幾春別ー川の流れと記憶
はじめに
石狩低地を流れる川の一つに幾春別川という川がある。その水源は北海道を縦断する日高山系の夕張山地だ。「幾春別」という名前には、どこか詩的な響きがある。
行く春の別れ惜しくも夏は来る、流し流され幾春別川
と詠みたくなる気持ちも湧く。しかし、実際には全く関係がない話だ。この川の名の起源は、もともとアイヌ語で「イク・スン・ペッ」、つまり「彼方にある川」という意味を持っていた。幌向に住むアイヌの人々にとって、この川は遠くに流れる「向こうの川」として知られていた。幾春別川は幌向の北東にある山々の間を流れており、幌向川の向こうにあるその姿から、この名がついたのだろう。
アイヌ語の地名を読み解くと、その土地の地形や気候、動植物、そして人々との関わりまでが浮かび上がる。その名自体が地誌であり歴史であり、文化でもある。イク・スン・ペッが表すのは、幌向川の山の向こうに静かに広がる川、その水質は澄み、自然のままの流れが保たれた川だったに違いない。石狩川と比べて小さく短いが、その透明な流れはアイヌの人々にとって貴重で清らかな存在だったはずだ。
石炭発見の兆し
江戸末期、そんなイク・スン・ペッにも木こりたちが現れ、川を遡っていった。蝦夷松や蝦夷杉は江戸の市場で高値で取引されていた。そして明治元年、一人の木こりが山の崖で奇妙な黒い塊を見つけた。それは石のような、土のような不思議な黒土だった。誰もその正体を知らなかったが、ひとかけら削り取って持ち帰った。
「幾春別」の「幾」という漢字には「兆し」「気配」の意味が込められている。この黒い塊こそが兆しだった。数年後、幌内には官営の炭鉱が開かれ、やがて鉄道が敷設され、石炭の露出地帯が次々に発見されていった。まさに幾春別の「幾」は「数多く」「果てしない」という意味を含む地名にふさわしい。何千万年もの歳月をかけて堆積し、固められた植物の痕跡は、人々に大いなる富をもたらした。
炭鉱の友子制度
炭鉱の開鉱とともに、全国から人々が集まった。彼らは鉱山での暮らしに慣れた人々で、鉱山独自の「友子」という制度を持ち込んだ。この制度を知るまでは、私はそれが小説の中の女性の名前だと勘違いしていた。しかし実際には、友子は鉱山で働く人々の命と生活を守るための互助制度であった。
山で働くには、すべての者が一人の親分に属する必要があり、彼らは親分のもとで仁義を切り、生活の面倒を互いに助け合う仕組みを築いていた。また、採掘場所や掘る技術は秘密裏に親分から子分へと伝授され、家族同然の絆で結ばれていた。これが彼ら自身の生き方であり、山の厳しい掟だった。
幾春別の春
人口が急増すると、炭鉱周辺には床屋、銭湯、映画館、居酒屋、学校、病院などが次々と建設された。一時期、幾春別川は「黒い川」と呼ばれ、炭鉱夫たちの汗と汚れが、日々の労働の誇りとともに川へと流れていた。幾春別の「春」という漢字には「蓄えられた力を押し出す」という意味がある。まさにこの地には石炭と人々のエネルギーが噴出していたのだ。
「春」はまた、新たな出発を意味する。維新後の混乱の中、社会に居場所を見つけられなかった多くの人々が幾春別に集まり、新しい出会いが生まれていった。それもまた幾春別の「春」の一面であったのだろう。
廃墟となった町
時は流れ、現在の幾春別には何も残されていない。かつての坑道は塞がれ、立坑は朽ちて赤く錆び、鉄道も廃線となった。学校も病院も廃墟となり、草が生い茂っている。明治元年に始まった一つの兆しは繁栄を生み、この百年以上にわたり日本を支え、世界へと押し上げた。しかし、今はただ静かに、何事もなかったかのように幾春別川は流れている。
幾春別の「別」という漢字には「別れ」「分かれる」という意味があると同時に、「わきまえる」「見極める」という意味もある。幾春別川に立ち、過ぎ去った時代の栄枯盛衰を見極めると、私たちは地球の歴史から学ばなければならない課題に気付かされる。
結び
自由、平等、博愛を求めた時代は過ぎ、今やその理想すらも形骸化している。人間は矛盾を抱え、争い、互いの自由や平等を奪い合いながら、何を求めているのだろうか。今はもう使われなくなった幾春別の橋に立ち、上流を見上げ、静かに流れる川の深い碧を見つめると、歴史の無常と自然の永遠が交差する感慨が湧き上がる。
もしかしたら、人類がいずれ宇宙の歴史から自身のあり方を紐解く時代が訪れるのかもしれない。その時、私たちはここに存在しないかもしれないが、それでも廃墟となった村や町、塞がれた坑道に温かなまなざしを向けられるようになっていることを願いたい。
そんな日、幾春別川は山々の緑、錆びた鉄、崩れた家々の残骸、全てを包み込み、静かに深い碧として流れ続けるだろう。