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日本の家族百景 「優しい忘却」

雪がちらつく寒い朝、田舎の一軒家に住む妹夫婦、京子と修一は、義姉である智子を迎え入れる準備をしていた。智子は認知症を患い、一人での生活が困難になり、妹の京子が面倒を見ることになったのだ。家の周りは冬の静寂に包まれ、まるで智子の記憶が静かに雪の中に埋もれていくようだった。

智子はかつて明るく、村の皆から慕われる存在だった。学校の先生をしていた頃の姿が、雪の中でぼんやりと浮かび上がる。笑顔で生徒を見つめる智子の姿は、過ぎ去った季節と共に薄れつつあるが、その面影が京子の心に深く刻まれている。

「智子姉さん、今朝も冷えますね。」と京子は優しく声をかけた。

「ええ、そうね。でも、今日は小学校の授業があるから遅れないようにしなくちゃ。」智子は笑顔で返す。しかし、彼女が教壇に立ったのはもう二十年以上前のことだ。

京子は微笑みながら智子の手をそっと握りしめた。智子の言葉は、積もった雪の上に一歩一歩つけられる足跡のように、やがて消えていく。だが、その足跡の残り香は、京子の心にさざ波のように広がり続ける。

夕方、智子が眠りに入った後、京子は夫の修一と茶の間で話し合った。外の暗闇が、心の中の不安を映し出すように窓に揺れている。「修ちゃん、正直、私は智子姉さんのことをどう受け止めたらいいのかわからないわ。時々、私の名前さえ思い出せないこともあるし…。」

修一は静かに京子の肩に手を置き、ふと遠くの山々を見つめた。「京ちゃん、それでも智子姉さんはあなたを信頼しているから、ここに来ているんだよ。名前を忘れてしまうことがあっても、心の奥底で京ちゃんのことは忘れないさ。」彼の言葉は、雪の中から現れる春の小さな芽のように、京子の心に温かさをもたらした。

その言葉に、京子は少しだけ心が軽くなった。智子が時折口にする思い出の中に自分が登場することがあると知っているからだ。姉の記憶が少しずつ薄れていく中で、ほんの小さな温もりが京子の心を支えていた。

ある日、京子は智子と昔話をしながら、お茶を淹れた。窓の外には、雪に覆われた田畑が広がっている。凍りついた大地が、二人の間に漂う静寂を象徴するかのようだ。「智子姉さん、覚えてる?私たちが子供の頃、畑でかくれんぼをして遊んだこと。」

智子は少し目を細めて考え込む。「ああ…かくれんぼ?確か、京子がいつも見つからなくて、私が困った顔をしていたわね。」と微笑んだ。

その瞬間、京子は智子が一瞬だけ過去の自分を思い出してくれたことを感じた。目の前にいるのはかつての姉ではないかもしれないが、その記憶の断片は京子にとって大切な宝物だった。

月日が経つにつれ、智子の症状は少しずつ進行していった。ある日、智子が京子を見て不安げな表情を浮かべた。「あんた…誰だっけ?」

その言葉に京子は一瞬戸惑ったが、すぐに微笑んで返した。「京子よ、智子姉さんの妹の京子。」

智子は少し驚いた表情をしながらも、やがてにっこりと微笑んだ。「そうだったのね。京子、いつもありがとうね。」

その言葉が京子の心に深く響いた。まるで冬の空に浮かぶ一瞬の青空のように、智子の中に残る温もりが垣間見えた。たとえ名前を忘れても、姉妹の絆が断ち切れることはないと信じることができた。

そしてある日、京子は智子と一緒に昔のアルバムを開くことにした。古い写真の中に写る二人の姿。智子が優しく京子の肩を抱いている一枚を見て、智子は涙を浮かべた。「この人たちは…仲が良さそうね。」

京子はそっと写真を指さしながら言った。「智子姉さんと私だよ。昔から、ずっと仲良しだったのよ。」

智子は微笑み、静かにうなずいた。そして、また目を閉じ、過去の記憶に寄り添うようにうつらうつらと眠りに落ちていった。薄明かりが差し込む静かな部屋で、智子の安らかな表情が、京子の心に柔らかな風景を映し出す。

京子は智子の手を握りしめながら、心の中でつぶやいた。「いつまでも、一緒だよ、智子姉さん。」

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Bestill
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