいさんと孫
少し湿っぽい朝の風が木漏れ日をやわらかく揺らしている。
おんボロ軽トラックに据え付けられたカウンタ―席で、あったかいラテを飲みながら、私はいつものようにオーナーのマイちゃんの話に耳を傾けている。
3年前、コロナで失業したその翌週から、この路上に折りたたみのテーブルとプラスチックの椅子を置き、カフェを始めたマイちゃん。タイだからといって、街中の路上で誰でも自由に商売ができるとは限らない。場所によっては問題が発生することもある。しかし、誰もが見えないウイルスに怯えて家から出られない中で、周りに住む人たちも、20歳そこそこの若者の行動力に、手伝う人はいても追い出す人はいなかった。私も彼女に勇気付けられた客のひとりである。
価格は市内の一般的なカフェの平均に比べ、とても良心的なのにもかかわらず、当時から一切値段を上げずにがんばっている。今では外国人観光客も来れば、学生や配送アプリのバイク運転手、日雇い労働者まで、いろんな層の客が入れ替わり立ち替わり大勢やってくる。
そして、ここへ毎日コーヒーを飲みに来る常連客たちは、自然とお互いに知り合いになり、路上のコーヒースタンドの木陰には、ちょっとしたコミュニティが育まれている。
コーヒーを飲みながら、マイちゃんから最近のお客さんの噂話を聞いていたら、バイクが一台、店の前に停まった。スタンドなので、テイクアウトのお客さんも多い。なかにはバイクに乗ったまま注文する人もいるので、このお客さんもきっとテイクアウトだろう。
運転手は60代後半くらいのおじさんで、座席の前に据え付けた小さな赤い椅子に、まだあどけないかわいい男の子を乗せている。バイクはごく普通のカブだが、男の子に直接風が当たらないよう、透明なアクリル板の風除けが取り付けてある。
おじさんはエンジンを切るとバイクにまたがったまま、タイ語の北部弁で親し気にマイちゃんと話し始めた。
男の子はその間、ハンドルに吊り下げてあるカラフルな毛むくじゃらのゴム人形を、引っ張ったり押したりして遊んでいる。人見知りをする年頃なのか、恥ずかしがってなかなかこちらを見ない。
マイちゃんが、「サワディー・クラップ(タイの男性版こんにちは)」と男の子に声をかけて、男の子にも挨拶を返させようとする。おじさんも、「ほら、サワディー・クラップと言ってごらん」と催促するが、男の子は黙ったまま、ゴム人形をびよーんびよーんと伸ばしているばかりだ。
名前は何ていうの? と私が聞いても、恥ずかしそうにうつむいている。代わりにおじさんが、「マーウィンです」と、元気に答えてくれた(笑)
「マーウィン。ドラえもんって、知ってる? わたしはしずかだよ」と、ややサムイ冗談を言ってみたが、男の子はちらっとこちらを見ただけで、声を聞くことはできなかった。
「最近のタイではね、幼い時からyoutubeやゲーム漬けになって、ちゃんとコミュニケーションができない子供が増えてるんだよ」とマイちゃんが言う。
だからこのごろは普通の幼稚園でも入る前に面接試験をするところもあるらしい。その試験では、入園前の子供の言語の発達状態を確認するだけではなく、両親とも面接をして、親の考え方や生活習慣が学校の方針とあまりにも違う場合は、入園を断わられることがあるという。
もう4歳になるというマーウィンもまだ話ができず、自分の名前さえ言うことができないというのだった。
リンリンとベルを鳴らしながら、アイスクリーム屋のバイクがカフェの横を通りかかった。
おじさんはマーウィンの耳元で、ほら、アイスクーム屋さんがきたよ、食べたいかい? と、話しかけている。
…..。
そうかい、まだお腹がいっぱいなんだな。じゃあ、公園に行ったら一緒に食べような。
たとえマーウィンが何も答えなくても、おじさんにはちょっとした仕草で彼の気持ちが分かるらしい。
この子は今、幼稚園でABCを習ってて、それは上手に言えるんだよ、とおじさんがうれしそうに言った。
そして、マーウィンに、
Aの次はなんだっけ? と聞くと、
マーウィンは小さな声で、ビーと答えた。
おじさんはこれからマーウィンを連れて旧市街にあるブアックハート公園に行くのだという。そんなに大きな公園ではないが、噴水のある池や小さな子供が遊べる砂場や遊具もある。よく見ると、小さく畳んだゴザがバイクの荷台に括り付けてあった。池の畔にゴザを敷いて、のんびりするのだろう。お孫さん想いの本当にやさしいおじいさんだ。
このおじさんの職業は、「 ロッデーン」というチェンマイの街を走っている赤い乗り合いタクシーの運転手で、仕事の合間の休憩時間は、よくマイちゃんのカフェスタンドで休憩をしているらしい。
この辺はお昼過ぎにもなると、おじさんのようなタクシーや配送アプリの運転手達の憩いの場所になっている。中でもこのおじさんは、人柄が良くて誰とでも楽しく話をするので、この辺の人たちはみんなが彼のことが好きなのだとマイちゃんは言う。
「おじさんはおばさんと二人で小さな下宿の経営もしていてね、マーウィンの家族は、おじさんのアパートの住人なんだよ」
というマイちゃんの説明に、一瞬、あれ?っと思った。
「え? ‥‥ てことは、 この子はおじさんのお孫さんじゃないの? 」
「そうだよ、血は全然繋がってないんだよ」
マイちゃんは、さも普通のことのように言った。
おじさんは実の孫のように可愛がっているし、マーウィンの方もよく懐いているので、私はてっきりお孫さんなのだと思い込んでいたが、全く赤の他人だというのだった。
マイちゃんの説明によると、マーウィンの両親は、隣国ミャンマーから移住してきたタイヤイ(シャン)と呼ばれる人だという。北部タイでは、この移民の人たちが農業や建設現場、工場、食堂の皿洗いなど、あらゆる日雇い労働に従事して、実質的な経済活動を支えている現状がある。
マーウィンの両親は、そんなタイヤイコミュニティの中で、かなり有名な歌手なのだという。毎晩、夜のレストランのステージなどで歌っているので、昼夜が逆転した生活となり、昼間寝ている両親の代わりに、幼稚園の送り迎えも含めて、ずっとおじさんがマーウィンの面倒をみているらしかった。ひとりにしておくと、マーウィンは部屋で携帯の動画ばかりを見て過ごすことになってしまうからだ。
そして、普段の会話はというと、両親はタイヤイ語で、面倒をみているおじさんは北部弁で彼に話しかけているという。タイヤイ語もタイ北部の言葉に近いと言われながらも、だいぶちがう。私は北部弁はなんとか聞き取れるが、タイヤイ語は聞き取れない。ちなみに、タイ語(標準語)と北部弁は似ているところもあるが、単語自体が異なっていたりする。これだけでも、幼い子供にとってはかなり複雑なのだが、それに加えて、幼稚園ではおそらくタイ語(標準語)と北部弁、英語の授業まであるのだ。そんな言語環境の中で、マーウィンは単語を聞き取ることはできても、どの言語で話せばいいのか分からなくなっているのかもしれないと、マイちゃんは心配そうに言った。
「母親はおじさんに少しは子守のお礼を払っているみたいだけど」と、マイちゃんは続けた。
おじさんはマーウィンがほんのよちよち歩きの頃からロッデーンの運転席の隣に彼を乗せ、まるで本当の孫のように面倒をみてきたらしい。 お昼休みになると、マイちゃんのカフェの隣の木陰で休憩するおじさんに、チェンマイ人の主食であるもち米なんかを食べさせてもらいながら、マーウィンは大きくなったのだ。マイちゃんをはじめ、カフェの常連客もみんなでこの男の子の成長を見守っているのだった。
タイには子供をかわいがる人が多い。自分の子や親族、友人の子に限らず、である。小さな子供がいる友人からも、ラーメン屋やレストランで食事をしていたら、お店の若い従業員たちが「かわいいー」と子供の周りにわらわらと集まってきて、友人夫婦が食事をしている間、みんなであやしてくれたりするので助かる、なんていう話も聞く。
困っている下宿人をほおってはおけないにしても、このおじさんもきっと子供好きなのだろう。2人いるという実の子供たちは、もう大きくなって自立しているが、まだ孫はいないらしい。マイちゃんはそんな常連客の家族構成までよく知っているのだった。
結局、おじさんはコーヒーを注文することもなく、ただマイちゃんと話をするためだけにほんのひと時バイクを停めて、男の子の顔をみんなに見せたら、私にも「アリガト」と日本語で言いながら、マーウィンに子供用のヘルメットを被せた。
バイクが動き出すと同時に、私は、彼が遊んでいたウニみたいなカラフルなゴムの人形が落ちているのに気がついた。
「ちょっと待って!」
おじさんに声をかけ、慌てて立ち上がったら勢いで椅子が倒れたが、そのまま走ってバイクを追いかけた。
はい、と彼に人形を渡す。マーウィンは黙ったまま、にっこり笑った。
「コップンクラーップ(ありがとう)」と、大きな声でおじさんが言った。