自分にも他人にも求めてしまう「あるべき」の話。
また今宵もコインランドリーです。
昨日も今日も微妙なシトシト雨が続いていたもので。明日もどうやら雨っぽいのでこうしてまたやってきたわけです。
乾燥時間は残り30分、いや、25分弱。
書くことは決めてないんですけど、ふと今日思ったことを書いてみます。行き当たりばったりですみません。
今日実は、娘の体調があまり良くなくて、大事をとって保育園を休ませました。
病院で診てもらいましたが、特段何かの病気ではないとのこと。お薬を処方してもらって、娘には家で安静にしてもらいつつ、私は仕事をすることにしました。
家に子供が居るとどうにも落ち着かないと言いますか、正直あまり仕事にはならないわけで、私も集中力もそこそこに適当に仕事をしていました(ダメな大人でごめんなさい)。
言い訳をさせてもらうなら、今はそこまで急ぎの仕事があるわけではなく、せいぜいシステム化の要求仕様を揉んだり突き返したり深掘りしてヤブヘビになったり、みたいなことをやっているわけです。
なので、子供の様子を見ながら片手間でできる仕事といいますか。私は一応システム開発業務を生業にしていますが、これがガッツリ手を動かしてプログラミングしないといけないとか、緊急の不具合対応をやらなきゃいけないとかいう場合になると、申し訳ないですけど子供の面倒を見る余裕は無くなってくるわけです。そんなスーパーエンジニアではなくただのポンコツなので。
なので、たまたま今回はタイミングが良かった。そう言えるかもしれません。
で、仕事をしながら娘に色々と声をかけたりするんですけど、ふと気付いてしまったんです。
私の口癖に。
それは、何かにつけて
という言葉を使ってしまっていることに気が付いたのです。
たとえば
とか、そんなことばっかり娘に対して言っていました。今に思い返せば、本当に口うるさいなぁと我ながら思います。
ですが、本質は実はそこではなくて。
「ちゃんと〜」という言葉の裏にあるのは「本来はこうあるべきなのだ」という暗黙の規律のようなものだと気付いたわけです。
つまり「本当はこういう行動をしなければならない」ということを、私は子供に対して無意識的に求めると言いますか、強制に近いことをしていたのです。
それってどうなのだろう、と、何だか思うわけです。
もちろん私が何の気無しに言ったその言葉たちの中には、常識とか一般的には確からしいものだったり、そうしなければ不利益を被ってしまうリスクを回避したり未然に防止する目的のものもあったかと思います。
甘いお菓子を食べた後は当然に歯磨きをしなければ虫歯になりますし、靴下を履かずに出かけるなら靴の中が蒸れたり踵が擦れて痛くなる可能性もあります。後で困るのは自分なわけです。
ただ、それはそうかもしれませんが、そういうもの以外にも、私自身の価値観や物事を判断する基準として「こうあるべきなのだ」という私だけの考えを、勝手に押し付けてしまっている部分があったのではないかなと思いました。
それに、仮に私が「常識的にはこうしておいた方が良いのだ」と考えていたことであっても、それが子供本人にとって100%適用されるかどうかも怪しいのです。それは、そういったケースに出会したときに、彼(彼女)が問題解決するためのきっかけを奪うことになりはしないか、ということも不安に思いました。
無駄な労力を費やすべきではない、と親心としては思うわけですけれど、果たしてそれが無駄なのかそうでないのか、それはもしかしたら当人にしか分からないことではないのかな、と。子供自身が問題に直面し、悩み、そこから何を学んでどう対処していくか。それは、親といえども他人という存在が指南して習得していくようなものではないように思えるのです。
もちろん、子供は成長段階・発達段階ということを鑑みれば、こちらから手解きをしてあげる場面も多々あるでしょう。しかし、行きすぎたパターナリズムにならないよう、その辺りは気をつけていく方が良いかと思ったわけです。
何より、子供の人生は子供の人生。私の人生とは全くの別物ですから。
ですから、その「こうあるべきなのだ」というのを、私が子供に対してそう言って求めてしまいそうになったら、少し立ち止まるのが大事だなと。
それと、「こうあるべき」というのは、子供に対してだけではなく、私自身に対しても求めてやしないかと。
そういうことも、もしかしたら自分自身に求めているような…と、ちょっと思いました。
ですがこれはもう、考えるのには時間切れ。どうやら乾燥が終わったみたいです。
戯言はこの辺にして、洗濯物を回収して帰って寝ることにします。おやすみなさい。
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