自分のためにも他人に「敬意」は払った方が良いなと思った話。
先日、ご飯屋さんに行ったときに思った話。
私のついたテーブル席の隣がちょうど個室だったのですが、会話が漏れ聞こえてきました。
聞くつもりはなかったのですが、聞こえちゃったので。つくづく自分の性格は悪いなぁとは思いつつも、ちょっと思うところがあったので書かせてください。
個室なので顔は見えませんでしたが、どうやら割と年配のお客さんたちの模様。
10人居るか居ないかくらいの人数。
まだ明るい時間帯でしたが、何やら楽しそうに、酒盛りが始まろうとしていました。
年齢差の多少あるグループなのか、誰かがまた別の誰かに対して、腰を低くしてへりくだって、敬語で話しているのが聞こえます。
と、その時、店員さんは(恐らく外国籍)がその個室に入って、注文を取りに行ったようでした。
するとさっきまで、人の良さそうに謙虚に話していたであろう人が、その店員さんに対して態度をガラリと変えた口調で応対しているように聞こえます。
いや別にその人がどうとか言うつもりは無いですし、そのお客さんにとってはいつも通りフランクな態度で居たのかもしれませんが、何とも傍で聞いていたこちらとしてはちょっと違和感のようなモヤモヤのようなものがありました。
そのモヤモヤが何なのかは分かりません。「人によって態度を変えるなよ」ということが言いたいわけでもありません。私も偉そうなことは言えませんから。
ただ何と言うんでしょう。もうちょっと「敬意」みたいなものは、忘れないようにしたいなと、自戒を込めて思ったわけです。
「わたしは日本人だから(=相手は外国籍だから)」「わたしは客だから(=相手は店員だから)」「わたしは年上だから(=相手は年下だから)」みたいなカテゴライズって言うんでしょうか、対立構造というのでしょうか、そういうのは無意識のうちに持ってしまうことがあるのかな、なんて思いました。
「敬意」みたいなものが何なのかイマイチ私には分かりませんけど、何となく相手との違いを認めて、そして可能ならそれに歩み寄ることが大前提にあるように思うんですよね。
断っておきますが、別にそのお客さんが「敬意」を払っていないというわけではないと思います。
それでもその態度の変わりっぷりを見ていたら、店員さんに対して「俺とオマエは違う」という構図が見て取れて、それは身内(それも目上の人)に対しても「わたしなんて貴方とは全然違いますから」という構図も透けて見えました。
そしてその「自分と相手は違う」という構図がいつのまにか「どっちが上か(下か)」といった優劣の問題に置き換わっているようにも見えました。
そういうふうな見方をしてみると、「うーん・・」と首を傾げてしまうような気持ちになりました。もしくはその二面性のようなものに対して「ハハッ・・」と冷笑するような、そんなモヤモヤ感。
でも、しばらく考えてハッとしました。
それは、他人のことを言っていないで、私も改めて肝に銘じるべきことがあるんじゃないのかと。
仕事上の同僚や上司に対する態度も当てはまるかもしれませんけど、目下、私にとって気を付けようと思ったのは「子供に対する態度」です。
「わたしは親だから(=きみは子供だから)」という無意識の中にある違いが、いつしか、「上か下か」の問題にすり替わっていやしないか。それが子供の意見をおさえつけて、言うことを聞かせるための大義名分になっていやしないか。
最近、結構子供を叱ることが多いので、そんなことを思いました。
もちろん、何でもかんでも子供のやりたいようにやらせてすべて受け入れるというのも多分ちょっと違う気はするので、その辺りは匙加減と言いますか、良い塩梅が大事なのでしょうけれど。
話は戻りますけど、何なら、もしかしたらそういった構造も本当に正しいかどうかは分かりませんしね。事実としてそういう差異が存在するとしても、その大半は何となく個人の認識に依るところも多い気がします。
私が「外国籍かも」と思った店員さんはカタコトの日本語だったから勝手にそう思っただけで、もしかしたら日本人かもしれません。年下だと思っていた取引先は、もしかしたら単に謙虚で童顔な人であって、自分よりも一回りも年上かもしれません。身なりが貧相だから所得の低い人だろうと思っていたら、もしかしたら資産家だったりお金持ちの可能性だってあるわけです。
そういう、勝手な認識はそもそも合っているとは限らない。そして、仮にそういう認識が合っていたとしても、それがただちに「優劣」の判断に直結するとも限らないと思うのです。
日本人だから、年上だから、お金持ちだから、だから自分と比べてどうなのか。もし自分のほうが「下」だと分かったら、そういう態度を取らなくてはならないのか。あるいは「上」なら威張っていいのか。
そんなことは無いでしょう。
だからと言って、誰に対しても平等で居るべきだなんて無責任なことは言えません。
圧倒的な力関係というのは世の中に存在することは事実ですし、そのコミュニティの中で生きていく以上、その関係に縛られるのは仕方ないことだろうと思うからです。
たとえば、会社という組織に所属していたら、上司の意見を無視することはできませんし(実際に命令を聞くかどうかは別として)、たとえ同じ意見を主張していたとしても、自分よりも何らかのステータスが上の人のほうに、人々が耳を傾けるのは当然です。
それらをすべて無視して力関係をひっくり返してまで、「自分のなすべきことをやれ」「自分は誰に対しても物怖じする必要なんて無い」「生意気で居ていいんだ」なんてことは言えないわけです。私はそこまで大胆不敵ではないですし、そんなことは到底できません。何より臆病者ですから。
でも、たとえ、上だとか下だとか思ってしまったとしても、そこで「上」と思ってしまった人に対して払う「敬意」と、「下」だと考えている人に対して払う「敬意」が全く別物というのは、何となく変な感じがするんですよね。
そもそも「敬意」は上だとか下だとかの判断基準に付随するものではないような気もするわけです。
何度も言いますけど、私には「敬意」なんてものはよく分かりませんけど、それが辞書的な意味で「相手を尊敬する気持ち」であるとするなら、上だろうが下だろうが、それは単なる一つの基準で測った結果での世界でしかないようにも思うんです。
それは特定の物差しでしかなくて、その物差しで自分と比べてどうかを見たうえで、その人自身に敬意を払わなくていいんだ、って考えて理由にはならないような気がするなぁと思うわけです。
だって、年下だろうと、子供だろうと、自分より所得が低かろうと、外見が劣っていようと、反対に、年上だろうと、親だろうと、貧しかろうと、いくらハンサムだったり美人であろうと、そこにある事実は、その目の前に居る人は私とは全く違う人間だというだけです。
その差異があるってだけで、その人のすべてを知りもしないのに、判断なんてできない。たったそれだけの差しか無いだけで、その人自身を全て否定して「はい、俺の勝ちー。お前は人間的に俺よりも劣ってるんだよ」なんて言えるはずが無くて。
いえ、もっと言ってしまえば、もしかしたら仮に相手のすべてを知り得たとしても、そこで「人間的に上か下か」と決めることができるのか。できたとして、果たしてそれに何か大きな意味があるとは、何となくちょっと思えないわけです。
変なたとえですけど、昔は仕事のできない部下で「ダメなやつだなぁ」と思っていた人が、メキメキと頭角を現していつか自分の上司になるかもしれない。そういう時に、昔と態度をコロッと変えることになったりしないか。いやまぁ会社ということを考えると、そういうのも仕方ないですけど。
けれど個人的には、そういうことになったとしても、あまり態度は変えたくない。カッコつけているんでしょうか、分かりませんけど、できれば堂々としていたいんですよね。
何の話でしたっけ。
ああ、そうだ、差があるとか上か下かとかそういうです。
まとめると「差があるってだけでそれが人間的に上か下かってことには結びつかないけど、現実問題として上下関係はある程度仕方ないもので、そしてそれもいつどうなるか分からないから、やっぱり結局誰に対してもありのままの自分で居られた方がラクだし良いなぁ」という話でした。
そのための「敬意」なんじゃないかなと、勝手に私は思います。
だって、誰に対してもできる限り低く低く居さえすれば、相手によってコロコロ態度を変える必要なんて無いわけですから。
それに私は基本面倒くさがりなので、後になって「おい、あの時はよくも可愛がってくれたなぁオイ」みたいな事態になるのも嫌ですしね。
もちろん尊敬という意味でもありますけど、それ以上に、私が私らしく居るためのそういう「守り」としての「敬意」であると。
やっぱり結局何の話かよく分からなかったですけど、とにかく、子供であってもキチンと対等に接していこうと。できる限り。
そのご飯屋さんの出来事を通じて思いました。そうでないと、子供が成長した時に愛想尽かされかねないですしね・・。いつまでも仲良く居たいですから。おしまい。
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