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【物語】二人称の愛(中) :カウンセリング【Session54】

※この作品は電子書籍(Amazon Kindle)で販売している内容を修正して、再編集してお届けしています。

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※前回の話はこちら

2016年(平成28年)07月07日(Thu)七夕・小暑

 七月七日の七夕。暦の上では小暑で、いよいよ夏の暑さが本格的となる時期であった。朝から晴天に恵まれ、梅雨の間のひと時の晴れ間と言ったところだろう。とても蒸し暑く、学はカウンセリングルームのエアコンの温度を下げ、午前中のカウンセリングに備えていた。

 今日は朝から今日子とのカウンセリングが入っていたので、学はカウンセリングルームで今日子が来るのを待っていたのだ。そして今日子は約束の時間の朝10時少し前に、学のカウンセリングルームを訪れた。

今日子:「おはようございます倉田さん。宜しくお願いします」
倉田学:「おはようございます今日子さん。今日は何時もより早いですねぇ」
今日子:「ええぇ、まあぁ。電車が早く着きましたから」
倉田学:「今日子さんって、今お住まいはどの辺でしたっけ?」
今日子:「それは秘密です」
倉田学:「すいません。余計なこと訊いてしまって」

 この時、学は少しミスリードしてしまったと内心思った。そしてこう尋ねたのだ。

倉田学:「今日子さんの家族のことを訊いてもいいですか?」
今日子:「ええぇ、いいですけど」
倉田学:「今日子さんの両親って、どんなひとだったんですか?」
今日子:「そうねぇ。わたしの両親って阪神ファンで、それがわたしの両親の出会いのきっかけだったみたい」
倉田学:「阪神ファンって、あの野球の阪神タイガースのことですか?」
今日子:「ええぇ、そうよ。わたし達、神戸市に住んでたから昔から阪神タイガースのファンで、それで良く試合を家族で見に行ってたの」
倉田学:「そうなんですか阪神ファンか」
今日子:「倉田さんは野球とか観たりするんですか?」
倉田学:「僕は小さい頃から友達少なかったし、それにチームプレーは苦手だから」
今日子:「どうしてですか?」
倉田学:「僕は周りのひとの目が気になり、チームプレーで自分を出せないから」
今日子:「でも、野球だったらサッカーよりは個人プレーだけど」
倉田学:「僕はひとよりあまり目立たない方だし、自分をあまり出さないよに今まで生きてきたから・・・」
今日子:「倉田さんって、変わってるわねぇ」
倉田学:「今日子さんは昔、どんな子だったんですか?」
今日子:「わたしの父親、本当はわたしに野球をやらせたかったみたいなの。そう忘れもしない、わたしが小学校六年生の時(1985年4月17日)。あの時の阪神タイガースはすごかったわ。あの試合、わたし家族と甲子園球場で観戦していたの」
倉田学:「聞いたことあります。バース、掛布、岡田とバックスクリーンに三者連続ホームランを打って、確か優勝した年ですよねぇ」
今日子:「なーんだ倉田さん。野球詳しいじゃないですか」
倉田学:「実は僕にとって、その日は嫌な日なので覚えてるんです」
今日子:「ひょっとして倉田さんの両親ってジャイアンツファンだったの?」
倉田学:「そうです。ジャイアンツファンです」
今日子:「そっかー、ジャイアンツファンにはあの年は嫌な年だったわねぇー」
倉田学:「ええぇ、まあぁ」

 実は学の父親はジャイアンツファンで、この年の阪神vs巨人戦が4月17日に甲子園球場で行われ、その時の巨人のエースである槇原投手から、阪神のクリーンナップ(バース・掛布・岡田)によりバックスクリーンに三連発を浴び、家に帰って来た父は物凄く不機嫌で当たり散らし、暴力を振るったと言うことを母親から聞かされていたからだ。そして学はこう言ったのだ。

倉田学:「今日子さん。それじゃあ『六甲おろし』歌えるんですか?」
今日子:「ええぇ、まあぁ。甲子園球場でよく歌っていたから」
倉田学:「ちょっと聞かせて貰ってもいいですか?」
今日子:「えぇー、ここで歌うんですかぁ」
倉田学:「ええぇ、もし宜しければ」

 今日子は少し迷ったが学にこう言い、ワンフレーズだけ歌った。

今日子:「じゃあ、最初のワンフレーズだけですよ」

今日子:「六甲おろしに颯爽と~♪ 蒼天翔ける日輪の~♪ 青春の覇気美しく~♪ 輝く我が名ぞ、阪神タイガース♪」

倉田学:「すごいですねぇー。完璧じゃないですか」
今日子:「当たり前よ。だってしょっちゅう歌わされたんだもん」
倉田学:「歌ってみて、どうですか今日子さん?」
今日子:「そうねぇー、ずいぶん昔の出来事だけど懐かしいわねぇー」
倉田学:「今日子さん。この歌は今日子さんの大切な想い出の歌だと思います。僕は歌ってひとに勇気を与えてくれると思うんです。だから今日子さんは、家族との想い出のこの歌を大切にしているんじゃないかと僕は思います」

 こう学が言うと今日子は目線を遠くへやり、そして昔を懐かしく思う表情を浮かべたのだ。そして学にこう言った。

今日子:「倉田さんが言うと、本当にそう思えるから不思議」

 そしてこの学と今日子の何気ないやり取りが、不思議と二人の暖かい時間と空間を作り出すことが学には出来るのだ。それは学自身も気づいていない天性の素質で、おそらく学はクライエントに対して先入観を持たず、接することが出来るからなのだろう。
 こうして今日子とのカウンセリングを終えた学は、今日子と今日子の家族についての話が少し聴け、今日子とのカウンセリングを、今後どの様に進めていくか考えていたのだ。そして学は何時ものようにカウンセリングルームの玄関先で今日子を見送り、彼女のその時の後ろ姿は少し軽やかに学には見えたのだった。こうして今日子は学のカウンセリングルームを後にしたのである。

 学はコンビニで買ってきた弁当をカウンセリングルームで食べ、午後からの彩とのカウンセリングに備えた。彩とのカウンセリングは何時ものように15時からで、それまでの間、学は自分のカウンセリングルームに置いてあるアクアリウムの手入れをして水槽の中の水草を眺めていたのだった。
 その水草は水に揺られ、ゆらりゆらりと揺らめき身を任せるようなそんな感じで、それは学のこころが身体と調和していくようなそんな感覚を覚えた。その時、学は本当に自分がこの世界で生きていると言う実感を感じることが出来たのだ。そして約束の時間の15時少し前に、彩は学のカウンセリングルームを訪れたのだった。

木下彩:「こんにちは倉田さん。宜しくお願いします。今日でカウンセリングを始めてからちょうど一年になりますね」
倉田学:「こんにちは木下さん。そのようですね」
木下彩:「倉田さん、わたし一年前と比べてどうでしょうか?」
倉田学:「そうですね。一年前よりだいぶかわったんじゃないかなぁ」
木下彩:「それはもうひとりの人格のひとみと統合しているということでしょうか?」
倉田学:「おそらくそうだと思います。こないだ勤め先の話をしていましたよね。その時、木下さん会社の上司から『最近綺麗になったね』って言われたんですよねぇー」
木下彩:「ええぇ、まあぁ。でもわたし、一年前と特に何も変えていないんですが」
倉田学:「木下さん。もうひとりの人格と統合するということは、木下さんの無意識の中で変化が起きていると言うことです」
木下彩:「倉田さん、それってどういうことですか?」
倉田学:「木下さんが意識していなくても、知らず知らずのうちに、もうひとりの人格のひとみさんが現れてきていると言うことです」
木下彩:「もうひとりの人格のひとみは、どんなひとなんですか? 倉田さん」

 学はこの彩の質問にどう答えたら良いか迷った。そして少し考えこう答えたのだ。

倉田学:「木下さん。前に僕はもうひとりの人格のひとみさんについて、とても頭の良いひとだと伝えましたよねぇ」
木下彩:「ええぇ、そう言ってましたね。それが何か?」
倉田学:「実は、ひとみさんは木下さんと性格がまるで違うのです」
木下彩:「えぇー、どう違うんですか?」
倉田学:「仕方ない、はっきり言いましょう。彼女は『計算高い女性』です。そして僕から観たら彼女は『小悪魔的な女性』です」
木下彩:「倉田さん。どーして今まで言ってくれなかったんですか?」
倉田学:「本当のことを言うと、木下さんが傷つくんじゃないかと思って」

 学の言ったこの言葉は正確では無かった。本当は学自身も彩の事を傷つけたく無かったし、また彩が傷つく姿も観たくなかったからだ。そしてこれを言われた彩はと言うと、学にこんなことを言ったのだ。

木下彩:「倉田さん。クライエントに隠しごとは駄目って言ってたじゃないですか?」
倉田学:「すいません。でも、木下さんが本当のことを知って、傷つくんじゃないかと」
木下彩:「そりゃ傷つきますよ。でも、今まで教えて貰えなかったことに、もっと傷つきましたよ」
倉田学:「すいません。今まで隠していて」
木下彩:「それで、もうひとりのひとみは『銀座クラブ マッド』ではどんな感じなんですか?」
倉田学:「もうひとりのひとみさん。『銀座クラブ マッド』では、とても生き生きしているというか。彼女には夜の仕事が天職のように感じます」
木下彩:「倉田さん。わたしが知りたいのは彼女の表情だったり仕草っだたり服装なんです」
倉田学:「すいません。そうですねぇー。今の木下さんより化粧が濃く、妖艶な笑みを浮かべ、お客さんに対してとても大胆な振る舞いをしているといったところでしょうか。そしてドレスを着ると、妖精のような華やかな衣をまとって妖美を放っていると言った感じでしょうか」

 これを聴いた彩は、自分がそうなった時の様子を想像してこう尋ねた。

木下彩:「その彼女は、今のわたしと比べてどのぐらい違いますか?」
倉田学:「そうですねぇー。正直に言います。今の木下さんと180度違っていて、ひとみさんは『計算高くかつ大胆』で『妖艶な輝き』を放っていると言ったところでしょうか」
木下彩:「そんなに違うんですか?」
倉田学:「ええぇ、まあぁ」

 この言葉を聴いた彩は愕然とした。そして今まで学から本当のことを聴かされていなかったのもショックだったが、この事実を知り更にショックを受けたのだ。学はこの時の彩の表情を観て、彩の気持ちを察することが出来た。そして学は彩にこう告げたのだ。

倉田学:「木下さん。もうひとりの人格のひとみさんも、木下さんの中にある自分です。統合させるには、そのもうひとりの自分を受け入れる必要があります。木下さんはもうひとりの自分を本当に受け入れることが出来ますか?」

 この学の質問に対して彩はすぐには答えられなかった。そして少ししてからボソッと彩は言葉を発したのだ。

木下彩:「わからないです。わたし怖いです。倉田さん、どう思いますか?」

 この質問に対して、学もどう答えたらいいか迷った。そして心理カウンセラーとして「中立な立場」で学はこう答えたのだ。

倉田学:「正直に言います。僕は木下さんではないので、木下さんの今の気持ちは僕にはわかりません。だけどカウンセリングをこの先続けるにせよ、木下さんのこころの中にもうひとりの自分を受け入れたくないと言う気持ちがあるのなら、おそらくカウンセリングを続ける意味がないと思います」
木下彩:「それはどう言う意味でしょうか?」

倉田学:「木下さんの無意識の中に、ひとみさんを受け入れたくないと言う感情があるなら、カウンセリングをしても統合させることは難しいと言うことです」
木下彩:「そうですか。少し時間を貰えませんか。次回までにどうするか、気持ちの整理をつけて決めたいと思います」

 こう彩は気を落としながら学に告げたのだった。それを聴いた学は、次回までに彩がどんな回答を持ってくるのか気になったのだ。そして申し訳ない気持ちも同時に沸き起こった。それは今まで、彩にもうひとりの人格のひとみについて教えて来なかったのと、結局は彩を傷つけることになってしまったからだ。そして本当にこれで良かったのか自分を責めたのだった。

 この日の彩とのカウンセリングは、終始この話の内容が中心で終わることとなった。そしてカウンセリングルームの玄関先で学は彩を見送り、彩は学のカウンセリングルームを去っていった。その時の彩は肩を落とし、少し足を引きずるかのような重い足取りで帰って行ったのだ。
 学は気を取り直してこの日の夕方18時に、みずきと「六本木ヒルズ」で映画の試写会を観るため待ち合わせをしていた。この日の学の服装は何時もよりシックにキメ、スマートカジュアルと言ったところだろう。紺のパンツに白いシャツ、そしてグレーのジャケットを着て出掛けるところだった。
 その時だ、学のスマホの着信音が鳴った。そう「カントリー・ロード」の曲だ。学はみずきからの電話じゃないかと思い急いで電話に出たのだ。すると電話の相手は、学が大学時代に研究室のゼミで一緒だった峰山一樹からの電話であった。学が電話に出ると、一樹はこんなことを言ってきた。

峰山一樹:「よお、学くん。こないだ話したけど、今度、学くんのカウンセリングルームに行くって言ったよねぇ。それで、今近くに来てるからさぁ、今から行くね」
倉田学:「一樹くん、ちょっと待ってよ。今から出掛けなくちゃならないから」
峰山一樹:「いやぁー。もう君のカウンセリングルームがあるマンションの下にいるんだけど」

 その時だ、学のカウンセリングルームがあるマンション1階のフロントロビーの玄関のチャイムの鳴る音がした。学は急いでその呼び出し音に反応し、インターフォンに出たのだ。すると今話していた一樹の声が聴こえてきた。

峰山一樹:「ほら着いちゃった。開けてくれないかなぁー」

 学はこころの中で、何で今日に限ってこんな日に来るのかなぁーと思いつつも、仕方なくこう答えたのだ。

倉田学:「僕は今から出かけるからさぁー、今降りていくよ。ちょっと待ててよ」
峰山一樹:「あっそー、早くしてね」

 学は慌てて自分のカウンセリングルームの部屋を出て、家の鍵を閉めエレベーターで1Fに降り、そして一樹の待つ1階フロントロビーのエントランスにやって来た。その学の姿を観た一樹は、学の服装を観てこんなことを言った。

峰山一樹:「よおぉ、ずいぶん久しぶりじゃん。それにしても君、そんなにオシャレだったかなぁ。もしかしてこれからデート?」
倉田学:「違うよ。打ち合わせだよ」
峰山一樹:「ふぅーん、珍しいねぇー。今日は七夕だよ。一年に一度の織姫と彦星が出逢う日なんだけど。君って『天体』とかそう言うの好きだったよねぇー」
倉田学:「そぉーそぉー、そうだったね。僕は急いでるから新宿駅に行くね」

 学は一樹の話に付き合っている暇も時間も無かったので、一方的に話を終わらせ駅へと向かおうとしたのだ。すると一樹は不満そうな顔をして、こう言ってきた。

峰山一樹:「なんだよぉー。仕方ないから僕もついて行ってやるか」

 この言葉を聴いた学は、こころの中でこう思ったのだ。

倉田学:「何でついてくるの? 君が来ると困るんだよ」

 そして学は一樹にこう言ったのだった。

倉田学:「一樹くん。僕のことは気にしなくていいから、今度また会おう」

 その時だった。再び学のスマホの着信音が鳴ったのだ。そして学は慌てて電話にでた。その電話の相手はみずきであった。

美山みずき:「こんにちは倉田さん。いま電話大丈夫ですか?」
倉田学:「はい、もちろん大丈夫です」
美山みずき:「待ち合わせの場所なんですが、六本木ヒルズ けやき坂コンプレックスのところにある『TOHOシネマズ 六本木ヒルズ』でも大丈夫ですか?」
倉田学:「ええぇ、もちろん大丈夫ですよ」
美山みずき:「それじゃあ、そこに18時に来てください」
倉田学:「わかりました」

 こうしてみずきとの電話は切れたのだった。この様子を観ていた一樹は、すかさず今の電話の相手が誰だったのか学に聴いてきたのだ。そしてこう言った。

峰山一樹:「学くん、今の電話の相手は誰なのかな? 君の今の電話の受け答えの仕方、僕の時と随分違うんじゃないかい」
倉田学:「そんなことないよ。僕は今急いでるから」

 そう言って学は急いで、新宿駅の方へと向かって行ったのだ。一樹はその後を追うように着いてきた。学は一樹が何処まで付いてくるのか気になり、こう尋ねたのだ。

倉田学:「一樹くん。君はいったいどこまでついてくるの?」
峰山一樹:「この後学くんがどこに行くのか気になってね。それがわかるまでかな」
倉田学:「一樹くん、時間もったいないよ。そんな暇ないでしょ!」
峰山一樹:「あいにく、今日の予定はもう入っていないのでご心配なく」
倉田学:「君のやってることはストーカー行為と同じじゃないかなぁー」
峰山一樹:「侵害だなぁー、学くん。たまたま僕の行きたい方向と君が同じだけなんじゃないかなぁ。それに僕はストーカー行為はしていないよ。君をウォッチングしているだけなんだけどねぇー」

 学はこころの中でこう思った。

倉田学:「一樹は昔から頭のいいやつで、研究室のゼミでも僕と一二を争う論理的な思考と発想を持っている。そしてあいつは大学院へ進み、修士、博士号を取り。この若さでC大学人文学部の准教授になり、C大学で哲学を教えている秀才だ。ちょっと嫌味で変わり者だけど」

 そんなことを学は考えながら、一樹にこう言ったのだ。

倉田学:「ついて来ても何も出ませんけど。どうぞご勝手に」
峰山一樹:「ではでは、お供しますか」

 学は一樹が途中で諦めて帰るだろと思っていた。しかし学が新宿駅で大江戸線に乗り、そして六本木方面に向かう電車に一緒に乗って来たのだ。一駅が過ぎ、二駅が過ぎと次第に六本木駅に近づいて来た。学はスマホの時計で時間を気にしていたのだ。その時だった、学のスマホにLINEメッセージが入った。学は急いでそのLINEメッセージを確認したのだ。するとみさきからのメッセージであることがわかった。その内容とは次のような内容であった。

みさき:「倉田さーん。こんにちは! こないだはカウンセリングありがとうございました。ところで、これからみずきママとデートですか?」

 学がこのみさきのメッセージを読んでいると、また学の元に新しいLINEメッセージが届いた。今度はゆきからだった。

ゆき :「倉田さーん。これからみずきママとデートですよねぇ? わたし応援してますから」

 すると立て続けに二通のメッセージが入った。のぞみとゆうからだ。

のぞみ:「倉田さーん。みずきママを宜しくお願いします。楽しんで来てくださいね」
ゆう :「倉田さーん。がんばってください。恋のカウンセリングならわたしできますよ」

 この一連のメッセージを観た学はビックリした。何故なら試写会を観に行くことを誰にも話していなかったからだ。そしてみずきのお店にいるスタッフや石巻にいるゆうまでもが知っていたからだった。また、この同時多発的なLINEメッセージは、おそらく前もって打ち合わせていただろうと、推測出来たからだ。そしてこの周到なLINE攻撃により学は不意をつかれ、学は表情を変えずにはいられなかった。その様子を一樹にしっかりと観られていたのだ。だから一樹は学にこう言って、学の持っているスマホを取り上げたのだった。

峰山一樹:「学くん、顔が引きつってるけど。ちょっと君のスマホを観せて貰うよ」

 そう言って一樹は、学のスマホのLINEメッセージを読んだのだ。そして学にこうひと言言ったのだった。

峰山一樹:「なーんだ学くん。やっぱりデートじゃないか。僕はわかってたんだよ最初から打ち合わせでは無いと言うことを。それにみずきママって お店のママかい学くん?」
倉田学:「まあぁー、そうだけど」
峰山一樹:「この話は今度ゆっくり訊かせて貰うよ学くん。デート頑張ってね。楽しみにしているから」

 そう言って一樹は、六本木駅の一駅前で降りたのだ。学は一樹にみずきとの映画の試写会について知られ、今度会った時に何を訊かれるのかドギマギしていたのだった。そして六本木駅に着くまで、自分を落ち着かせようと電車の中で瞑想をしたのだ。僅かな時間ではあったが、学は自分を少し落ち着かせることが出来た。そしてみずきと待ち合わせをしている『TOHOシネマズ 六本木ヒルズ』へと向かったのだ。学がその『TOHOシネマズ 六本木ヒルズ』の近くに行くと、既に映画『君の名は。』の試写会を観るために列をなしていた。その時だった。また学のスマホの着信音が鳴ったのだ。その着信音はみずきからの電話であった。学はすぐに電話に出たのだ。そしてみずきからこんな言葉を聴いたのだった。

美山みずき:「倉田さん。18時になりますけど、今どこにいますか?」
倉田学:「みずきさん。僕は今、『TOHOシネマズ 六本木ヒルズ』の前にいますけど。みずきさんは、どこにいるんですか?」
美山みずき:「わたしも今、『TOHOシネマズ 六本木ヒルズ』の前にいます。倉田さん、どんな服ですか?」
倉田学:「僕の服ですか。そうですねぇ、紺のパンツにグレーのジャケットを着て来ましたが」
美山みずき:「すいません。ちょっと右手を挙げて貰えませんか?」

 学はちょっと恥ずかしそうに右手を挙げ、そして手を振ったのだ。すると電話越しからこんな声が聴こえてきた。

美山みずき:「倉田さん。そんなに手を振らなくても大丈夫ですよ。見つけましたから」

 その声はだんだんと学の近くに近づいて来るのが学にはわかったのだ。そして学が辺りを見回すと、みずきは学のすぐ傍まで近づいていた。みずきは、手を振っていた学を観てこう言った。

美山みずき:「倉田さんお久しぶりです。ちょっと待たせちゃいました? 今日の倉田さん、何時もより素敵です」
倉田学:「こんばんはみずきさん、お久しぶりです。僕のことわかりましたか?」
美山みずき:「ええぇ、だって倉田さん。手を振ってるんだもん」
倉田学:「そうですか。その方が早く見つかるかなぁと思って」
美山みずき:「大丈夫ですよ。今日の倉田さん輝いてますから」

 こう言って二人は映画『君の名は。』の試写会の列に並んだのだ。この日のみずきの服装は、淡いピンクベージュのフラワーレースが施されたワンピースであった。そしてその上にワンピースより白めのレースボレロを羽織っていたのだ。その姿はみずきのお店で彼女を観ている時より、とても新鮮でとても若々しく学には見えたのだ。
 今日のみずきの姿と表情を観て、彼女の姿を一言で言うと、水の上に咲く「一輪の蓮の花」のように学には感じられた。そして彼女の表情はとても晴れやかで、さらに美しさを醸し出していたのだった。彼女の服装はスマートエレガントに当たるのだろうか。何時もと違うみずきの姿を観て、学のこころはドキドキしていた。学にはそれが恋なのか、それとも何時もと違うので少し緊張しているのか、この時の学にはわからなかった。

 学たちは少しして、映画館の中に入ることとなった。学とみずきの二人の座った席は、ちょうど映画館のど真ん中であった。映画『君の名は。』の試写会のチケットを係りのひとに見せ、二人は並んで中央の席に座ったのだ。その間、学は試写会に訪れた他のひと達の視線を感じたのである。それはみずきがあまりにも眩しく可憐だったからだ。しかしみずき自身はこのことに気づいていないのか、普段と変わらない様子であった。
 学には、この視線がすごくこころに突き刺さったのだ。それは「みずきと僕じゃあ、とても釣り合わないだろうなぁ」と、そう思っていたからである。そして「何で僕を誘ったんだろう」と自分に問い掛けてみた。勿論、答えなど出るはずもなく、学はみずきの方に眼をやったのだ。するとみずきは学にこう訊いてきた。

美山みずき:「倉田さん。何考えごとしてるんですか。せっかく誘ったんだから、もっと楽しそうな顔してください。それとも、わたしとじゃ嫌だったかなぁ?」
倉田学:「とんでもないです、みずきさん。今日のみずきさんとても輝いてるから、僕の方が気後れしてしまって」
美山みずき:「らしくないですよ。いつものカウンセリングの時の倉田さんで、いいじゃないですか。わたし、いつもの倉田さんを誘ったんだもん」

 このみずきの言葉を聴いて、学は少し背伸びをして来てしまった様な気がした。そして、それを気づかせてくれたみずきに感謝したのだった。僕は何時でも何処でも変わらず、今のままの自分でいいんだと。それが僕自身で、無理に周りに合わせようとか、ひとからよく観られようなんて考えなくてもいいんだと。それが僕の個性でもあるのだから。そう学は自分に言い聞かせたのだ。そしてみずきにこう言った。

倉田学:「みずきさん。今日はありがとう御座いました」
美山みずき:「どーしたんですか倉田さん。その言葉は、映画を楽しんだ後にするものです。そろそろ映画始まりますよ。一緒に楽しみましょう」
倉田学:「はい。みずきさん」

 こうしてふたりは映画『君の名は。』の完成披露試写会&舞台挨拶を楽しんだのだ。そして試写会と舞台挨拶が終わり、学たちは映画館を後にしたのだ。するとみずきは学にこう訊いてきた。

美山みずき:「倉田さん。映画どうでしたか?」
倉田学:「いやぁー、面白かったですねぇ。三葉(みつは)ちゃんみたいな高校生がいたら面白いだろうなぁー」
美山みずき:「倉田さんって、三葉ちゃんみたいな子がタイプなんですか?」
倉田学:「僕ですか。僕はどちらかと言うと瀧(たき)みたいなタイプだから、優柔不断なタイプだと自分では思ってるんです」

 学の返した答えは、みずきの質問の答えになっていなかった。そして逆にみずきにこう質問したのだ。

倉田学:「みずきさんは瀧みたいなタイプはどうですか?」
美山みずき:「そうねぇー。わたしは純朴なひとがいいかな」

 学はこれ以上、このことに触れなかった。訊いて悪いような気がしたからだ。そして学が空を見上げると、月明かりに照らされた星たちが輝いていた。学はこの後どうするか迷った。そして駄目もとで、みずきを食事に誘ってみる事にしたのだ。

倉田学:「みずきさん、まだ時間大丈夫ですか? 良かったら一緒に食事しませんか?」
美山みずき:「本当ですか倉田さん。どこに連れてってくれますか?」

 実は学はこの後のプランを何も用意していなかった。しかし今日は七夕だからと言う理由で、学は夜景の見えるお店にしようと決めたのだ。学たち二人は六本木ヒルズ のビルをエレベーターで上がっていった。そして夜景の綺麗なレストランに入ったのである。二人がテーブルの椅子に向き合って座ると、ウェイターのひとがメニューを持ってきた。そして学はこう言ったのであった。

倉田学:「今日はみずきさんが映画に誘ってくれたから、僕がご馳走しますよ」
美山みずき:「本当ですか倉田さん。ではお言葉に甘えて、ご馳走になります」
倉田学:「もちろん。いいですよ」

 こうしてふたりはフレンチのコースを頼んだのだ。また白ワインをボトルで、お店のソムリエにお願いしたのであった。食事が運ばれて来るまでの間、学たちの会話の話題は舞台挨拶の話へと移っていった。

美山みずき:「神木くんたち浴衣着てたね。倉田さんは浴衣とか着るんですか?」
倉田学:「僕ですか。僕は甚平(じんべい)なら着たことあるけど、浴衣はないなぁー。そうだ半天(はんてん)なら着ます」
美山みずき:「倉田さん半天着るんですか? それは冬に着るやつじゃないですか」
倉田学:「でしたよね。みずきさんはどうなんですか?」
美山みずき:「わたしは夜の仕事とかしてるし、だから毎年着るわねぇー」
倉田学:「そうですか。みずきさんが着ると似合うんだろうなぁー」
美山みずき:「倉田さん。本当ですかぁー」
倉田学:「本当ですよー。今度、楽しみにしてます」

 こう二人が話していると、ソムリエのひとがワインを持ってきて学にテイスティングを訊いてきた。学は普段、全くワインを飲んだことが無い。だからこのテイスティングのやり方をどうやるのか知らなかったのだ。学が困っているのに気づいたみずきは、学にそっとこう言った。

美山みずき:「倉田さん。わたしに任して貰ってもいいですか?」
倉田学:「お願いします」

 学がそう言うと、みずきはそのソムリエのひとに自分がホスト・テイスティングであることを告げ、ラベルチェックをした。それは「ワイン名」「ヴィンテージ」「ワイナリー」などが注文したものと同じであるかどうかの確認と、「色」「香り」「味」の順番にワインの状態を確認していくと言うものであった。そして一通り確認が終わると、みずきはソムリエにこう告げたのだ。

美山みずき:「こちらでお願いします」

 こうして注文したワインは、ソムリエによって目の前のワイングラスに注がれていったのだった。これを学は一部始終観ていた。それはまるでカウンセリングをしている時に、クライエントの動きをモデリングするのと同じ姿勢で、今みずきが行った行動を完璧にコピーすることが出来る程の集中力だった。学はこの一連の流れを観て、みずきにこう言ったのである。

倉田学:「みずきさん、流石ですね」
美山みずき:「別に褒められることでもないわよ。それに倉田さん、もう覚えたんでしょ。今度から、女の子をちゃんとエスコートしてあげてね」
倉田学:「はい、バッチリです。他のパターンもあるのですか?」
美山みずき:「それは教えなーい。倉田さんなら、復習すれば大丈夫でしょ!」

 これに対し学は何も答えなかった。そして話は次の話題へと進み、映画『君の名は。』の歌の話へとなったのだ。みずきが主題歌である『前前前世』にちなんだ質問を学にしてきた。

美山みずき:「倉田さん。映画『君の名は。』の主題歌のタイトルが『前前前世』って知ってましたか?」
倉田学:「そんなタイトルでしたか、知りませんでした。そうだみずきさん。みずきさんの前世って何だと思います?」

 いかにも学の好きそうなネタであった。みずきが意図的にこの話題を学に振ったのか、それともたまたま偶然だったのかは、みずきのこころの中でしかそれはわからない。しかし学は、このみずきの出した話題に食いついてきたのだ。そしてみずきは少し考えこう答えた。

美山みずき:「わたしですか。そうねぇー、世界三大美人の小野小町と言っておきましょうか。願望も込めて」
倉田学:「みずきさんらしいですねぇー。平安時代の歌人でもありますよねぇー。その時代の美人の基準って、才女じゃないと駄目だったみたいなんですよ。そうそう百人一首で、こんな歌がありましたね」

 学はこう言うと、こころ静めてこう和歌を歌ったのだ。

倉田学:「花の色は うつりにけりないたづらに 我が身世にふる ながめせしまに(小野小町)」

 学が百人一首の小野小町の和歌を歌うと、二人の世界は平安時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥ったのである。そしてこの学の歌を聴いていたみずきは、学にこう言った。

美山みずき:「倉田さん。歌番号9番ですね。それと、今の和歌の内容は、わたしに対してのことですか?」

 学は焦ってこう言ったのであった。

倉田学:「いや違います、みずきさん。この歌は小野小町の和歌なので、みずきさんのことを歌った訳ではありません。みずきさんの和歌は、今から歌いますね」

 そう言うと学はすーっと姿勢を正して、みずきの為にこの和歌を歌ったのだ。

倉田学:「ふるさとの 海山いとし美しく 清きこころの みずきかな(倉田学)」

 この和歌を歌った後、学はみずきの方を向いてこう聴いたのであった。

倉田学:「みずきさん。僕の和歌どうでしたか?」
美山みずき:「さすがです倉田さん。お見事です。でも倉田さん字足らずですよ」
美山みずき:「百人一首は五七五七七ですが、倉田さんが今歌った和歌は 五七五七五ですけど・・・」
倉田学:「やっぱり即興は難しいですねぇー。それにみずきさんを和歌の中に入れたかったから」
美山みずき:「そうですか。でも嬉しいです。この和歌をわたしにください」
倉田学:「もちろんです。だってこの歌は、みずきさんの和歌だから」
美山みずき:「ありがとう御座います」

 学の即興で創った和歌が、こんなにもひとのこころを暖かくするのだから不思議だ。学自身、少し出来すぎた感じではあったが、こんなにも喜んでくれるひとがいるから、学は昔から大切に受け継がれているこう言った事を、とても大切にしているのかも知れない。
 そして学自身、喜んでくれるひとがいるから、今まで大切にしてきたし、それを観て学も温かい気持ちのお裾分けを貰うのだ。こうして一瞬にして二人の間の関係を強く結びつけ、また映画『君の名は。』の話しの続きへと進んでいった。

美山みずき:「倉田さん。高校時代はどんな学生だったんですか?」
倉田学:「僕ですか。僕は高校時代は目立たない生徒でしたよ。みずきさんこそ、どんな生徒だったんですか?」
美山みずき:「わたしですか。わたし高校時代、演劇部だったのは前に話しましたよねぇ。だから文化祭とかで発表するのに、たぶん一生懸命だったんだろうなぁ」
倉田学:「分かります、わかります。みずきさんの頑張っている姿が想像でできますよ」
美山みずき:「本当ですか倉田さん。どんなイメージですか?」
倉田学:「たぶんみずきさんヒロイン役で、男子からモテたでしょ」
美山みずき:「それが、わたしの高校女子高で、そんなにモテてませんよ」
倉田学:「今、みずきさん。『そんなに』って言いましたね。それなりにはモテたと言うことですよねぇー」

 こう学が切り返し、みずきの様子を伺ったのだ。するとみずきは、学のカウンセリングを受けているようなそんな錯覚に陥ってこう言ったのである。

美山みずき:「倉田さん。こんなところで、わたしを勝手にカウンセリングしないでくださいよ。駄目ですよ」

 この時の二人は、本当に恋人同士が楽しく会話して戯れあっているように、そんな風に周りからは見えたのだ。学もこの時は自分の素の姿を、みずきに安心して出せたのだった。そして子供の頃の夢の話へとなった。再び、みずきの方から学に、このような質問が出された。

美山みずき:「倉田さんは子供の頃。大きくなったら何になりたかったんですか?」
倉田学:「僕ですか、何だったかなぁー。思い出した建築家です」
美山みずき:「何となくわかります。倉田さん、絵が好きなのは昔からですか?」
倉田学:「僕の両親は仲が悪く、何時もひとりぼっちで友達もいませんでした。だから家にひとりで、外には出して貰えませんでした。僕が唯一外に出れたのは、母親の連れてきた男のひとが来た時です。僕はその間だけ公園でひとり砂場で遊び、その時砂に絵を描いていたんです」

 この話を聴いていたみずきは、学の瞳が少し悲しそうに映ったので自分の話をしたのであった。

美山みずき:「わたしは小さい頃から女優さんとかに憧れて。それにわたし、石巻から都会に出たかったから。東京に憧れてたのかなぁ」
倉田学:「みずきさんは、小さい頃からの夢をずぅーと追い掛けていたんですね」
美山みずき:「でも、東京に出て来てわかったの現実の厳しさを。わたし夢を追い掛けたけど、結局叶えられなかったわ」
倉田学:「みずきさんは、自分の夢に向かって頑張ったからすごいと思います。僕は小さい頃の夢は夢のままで、それを目指そうとはしなかったから」

 二人の間にしばらく静寂の時間が流れ、学とみずきは料理を楽しんだのである。そしていよいよデザートが運ばれて来た時に、みずきは学にこう告げた。

美山みずき:「倉田さん。わたしのことどう思う?」
倉田学:「素敵な女性だと」
美山みずき:「それって、憧れのひとって意味なの?」

 この質問をされた学は、自分の中にあるみずきに対する本当に気持ちを見透かされてしまったような感じがしたのだ。だから言葉に詰まりながら次のように答えたのであった。

倉田学:「みずきさんは、皆んなが憧れる素敵な女性です」
美山みずき:「わかったわ、倉田さん。わたし振られる前に振るね。今日は付き合ってくれてありがとう。わたし倉田さんとはお付き合い出来ません」

 そう言ってみずきは学の瞳を観てこう言葉にしたのだ。学がみずきのその表情を観ると、みずきの瞳はとても寂しそうにしていたのであった。しかしみずきは次第に気持ちに整理が付き、また落ち着きを取り戻して行く様子を学は感じ取ることが出来たのだ。そしてみずきはこう続けたのだった。

美山みずき:「わたし、映画『君の名は。』の奥寺先輩にはなれても、宮水三葉にはなれないね。たぶん倉田さん他に好きな子いるんでしょ」

 このみずきの言った意味が、最初は学には良くわからなかった。そしてみずきの言った「他に好きな子」とは誰なのか自分に問いかけてみたのだ。そうすると自然と、今日カウンセリングした彩の顔が浮かんだ。この時初めて、学は自分が彩のことを好きになっているのだと言うことに気がついたのだった。そして学はみずきに、次なような言葉を発したのだ。

倉田学:「美山さんありがとう御座います。僕を振ってくれて、本当にありがとう御座います」

 そして再び、次のような和歌を歌った。

倉田学:「夏の夜の ひと世の祭り夢のあと 我が想ひでに こころ残して(倉田学)」

 これを聴いたみずきは少し寂しそうな表情を浮かべ、こう告げて学の元を去ることになるのだ。

美山みずき:「花の色は うつりにけりないたづらに 我が身世にふる ながめせしまに(小野小町・美山みずき)」

美山みずき:「倉田さん。わたし倉田さんに悲しい顔見せたくないから。先にお店でるね。わたしの浴衣姿、石巻で期待していてください」

 そうみずきが言うと、みずきは席を立ち学の元を去ろうとした。学はみずきにこう言葉をかけたのだ。

倉田学:「わかりましたみずきさん。みずきさんの浴衣姿、楽しみにしてます。みずきさんの最初の質問、僕まだ答えていませんでした。僕の前世はプラトンです」

 学の言葉はもうみずきには届いていなかった。みずきはお店を出て、学の視界からもう見えなくなっていたのだ。学は姿勢を元に戻し、椅子に座り直して今まで向き合っていたみずきの席の方を向いた。そこにはさっきまで座っていたみずきが、まだ居るような感覚を覚えたのだ。彼女のつけていた香水の香り、そして彼女の姿がまだそこに在るように感じた。学はしばらくその彼女と、同じ時間を共にしたのであった。
 こうして七夕の長い夜は更けていったのだ。織姫と彦星が一年に一度出逢うそんな幻想的な日に、学はみずきとの一生に一度の大切な時間を共にし、そしてみずきから、自分が本当に大切にしているひとを気づかされたのである。


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