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【物語】二人称の愛(下) :カウンセリング【Session67】

※前回の話はこちら

■2016年(平成28年)09月02日(Fri)

 学生達の夏休みも終わり、まだ少し落ち着かない様子が伺えるそんな九月頭の金曜日の朝を迎えた。

 学はこの日、何時ものように自宅から歩いて川口駅で電車に乗り、自分のカウンセリングルームがある新宿駅へと向かったのだ。先日まで学校が休みだったせいか、学は少しゆっくりとした面持ちで電車に乗り込んだ。しかし今日は朝から学校に通学する学生達の波に押され、学は電車の中でその時間をやり過ごしていたのである。この時、学は何時ものようにこころ落ち着かせるため瞑想を行っていた。そして身体の緊張や違和感を憶えるところに自分の意識を持っていき、意識と無意識を同調させバランスを保って行くのであった。

 それはまるで水槽の中に活けられた水草が自由に身を任せ、その水の中に漂うそんな感覚を意識しながら身体と会話していくのだ。そうすることで、こころと身体の違和感の振れ幅を元に戻し、常に中道ちゅうどうの状態に置いておくよう学はこころ掛けていたからである。
 それは周りから見るとひとりの世界に入り込み、さなぎの殻の中に凝り固まっているかの様にも見えた。安全で安心な世界を身体全体に張り巡らせた蚕の蛹のようでもある。おそらくその中では、学は仏教で言えば悟りの境地に到達しているのかも知れない。そして、それは幼少時代に自分を守る術として身につけたと言っても過言ではないだろう。何故なら学は幼少時代に、両親から受けた暴力や虐待から逃れる必要があったからだ。

 学にとって満員電車はとても苦痛な時間で、こうして混雑の時には自分の心身と丁寧に対話して、こころと身体を同調させていたのだった。そしてこの日も、自分自身と丁寧に向き合うことで自分のこころを中道に保ち、新宿にある自分のカウンセリングルームへと向かったのであった。

 学のカウンセリングルームは新宿駅より程近いマンションの7階にあった。学がカウンセリングルームに到着し時計の針に眼をやると、朝の10時に近づいていた。そう今日は10時から今日子とのカウンセリングの予約が入っていたのだ。学は前回の今日子とのカウンセリングを振り返り、その後、カウンセリングルームに置いてあるアクアリウムをジィーっと見つめたのだ。すると1Fロビーのインターフォンが鳴る音がカウンセリングルームに鳴り響いた。学はおもむろにカウンセリングルームのインターフォンに出た。すると聴き覚えのある声が聞こえて来たのだ。

今日子:「おはよう御座います今日子です。カウンセリングを受けに来ました。ドアを開けて貰えますか?」
倉田学:「おはよう御座います今日子さん。今、1Fロビーの玄関を開けますね」

 こう学と今日子がインターフォン越しで会話を交わすと、少しして今日子は学の『カウンセリングルーム フィリア』に姿を現し、二人はこんな会話を交わした。

今日子:「おはよう御座います倉田さん。宜しくお願いします」
倉田学:「おはよう御座います今日子さん。こちらこそ宜しくお願いします。では早速、カウンセリングに入りたいと思うのですが」

 すると今日子からこんな言葉を学は投げ掛けられたのだ。

今日子:「倉田さん、もしかして夏休みボケですか?」
倉田学:「そんなこと無いけど。学生達の夏休みが終わって、また何時ものラッシュアワーが戻って来たんだなと」

今日子:「倉田さん。倉田さんって夏休みは何処か行かれましたか?」
倉田学:「僕ですか? 僕はお盆に東北の方に」

今日子:「倉田さんの実家って東北でしたか?」
倉田学:「いやぁー、そう言う訳じゃ。東北の被災地に一緒に来て欲しいと誘われて」

今日子:「そうなんですか。東北の被災地の様子はどうでしたか?」
倉田学:「僕が行ったところで何ができるか。東北の被災地のひと達からしたら僕はよそ者だから」

今日子:「そうよねぇ。わたしも大学生の時に阪神・淡路大震災を経験してボランティアのひと達がどっと押し寄せたわね。でも復興が本格的に始まり、そこからが長かったわねぇ」
倉田学:「今日子さんは故郷に戻ろうと思わなかったんですか?」

今日子:「もちろん故郷に帰ろうとも思ったわ。でも被害が少なかったひとはまだしも、わたしみたいに家族を失ったひとには、気持ちの整理がつかないのよ」
倉田学:「でもこうして、僕のカウンセリングを受けているということは、こころの整理をそろそろつけたいと思っているのでは?」

今日子:「そうよね。あなたの言う、わたしの無意識に聴いてみようかしら」
倉田学:「今日子さんの無意識が、教えてくれると思いますよ」

 こうして学と今日子のカウンセリングは始まった。二人の会話は、学生時代の夏休みのアルバイトの話へと移って行った。この日の今日子は何時もより口数も多く、学に積極的に話し掛けて来てくれているようであった。また、この時の今日子の服装はというと、白いブラウスに紺のパンツスーツを履いていた。そしてこんな会話を学と今日子は交わした。

倉田学:「今日子さんって、大学時代にアルバイトしてましたか?」
今日子:「倉田さん。わたしだってアルバイトぐらいしてましたよ」

倉田学:「では今日子さん。どんなアルバイトしてたか教えて貰ってもいいですか?」
今日子:「野球に関係あります」

倉田学:「もしかして今日子さん。ウグイス嬢ですか?」
今日子:「倉田さん、面白いこと言うわねぇー」

倉田学:「えぇー、違うんですか。野球と言えばウグイス嬢なんだけど」
今日子:「わたしもウグイス嬢になりたかったけど。違うのよ」

倉田学:「では、ウグイス嬢じゃないとすると? ひょっとして売り子さん」
今日子:「そう、せいかいです」

倉田学:「でも今日子さんなら、ウグイス嬢でもいけるんじゃないですか?」
今日子:「ウグイス嬢なんて簡単になれませんよ。相変わらず無茶ぶり言うわねぇー」

倉田学:「そっかなー。そうだ、ちょっとウグイス嬢やってみましょう今日子さん」
今日子:「えぇー、やるんですか?」

倉田学:「そうそう、ここを甲子園球場のスタンドだと思って。前に話してくれた小学校六年生の時(1985年4月17日)を思いだしてください。バース、掛布、岡田のあたりを」
今日子:「本当にやるんですか?」

倉田学:「今日子さん。今日は今日子さんがウグイス嬢です」
今日子:「しょーがないわねー」

 こう今日子が言うと、今日子は小学校六年生の時に家族で甲子園球場に阪神vs巨人戦を観に行った時のことを思い起こした。そしてその当時、小学生だった今日子が外野スタンドで聴いたウグイス嬢のアナウンスを真似してこう言ったのだ。

今日子:「お待たせ致しました~♪。これより阪神タイガース 対 読売ジャイアンツの2回戦のラインナップ~♪ 一番、ライト、真弓♪ 二番、センター、弘田♪ 三番、ファースト、バース♪ 四番、サード、掛布♪ 五番、セカンド、岡田♪ 六番、レフト、佐野♪ 七番、ショート、平田♪ 八番、キャッチャー、木戸♪ 九番、ピッチャー、工藤♪」

倉田学:「凄いじゃないですか。今だに覚えてるんですね」
今日子:「当たり前よ! だってこの年は優勝して家族みんなでお祝いしたんだもん」

倉田学:「そうだったんですね。だから今だによく覚えているんですね」
今日子:「ところで、倉田さんは学生時代にどんなバイトしてたんですか?」

倉田学:「僕ですか、僕はアレです」

 そう学が言うと、学はカウンセリングルームに置いてあるアクアリウムの方を指さしたのだ。その学の指さす方を観て今日子は、なるほどと言う表情を浮かべていた。

今日子:「あなたって昔から変わってないのねぇー。トキみたい」
倉田学:「それは天然記念物と言うことでしょうか?」

今日子:「そうよ。アナタみたいなひと珍しいから」
倉田学:「そうですか。やっぱり僕は『珍しいタイプ』なのか?」

 そんなことを学は思いながら、学は今日子に今日子が学生時代にしていたと言う売り子のバイトについて訊いたのだ。

倉田学:「今日子さん。今日子さんは、もちろん甲子園球場の売り子さんですよねぇ」
今日子:「ええぇ、そうよ。高校野球の甲子園の方の」

倉田学:「そうなんですか。僕はてっきりプロ野球の方かと」
今日子:「プロ野球はナイターで遅くなる時もあるし、酔っ払ったファンに絡まれるかもしれないから止めとけって親に言われて。だからわたし、夏に高校野球の売り子をしていたのよ」

倉田学:「そうなんだ。でも甲子園って真夏で大変じゃなかったの?」
今日子:「そりゃ大変よ。真夏の炎天下の中で売るんだから」

倉田学:「それで今日子さん。何の売り子をしてたんですか?」
今日子:「そうねぇー。いろいろ大学生の頃やったけど。そうだ、かちわり氷って倉田さん知ってますか?」

倉田 学:「その名の通り、氷を割ったものじゃ」
今日子:「倉田さん。かちわり氷は甲子園の風物詩ですよ」

倉田学:「そうなんですか。それは頭を冷やすものですか?」
今日子:「そうねぇー。夏の炎天下の甲子園では、冷やして良し、飲んで良し、割って良しの、かちわり氷の三拍子と言ったところかしら」

倉田学:「具体的には、どういうことでしょうか?」
今日子:「まず、夏の甲子園の暑さから身体を冷やす。次に、一緒に付いてくるストローで、溶けた氷の六甲のおいしい水を飲む。そして最後に、粉末のスポーツドリンクの粉を入れたり、お酒を割ったりして飲む」

倉田学:「そうなんですね。これがかちわり氷の三拍子なんですね」
今日子:「まあぁー、わたしの中ではそう呼んでるのよ」

 こんなやり取りを学は今日子とし、今日子の中にある小学生時代の家族との想い出や大学時代のアルバイトの話をしたのであった。カウンセリングの時間もそろそろ終わりに近づき、学はカウンセリングルームにある時計に眼をやった。学自身、今日子とのカウンセリングを通して自分の過去を振り返り、学生時代のアルバイトをしていた頃を思いだしていた。そして、自分が学生時代に夢中になって没頭していたアクアリウムのことを振り返っていたのである。

 その頃の学は、アクアリウム関連のペットショップのアルバイトではあったが、店員より詳しかった。だからそのお店の魚や水草の管理は、殆ど学に任されていた。また彼は、週に五日と欠かさず働いていたので、店長から信頼されていたのだ。しかし学にも苦手なことがあった。それは接客の中でも、お店の商品である魚や水草を買い求めに来たお客様に商品を薦めると言う営業的な対応である。これについては学自身、未だ克服出来ていない。

 それはお店として売りたい商品と、商品を買い求めに来るお客さんの間に、少なからず差異が生じるからだ。学にとってはいちアルバイトと言えど店員なので、雇用して貰っているお店側に立つべきなのかも知れない。しかし学は、どうしても中立な立場を求めてしまうのだ。それは学が大学で哲学を勉強し、また倫理、道徳と言うものに対して向き合って来たからなのかも知れない。そんなことを「自己分析」していると、あっと言う間に今日子とのカウンセリングの時間は終わろうとしていた。
 そして次回のカウンセリングの予約を今日子は入れ、学のカウンセリングルームを後にしたのだ。その様子を学は玄関先で見送り、その時の今日子は、少し軽やかな面持ちで去って行くように学には感じられたのであった。


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