風間塵について考えると、我妻善逸がちらついてしまう。
「生殺与奪権を握っている彼ら、」
これは、今話題のあのアニメの有名なセリフ、
ではない。
『蜜蜂と遠雷』にある一説だ。
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この夏から、今話題のあのアニメ『鬼滅の刃』にハマっている。
好きなキャラは我妻善逸。
オタクの推しキャラに対する想像力とはすごいもので、それはもう、あらゆるものにそのキャラの一片を感じることができる。
黄色、雷、タンポポ、うな重…なんていうのは当たり前。だんだん「この歌ちょっと善逸っぽいかも」などとキャラへの感度はいよいよ鋭敏になる。
「善逸っぽさ」に過敏になっている私にとって、『蜜蜂と遠雷』はタイトルからして善逸っぽい。
「蜜蜂」からは、善逸の蜜のような瞳を連想するし、「遠雷」はもちろん雷の呼吸を思わせる。
そうして読み始めたのだが、すぐに私の直感は合っていたと思った。
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物語はピアノコンクールが舞台。そこに風間塵という少年が、偉大な師匠の残した推薦文とともに突如として現れる。推薦文の最後はこうだ。
彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、皆さん、いや、我々にかかっている。
なんてわくわくする導入だろう。
一気に物語にひきこまれた。
まず、私たちは風間塵の才能に驚かされる。そして作中の審査員たちと同様に、彼をどう判断したらいいのか、と考えさせられるのだ。
でも私は、風間塵のことを考えるとき、どうしても善逸のことが頭にちらついてしまう。
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風間塵はとても耳が良い。
彼の天性の音楽性は、耳の良さが一因であることは間違いない。その耳で世界の、自然の、音楽をひろっている。
我妻善逸も耳が良い。風間塵より、良いかもしれない。
でも、善逸にとって耳の良さは恩恵ではないし、耳の良いことをアピールすることもない。
共通の際立った聴覚がありながら、この二人の違いは何なのか。
善逸も風間塵のように、生まれ持った耳の良さをもっと活かせたかもしれないのに。
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善逸が好きになってから、
「鼻が利くことを億面なく人に言い、それを役立てる炭治郎」と、
「耳が良いことを人には言わず、恩恵も受けてこなかった善逸」の対比を、
ずっと考えていた。
風間塵は炭治郎のようだなと思う。
風間塵は自分の異常な耳の良さを、当たり前に受け入れ、周りに示し、音楽に活かしている。
才能があったとしても、これはなかなかできないことではないか。
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『蜜蜂と遠雷』の登場人物たちは、才能のあるものが多い。
生まれ持った才能があるものたちのストーリーだと思う。平凡な私からすると、才能のある人はとても羨ましい。
でもそんな人たちも、輝かしいことばかりではなく、才能があるゆえの苦悩や葛藤があるのだろう。
持って生まれた優れた才能は、ギフトか災厄か。
または、ギフトにできるのか、災厄としてしまうのか。
この二人を見ていると、才能の活かし方は、本人次第、と一刀両断できるものではなく、おかれた環境の方が大事なのかも、と思う。
とんでもない才能を前にして、私たちは恐怖を感じずにいられるだろうか。両手を広げて受け止めることができるだろうか。
理解を放棄して、距離を置いたりしないだろうか。
おかれた環境に受け入れられたら、それは幸福なことだ。
受け入れることができないとき、才能の芽は静かに閉じていく。
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この本の中で、風間塵という存在がギフトとなったか災厄となったかは、興味のある方はぜひご自身で読んで『体験』してみてほしい。
少なくとも風間塵にとって、優れた聴覚はギフトであり、厄災ではなかった。彼はその聴覚を存分に生かしている。
しかし、その優れた聴覚が、もし本人にとって災厄ならばどうだろう。
その問いへのひとつのアンサーが、我妻善逸である気がする。
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「もしかして吾峠先生も『蜜蜂と遠雷』を読んでいたのかな」「そして漫画のインスピレーションのひとつになっていたりして…」
と、オタクならではの想像力を働かせて読了した。
あぁ。とても面白かった。
ちなみに、冒頭の例の一文を見つけてほらほら!と勝手な解釈で喜んだのは、言うまでもない、ですよね。