潮時の話。
なぜ書いているか分からなくなる。
このnoteの話。
書いている最中は「この思いを言葉にしたい」とか「大して表現したい思いは無いけれどとにかく言葉にしたい」とか、そういったことを考えて書いている。
だから、一度記事を書き上げてしまえば、その思いが成仏されるようにスーッと消えていく。ある種の達成感というか、「ああ、書き終えたな」と思ってそこで書きたい気持ちは無くなる。
けれど、しばらくして出来上がった文章を読み返すと、「何でこんなことを書いたんだろう」と思うことがある。その「何で」は、当時の理由が知りたいというわけではなくて、こんなにみっともない文章をどうして書き散らすことが出来たのだろうという後悔や恥ずかしさが湧き上がるものだ。(恐らく、今こうして書いている内容もそれに該当するだろう)
そういう時に、「ああ、別にこんな言葉を残すことに意味なんか無いよな」と思って、いっそnoteのアカウントごと消したくなる。
あるいは、生活に忙殺されてnoteの時間が取れなくなった時も、そう思う。前回書いた時からだいぶ間があいてしまって、「じゃあ次は何を書こう」と考えた途端に、つまらなくなる。まるで「書くこと」そのものが目的化していることに気付くからだ。
去年の終わりくらいに「毎日更新しよう」と思って、やってみたことがある。それはそれで、意味があったのか効果があったのか知らないが、苦痛ではなかった。「書かなきゃ」と焦ることなどは無かった。日常生活の中に組み込んで習慣化していれば、「今日はこういう出来事があった。だからそのことで思ったことを書こう」と思ってそう実践していたからだ。
だが、それは「書くこと」の目的化から目を逸らしていたとも言える。別に私はそれを否定するつもりはないが、個人的にそこに目的や意味など求めたいとは思えない。
そういうわけで、話は戻るが、そんな時には「ああ、もうnote辞めよう」と思ったりする。
だが、今、辞めていない。
それは何故か。
なんとなく「辞める」という選択肢を取るのが癪だと思ってしまうからだ。
言い換えると、「敢えて、辞める」という選択をする必要があるのか、分からない。それなのに、そこで勝手に「はい、おしまい」とすることに、釈然としない気持ちがある。
じゃあ反対に、「続ける」という選択肢を取ることにも、何とも違和感がある。何のために書くの?いつまで書くの?そういう問いと向き合うことになる気がするのだ。
理想は、自然と書かなくなること。なのかなと思う。
それはまるで、生き物が最期を迎えるように、自然と、その行動を止める。そう考えると、私が「敢えて、辞める」ということをしたくないのは、自分で自分の命の灯火を消すようで嫌だったのだ。
その一方で、「続けていくのだ」と胸に決意を抱くのにも違和感を覚えるのは、命が選択的に続いていくのではないのと似ている。もちろん、続けようと思うから命は続くのだろうが、酷い話、続けようと思わなくても続いたりもする。
つまり、それと同じで、どうして文章を書くのを敢えて辞めたり続けようと思う必要性があるのかな、と。時期が来れば、たぶん勝手に終わっていくのに。だから、アカウント削除をタップするのは、まだ今のタイミングではないと思っている。
そんなふうな、潮時について考えてみた。
まあ、そう言いながらも、明日にでも終わりを選択する可能性も否定できないけれど。今は、何とか続いている。それだけの話。
ああ、また恥ずかしい文章を生み出してしまった。けれど、生きているのだもの、仕方がないよな。と自分に言い聞かせる。
つづく。