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『悪態Q』上演に寄せて(泉宗良)

2024年8月25日17時、劇団不労社の『悪態Q』を観劇した。
あいにくの天候で、上演が始まってすぐに、雷の音が会場である京都芸術センターに鳴り響くようになった。停電したらどうしようといった関係者としての不安が頭をよぎりながらも、一方では別の、どこか懐かしい恐怖のイメージを私は思い出していた。

小学生の頃。「雷が鳴ったらおへそを隠さないととられる」と母に言われた私は、雷雨のたび、稲妻が網戸と窓をすり抜け、自分の方へ手を伸ばし、おへそを掻っ攫ってしまう、そんなイメージを抱いて恐怖に震えていた。おへそを隠し布団に包まっていた。

……なぜ、今になってそんなことを思い出すのか。京都公演の会場が元小学校の校舎であり、そのような場所で雷鳴を聞くという経験が当時のイメージを呼び起こしたということはあるかもしれない。だが、それだけではない気もする。雷がすり抜けて私のところまでやってくる。この懐かしくも恐ろしいイメージを私に思い出させたのは、この『悪態Q』という作品にも原因がある気がするのだ。

リミナルスペース。『悪態』シリーズの初演から作品のテーマに据えられているこのネットミームの詳しい内容やそれを手掛かりとした『悪態Q』については以前の森岡さんの文章に譲るとして(素晴らしい紹介文だと思うので未読の方は是非読んでみてほしい)、ここではそこからもう少しだけ踏み込み、リミナルスペースの最も有名な例の一つとして知られる「バックルーム」(The Backrooms)というネットミームについてとりあげていきたい。『悪態Q』が私にあのようなイメージを抱かせた原因を考えるヒントになる気がするからだ。
このクリーピーパスタ(英語圏のインターネット都市伝説)は、2019年5月に匿名のユーザーが4chanで行なった投稿に端を発している。黄色い壁紙と蛍光灯とカーペット敷きの部屋を傾いたアングルで写したその画像は、投稿の翌日、現実でノークリッピングモードになることで行き着くバックルームという場所だという設定が付け加えられると、複数の創作者が追加のフロアやそこに棲む怪物を作成し、単なる画像以上のものとなっていった。

ここで私が興味深く感じるのは、現実空間でビデオゲームに見られるようなバグが発生し、壁をすり抜けることでバックルームに行き着くというその発想、及びその感覚である(ノークリッピングモードとはそもそもデバック用語である)。
身体が壁にめり込んだり、あるいは通り抜けたりする。そのようなことは当然この現実空間では不可能だ。不可能だと考えられている。しかし、それがノークリッピングモードというビデオゲームのバグを経由することで可能だと感じる。感じてしまう。この感覚は一体何なのだろう。

そもそもバグとは何だろうか。簡単に言えば、そのビデオゲームの作成者が想定していない、仕様ではない挙動のことである。だが、少し考えてみると、この定義はなんだか随分曖昧なものである気がしてくる。ビデオゲームの世界は、01のプログラミングの世界だ。そこにはバグも常に既に内包されている。コードに書き込まれている。だから、バグとは、実行された時点で、ある意味ではバグではない。コードに書き込まれてしまっている以上、プログラミングされてしまっている以上、それは確かに作成者の意図ではないかもしれないが、想定された存在なのだ(実際、ポケモンのちからづく×いのちのたまのように、運営によって長年修正されず仕様化してしまっているバグが存在する)。つまり、バグとは、誰かが実行するまで、誰もそんなことができるとは思っていない、可能性の外部の存在であり、実行された時点でそれはただの可能性の一つとなってしまうのである。

だから、現実空間でビデオゲームに見られるようなバグが発生し、壁をすり抜けることでバックルームに行き着くというその発想、及びその感覚とは、この現実世界、我々が普段信じている物理法則によって支配されたこの空間に内在する可能性の外部、さらに言えば、今我々が想定できる可能性の外部、それを幻視するということなのだ。

そして、そのような感覚の発生が、同じリミナルスペースを下敷きにしている『悪態Q』の上演でもやはり起こっているような気がするのだ。不労社の俳優3人がこのまま壁にめり込んでいったり、あわよくばそのまますり抜けてしまっても何ら不思議ではないような気がしてくるのである。この物理法則によって支配された空間の外部、いや、それ以上の、自分が現在想定できる可能性の外部へ、抜け出してくれる気がしてくるのだ。

なぜ、彼らにそのような佇まいが可能なのか。それには、これまで不労社の行なってきた<集団暴力シリーズ>と銘打たれた本公演が関わっているように思う。
限界集落のムラ社会を描いた『忘れちまった生きものが、』、カルト化したコミューンを描いた『畜生たちの楽園』、ブラック企業のパノプティコン型監視を描いた『BLOW & JOB』、そして家族経営の民宿を舞台に家父長制を描いた『MUMBLE-モグモグ・モゴモゴ-』。
これらの作品で不労社は、閉鎖された空間、集団で起こる暴力について描き続けてきた。そしてそれと同時に彼らは、空間、集団が規定され生ずるときに不可分に生まれる、ルール、法則といった類いのもの、その支配についてもまた描いてきたのだと私は思う。

つまり、これらの作品の中で、空間、集団、そしてそこを支配する法によって歪み、捻れ、拉、ちぎれていく人間たちを演じてきたのが不労社の俳優たちなのだ。だから、そのように閉鎖された空間からの影響を、法の支配を受けてきた彼らが、そういったものに感覚を研ぎ澄ましてきた彼らが、逆に空間の側に影響を及ぼす、法の外部へと抜け出すなんてことがあってもおかしくはないだろう。『悪態Q』の俳優3人の存在は、世界からある種の独立をしているように感じる。球体のように閉じられており、空間を押しのけている。人間が存在するということはそこにあった空間を押しのけるということなのだ。彼ら3人は、そのまま空間を押しのけ、ともすれば壁にめり込み、すり抜けてしまうのではないかと思わせる。
だから、いわば、『悪態Q』は不労社の俳優たちの、空間、そしてそこを支配するものへの逆襲なのだ。

可能性の外部へアクセスすること。想定の外へと抜け出ること。それは、未知なるものへと接近すること、未知の場所へと向かうことであるのだから、恐怖を伴う。
だから、稲妻が私の方へとすり抜けて向かってくる、自分の存在する空間へ外部から何かが向かってくる、そんなイメージを思い出したのだきっと。

あるいは、『悪態Q』は、Y2K、ヴェイパーウェイヴ、ニンテンドー64の3Dポリゴンを思わせるような映像、どこか懐かしく、それでいて不気味な、あの頃夢見た近未来、つまるところの過去形でしか語ることのできない未来、そんな閉塞感が支配する作品でもある。だから、あの子どもの頃の懐かしく恐ろしいイメージを思い出したのかもしれない。ノスタルジックでトラウマ的なイメージを思い出したのだ。

だが、この閉塞感は、同時に非常に現在的でもある。もはや引用と参照でしか、何も語れない、何も出来ないようなこの閉塞感。想定された可能性の内部、規定された空間の内部で支配され、戯れるしかない私たち。

『悪態Q』の俳優3人はそんな私たちの写し鏡であると同時に、そこから脱するためのバグを探し続ける存在である。哀れで滑稽だが、その、世界を押しのけてまで存在しようとする姿、形、声、身体の真摯さは何か、もしかしたら、と思わせてくれる力がある。この何もかもが想定されてしまった世界で、まだ想定されていない外部へのエスケープを夢見させてくれる。是非一度目撃してみてほしい。

雷がすり抜けて私のところまでやってくる。
あたったら、どうなる?


泉宗良(うさぎの喘ギ)

1996年生まれ、大阪府出身。 劇作家・演出家。
2017年に「うさぎの喘ギ」を旗揚げ。以降、殆どの作品で作・演出を務める。 近年の作品に『演劇RTAハムレット』、『いみいみ』等。
心斎橋 ウイングフィールド劇場スタッフ。DIVE大阪現代舞台芸術協会理事(2024-)。

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