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生きがい迷子の話。
先日「自分は空っぽな人間だ」という話を書きました。
その続きです。
今、仕事が上手くいかなくて。
いえ、上手くいかないと言うと語弊があるけれど、実際には、失敗もしていなければ成功もしていないというそんな中途半端な状況をここ数年はずっと続けてきていて。
色んな説明を省いてしまえば、そういった状況が今の自分から仕事への関心を失わせているような気がしています。
その中で、ポッカリ空いた心の穴みたいなものを埋めるためには、仕事の話ができる誰かと飲みながら愚痴ったり今後の希望を語ったりできたら嬉しいなという意味で「友だちが欲しい」と書いたのでした。
仕事で空いた穴は仕事で埋めたいところではありますが、仕事が上手くいってないのなら、せめてその愚痴を聞いてもらえる誰かと一緒に酒でも飲んで発散させたい、と。
ですからそこでは、本当の意味での「友だち」とは少し離れているのかもしれません。
しかし、そういう打算的な思いで求めている存在ですから、たとえそういう「友だち」と飲んで食べてお喋りをしたとしても、私自身の中に伝えたい思いがあるわけでもなければ、相手に対して学びたいことや吸収したいことがあるわけでもないのです。
そういうわけで、結局は自分が空っぽな人間だということを気付かされるのだろうなと思います。
そんな話を書きました。
実際、先日のこと。
時間の都合がついたため、学生時代からの気の置けない友人に声をかけて、仕事終わりに一緒に飲んだのです。
そうしたらば、やはり思っていた通りの結果になりました。
彼と話す私は、仕事で満たされない思いをポロポロと吐露するだけで、何か生産的な話ができたわけでもなければ、彼からアドバイスを求めるような誠実な態度を取ることもできなかったわけです。
つまり、話をしていてお互いに「は?いったい何なのこの時間」というような思いを抱かせるような空間を見事に演出してしまいました。
ただ、それは相手の問題ではなく、100%自分の中の問題。
昔の私であれば、その彼と会ってお喋りをしていたらとても楽しい時間を過ごせていたと思います。実際、私と彼は、学生の頃には同じアルバイトで時間を過ごしたり一緒に海外旅行へ行ったこともありました。
変わったのは私です。彼のほうは昔と変わらず、私のこんなつまらない話を優しく頷きながら黙って聞いてくれたことだけが幸いでした。
私が、空っぽな人になっていた。
それだけのことなのかもしれません。
彼と一緒に飲んで話したことで、それを再確認したのです。
で、ちょっと考えたわけです。
私はいつから、こんな人間になったんだろう、と。
上で「仕事が上手くいかなくて」と書きました。それは事実です。
今勤めている会社に中途で入社した当初はやる気もあって、現場の中で自分で手を動かすといったような、仕事のやりがいみたいなものも感じていました。
ですがここ数年間は、そういうやりがいのある仕事は少なくなってきました。調整とか折衝とか私の嫌いな仕事が増えてきたことで、そしてそういう仕事を幾つこなしても自分の中で満たされるものは何一つとして無くて、次第にやる気もやりがいも失ってきていました。
そう解釈していました。
ただ、本当にそうなのか、本当に「仕事が上手くいかない」もっと正確に言えば「やりたい仕事ができない」というだけで、途端にそんな空っぽな人間になるものか、という疑問を今、抱きつつあるのです。
もしかしたら私は、それよりずっと前から、空っぽな人間だったんじゃないのか。
では反対に、空っぽじゃない、ってどういうことなのか。「中身が詰まっている」とか「満たされている」「充実している」とかって、どういうことなんだろうと考えてみます。
・打ち込める趣味や誰にも負けない特技がある。
・やりたいことがあって生活の中で追求できている。
・仕事もプライベートも生き生きとしている。
・ポジティブな気持ちで前を向いている。
・常に自信を持って誰に対しても堂々と振る舞える。
そのようなところかと思いつきました。
もちろんそのうちのどの一つも、今の私には持ち合わせていないことでした。
そこで疑問が浮かびました。
今の私ではなく、それがかつての私ならどうだったのか?
そう考えてみると、これと言って当てはまるような時期も無かったのではないかとも思うのです。
つまり、私は今までずっと「空っぽ」だったということになります。仕事が上手くいっても上手くいかなくても、私自身ずっと空っぽだったのです。
なんだ、そうだったのか。充実していたと思っていた自分は、全然そんなことはなくて。仕事が上手くいっていた時は、たまたまその事実に目が向かなかっただけのことだったのだと気付きました。
では、こんな空っぽな状態で生きていて、楽しいことなんて無いんじゃないか。決してそんな今の状況は幸せとは言えないないのではないか。
そう考えると、案外そうでもない、とも思うのです。
空っぽだろうと、幸せに感じる瞬間はあります。休みの日にきちんと休めること、妻と子どもたちと会えること、美味しいご飯を食べることができること、布団で寝ることができること。そういう当たり前のような出来事に、幸せを見出すことがあります。
その中の些細な出来事の一つに、仕事が上手くいくこと、が入ってきたりするだけです。
幸せかどうかは、何か所有することができるようなものでもなくて、何か段階のように何かを成し遂げた上で辿り着けるものでもなくて。「ああ、幸せだな」と思える瞬間があるかどうかで決まるのではないかなと思うわけです。刹那的な状態と認識の問題と言いますか。
つまり、仕事が上手くいってもいかなくても、もっと言えば今までずっと空っぽであろうとも、幸せを感じる瞬間があるということです。
何だか最近の私は、たまたま仕事が上手くいかないことで「自分には何も無い」=「空っぽ」=「幸せではない」と勘違いしていました。それらの図式はただちに結びつくものではないはずなのに。
一旦そういう思考に陥ると、危険な流れに繋がる可能性があります。まるで、自分が生きている価値や甲斐が無いような、そんなふうに思ってしまう危険性です。
私は、今回それにたまたま気付けて良かった。ですが、いつまたそういう思考に陥るか分かりません。頭が悪くて、それを学んでもすぐに忘れてしまうのです。
今、私が出来ることは、こういった「空っぽ」を受け入れて、それに向き合って生きていくしか無いのだと思います。
生きがいなんて、きっとこれからもずっと見つからない。ただそれは諦めということではなく、それを生きる目的にしてはいけない。そんなふうに思うのです。
いつまでも私は、生きがい迷子。100%大満足して常にどんな時でも納得いく人生を送れるとは到底思えません。
それでも生きていく。諦めずにそれを探し続けながら、その一方で日々の中で幸せに感じる瞬間を出来るだけ取りこぼさずにして生きていこうと思います。おしまい。