「サイエンス!」 汝の名に祝福あれ
科学(サイエンス)的権威と、宗教的権威を対比して、どのように政府が国民にコロナ政策を受け入れさせたかを解説した論説です
要約
・宗教と「サイエンス」を入れ替えた2つの例
・現代に、宗教的自由はあっても、「サイエンス」の自由は
なくなった
・政府は、「サイエンス」の神の言葉で、国民全体を管理した
・政府は、神である「サイエンス」を召使にしている
2023.1.16 OffGuardian
by Jordan Henderson
現代における宗教の自由とは
もはや宗教の自由は、過去の時代に実際に実行されていたかもしれない自由をもたらすことはできない。今日それができるのは、信仰体系(信仰を持つか持たないか)の自由だけである。
その理由は簡単で、支配的な信念体系(国教)が宗教であった時代には、宗教の自由は大きな意味をもっていただろう。宗教の自由は、支配的な信念体系を押し付けられない自由を意味していただろう。
しかし、宗教の自由はもはや支配的な信念体系を押し付けられることからあなたを守ることは出来ない。なぜなら、今日、支配的な信念体系は国家によって規定された「サイエンス」であるからだ。
今やサイエンスは、かつて教会がしていたのと同じように、政治的権力を合理化する役割を担っている。
まず、私たちの新しい現実を、2つの例を通して説明したいと思う。最初の例は「良いお知らせについての、ちょっとしたおしゃべり」というタイトルで、サイエンスのドグマ(教義)を宗教用語を使って風刺的に説明している。
2つ目の例は「洗礼証明の必要性」というタイトルで、逆に政府が「サイエンス」の教義や儀式の代わりに、宗教の教義や儀式を国民に強制したらどうなるかを想像してみるというものである。
つまり、最初の例は、宗教的ドグマがサイエンス的ドグマと入れ替わった状態を想像せよというもので、2番目の例は、その逆のシナリオを想像してもらおう。サイエンスの儀式やドグマが、宗教の儀式やドグマと入れ替わるというものだ。
第一の例:良いお知らせについての、ちょっとしたおしゃべり
皆さん、ちょっといいですか、聞いてください?
私たちの救世主である「サイエンス」について、少しお話ししましょうか?
ワクチンについての良いお知らせを聞いたことがありますか?
ここで、あなた方と分かち合いましょう。
聖典である「ワクチン接種による救世の経典」を開き、
「製薬記」の章をめくってみましょう。
では、読んでみましょう。エッヘン!
皆さん、よろしいですか?
さて、そこのあなた!
あなたは予防接種を自分の救世主、守護聖人として体に受け入れましたか?
えっ、いいえですって?
それなら、悔い改めて予防接種を受けなさい!
原罪の教義から分かるように、すべての民人は感染する可能性があって、工業化された医学による、栄光ある無菌状態には至らないからです。
この教えが陰謀説の餌食になるのは分かりますが、「サイエンス」は皆さんの能力を超えていることを理解しなければならなりません。
真実を見極めるのは「サイエンス」聖職者の仕事であり、あなたの仕事は承認された「サイエンス」聖職者の言うことを信じることです。
「サイエンス」は正道であり、真実であり、聖なる光です。
「サイエンス」を通してでなければ真理に到達することはできないのです。
汝、「サイエンス」を信じよ。
第二の例:洗礼証明の必要性
もしアメリカ政府が,洗礼を受けたという証拠を示さない限り、外国人の入国を認めないと宣言したらどうでしょうか?
州や地方自治体が、日曜日に行われるすべての非宗教的活動の閉鎖を命じたとしたらどうでしょう?
あらゆるレベルの政府が、特定の場所や旅行先で十字架のネックレスのような、外見上の信仰の表明を義務付けたらどうでしょう?
もし、洗礼の証明と十字架のネックレスの着用が、政府のために働くための条件だとしたらどうでしょう?
民間企業でも、顧客に十字架のネックレスの着用を要求しなければならず、私立学校でも洗礼の証明のある人しか雇用できないとしたらどうでしょうか?
宗教の自由は不十分な遺物である
信教の自由には、自分の好きな宗教を実践する自由と、他人の宗教からの自由が含まれる。つまり、信教の自由があるとみなされる社会とは、誰も特定の宗教の儀式に参加することを強制されない社会なのである。
他人の宗教の儀式に参加する義務からの自由は、無神論が台頭して初めて高まった新しい概念や願望ではなく、宗教からの自由、特に国家が選んだ宗教の儀式に参加しない自由は、古代ローマではキリスト教徒自身が主張し罰せられたものだった。
宗教の自由は、支配的な信念体系が宗教であった時代と場所での概念であるため、信念体系の自由と呼ばれる必要はなかったのです。私たちは信教の自由があることを誇りに思っていますし、信教の自由がかつてないほど重要視されていない現在、この自由があることに安らぎを感じている。
「サイエンス」と「国家主義」(右派は愛国心を、左派は民主主義を装う)の信念体系は、威信と普及率において宗教的信念体系に取って代わられたのである。
西洋の政府や支配階級は、自分たちの権力を正当化するための主要な手段として、もはや宗教を使わないので、平民のための宗教的自由は容易に手に入れることがでる。一時的な権力者は、自分たちが支配し権力を正当化するために使う信念体系を民衆に強要するが、それは今や、国家が定義する「サイエンス」と「民主主義」なのである。
愛国主義的な右派がやりがちなように、アメリカの宗教の自由を自慢することは、魔女を火あぶりにすることがなくなったことを自慢するのと似ている。あなたには魔女や魔術師である自由があり、私たちはあなたを焼いたりしません。社会としてほとんどすべての人が魔女の火あぶりを非難し、(しばらくの間、非難し)てきたことを考えると、私たちがもう魔女を焼かないというのは、まったく意味不明であり、自慢するようなことでもない。
同様に、西洋文化は、国家が選んだ宗教を押し付けることをとっくにやめ、誰もが自分の選んだ宗教を実践することを多かれ少なかれ認めている。その結果、日曜日や土曜日に教会に行ったり、シナゴーグに通ったり、あるいは宗教行事に全く参加しない自由は、何も自慢できるものではない。欧米では、この基本的な信教の自由を認めない言い訳はないだろう。それは期待されていることですらなく、当然のことなのである。
しかしこの進歩は実は幻想で、信教の自由という不適切な言葉を超えて、ほんの少し広い意味での信仰体系の自由という言葉で考えてみれば、私たちには信仰体系の自由がないこと、そして国家はいまだに国家が選んだ公式の信仰体系、つまり「サイエンス」を私たちに押し付けていることがすぐにわかるのである。
教会/シナゴーグ/モスクに通うという基本的な権利でさえ、支配的な信念体系である「サイエンス」がそうではないと言うまでしか、あなたには許されていない。「サイエンス」が教会をダメだと言ったら、(ロックダウンのときのように)ミサはないのだ。昔ながらの日曜法に基づいて、いつ営業してよいか、いつ閉店してよいか、誰が企業に言う必要があるのだろうか? 誰もいない。
なぜなら、今や当局は「サイエンス」の法則に基づき、自由に企業やイベントを閉鎖することができるからである。
しかし、サイエンスは愚かな宗教とは異なり、現実のものである
「サイエンス」への信仰は正当であり、「サイエンス」が正しいことを「知っている」ので、国家が非信者に「サイエンス」の儀式や儀礼を強制する権利があると信じている「サイエンス」の信奉者から、このような反論を聞くかもしれない。さて、考えてみよう。
キリスト教やイスラム教は、それが真理であり、それが真理であることを「知っていた」からこそ、自分たちの信念体系を押し付けることを正当化したのである。他の愚かな信念体系が間違っているのとは違い、彼らの信念体系は正しく、彼らはそれを知っていたのだ。彼らは専門家(宗教的権威)を信頼していたのだ。
「サイエンス」の信奉者たちは、聖戦/十字軍/ジハードを通じて自分たちの信念体系を押し付けるキリスト教徒やイスラム教徒と何ら変わらない。彼らは自分たちが正しく、自分たちの信念体系が真理で、他の人は皆間違っていると「知っている」のである。それは自分自身のためであり、社会全体のためなのだ。
サイエンス信奉者に期待されるもう一つの反対意見
もし、「サイエンス」の儀式(ワクチン、マスク、ロックダウン、PCR検査、さらにワクチン、もう一度ワクチン)に従わず、社会全体にそれらを押し付けなければ、我々は「サイエンス」の怒りに苦しむことになる・・・つまり、微生物はワクチン未接種者の汚れた身体で繁殖し、真の信者であるワクチン接種者に感染するだろう。
もう一度言うが、これは信念体系を非信者や異端者に押し付ける正当化のために、いつも使うのと同じ論法である。支配的な信念体系に皆が従わなければ、社会全体が苦しむことになるのだ。さらに遡って、キリスト教徒やイスラム教徒が登場する前に、旧約聖書からそのままの例を挙げてみよう。
イスラエル人はその男を石打ちにしなければならなかったが、それはモーゼが権威主義の支配者であり、誰も自分の権威に逆らうことを許さないからではない。そうではなく、モーセは単に「サイエンス」に従っただけなのであった。
モーセは、「神がそうするように」と言っただけなのである。
旧約聖書では、誰もが従わなければならない。従わなければ神の怒りがイスラエルに及ぶ。あるいは敵に蹂躙されて神に背を向けられるということが繰り返し語られている。つまり、祭司の権威に従うことは、基本的に治安維持のために行われたのである。
当局は、神の戒律ではなく、「サイエンス」に従うことを強制しているが、これは全く同じ手口である。
当局はあなたに命令しているのではなく、「神の法則」や「サイエンス」のような別のものに従っているのだというふりをし、たまたま神や「サイエンス」が要求するものを決定する立場にあるのだ。
神の怒りや最新のウイルスというブギーマンから集団を守るために、(平民の)個人の自由を犠牲にするのである。ブギーマンは、神やサイエンスの怒りを鎮めるために、全員が行うことで初めて効果を発揮する、ある種の儀式によって抑えることができる。
中世では、異端者はその思想に感染するのを防ぐために焼かれた。当局は異端者を焼くことを望まなかった。正直なところ、当局はほとんどの場合、異端者を焼くことを望まなかったと思うが、異端の広がりを止めるためには、そうしなければならなかったのである。彼らは異端を、教会という信者の体を感染させる病気とみなしていた。中世の権力者は、人々の救いを失いかねない危険な誤情報(異端)の流布を止めなければならなかったのである。
信念体系の先頭に立つ権威は、誰もがその信念体系に参加しなければ、 社会全体が苦しむことになるという話を、何度も何度も紡ぎ出す。権威者はこれを、自分たちの信念体系に従うことを強制し、異論を罰する ための正当な理由として、何度も何度も使っている。
コロナのマスクは、「サイエンス」の信奉者が信者でない人々にコロナの儀式を強要する正当な理由を提供するために作られた、そのような大げさな話の一つである。この言葉の真偽は、簡単な論理的分析で証明できる。
マスクは、着用者に対して次の2つのことを行うことができる。
1.)ウイルスを媒介する粒子(飛沫、エアロゾル、そのほか
彼らが原因にしているものすべて)をブロックする
2.)上記の粒子をブロックできない
もし、1.)のように、マスクが実際に粒子を懸念される大きさまでブロックすることができれば、マスク着用者は保護されて、他の人がマスクを着用する必要はなくなる。
しかし、2.)のように「サイエンス」の信奉者がつけていた(そして今もつけている)マスクが、彼らが妄想している粒子の大きさをブロックできないのであれば、彼らはもっと良いマスクを手に入れるべきだったのである。
マスクが問題の粒子をブロックできるかできないかだ。もしできないのであれば、信者はブロックできるものをつけるべきだ。
「サイエンス」の信奉者たちは、顔の周りをきちんと密閉するrespirator(呼吸器)を着用すべきだった。政府は何兆ドルもの予算を投じて、地球上の希望するすべての「サイエンス」信者に適切なrespiratorを提供することができたはずだ。
少なくとも理論的に正しいこととは、機能するrespiratorを強調するのではない。適切な密閉性もなく、せいぜい問題の粒子のごく一部をブロックする程度のマスクを主張する唯一の理由は、当局にこのコロナの儀式を非信者に強制する口実を与えるためであった。
おわりに
「サイエンス」の信奉者には伝統的な宗教的に反対する偏見が蔓延しているが、彼ら自身が宗教の嫌なところをすべて体現していることを指摘する価値はあるだろう。
狂信、不寛容、迷信という点では、「サイエンス」の信奉者は、現在、西洋で最悪の存在である。
コロナウイルスが支配層エリートにとって、(多くの)目的のための手段であったことは承知しているが、信念体系としての「サイエンス」なしにはそれをやり遂げることはできなかっただろう。
組織化された「サイエンス」は権力者の召使である。権力者に実際の「サイエンス」的発展を提供することによって、また、秩序のために捏造された「サイエンス」的「真理」を通じて、一時的権威に正統性のオーラを与えることによって、権力者のための道具となっている。(了)
読者の皆さんや筆者のJordan Henderson氏、さらにDeepL先生にもお詫びしておきますが、今回の翻訳では、だいぶ遊んでしまいました。文意は変えないものの、表現をだいぶイジっています。
そして、この記事を翻訳するにあたり、
「サイエンス」=政府や医学界が用意した、彼らにとって都合の
良い、一見科学的に見える信仰
「サイエンス」信奉者=それを疑わない「コロナ脳」な人々
の意味でとらえています。
考察
この記事は、以前の記事「あなたは病気になる、それに慣れよう 」の続編に当たるものです。
政府がパンデミックを利用してどのように国民を誘導してきたかを、以前の論説では、Todd Hayen氏が
と書いています。
今回の論説では、Jordan Henderson氏が
と表現しています。
私はこれを、マスク、ワクチン接種、ワクチンパスポート、情報の検閲といった政府のコロナ政策は、国民全員を協力(服従)させるために、「サイエンス」という名の一神教を使って作り出したカラクリである、と理解しました。
曲がりなりにも、理科系の学問を勉強してきた私は、「科学的な正しさは、絶対的なものではない」ことを理解していました。
つまり、現在正しいとされている理論や学説は、新たな発見や検証によって、簡単に覆される可能性があると言うことです。それは、天動説→地動説→ニュートン力学→相対性理論と、天文学の発展を見ても当然のことと思っていました。
しかし今回は、多くの(いわゆる文系)の人たちにとっては、どうやらそうではないことを痛感しました。その人たちは(文系の学問とは違い)「サイエンス」には絶対的な真理があると信じ、それを金科玉条のように捉えていたのです。「サイエンス」教の聖典など読んだことも無いのに。
知人と話した時も、「コロナやワクチンについては、解っていないことがたくさんあって、専門家(と言われる人)だって、あまり信用できない」と言うと、「じゃあ、何を信じたらいいんだ!」と返されました。
この「何を信じたらいい」と言う返事が、今回の論説のすべてを物語っています。
批判を承知で、あえてキツイ言い方をすれば、この言葉は、恐怖に対する判断を全面的に他者に委ね、それに従うことで安心感を得ることを優先してしまったとも言えるでしょう。
もちろん、私の言葉に耳を貸してくれる知人もいましたが、やはりワクチン接種となると、職場や人間関係からの同調圧力に耐えきれず、「異端者の道」を選べなかった人もいました。私には、そうなった人が最も気になっています。副作用がないことを、「サイエンス」教以外の神に祈ります。
この論説を読んでしまった私は、ワイドショーを見ながら「何で、あんなカルト宗教を信じて高い壺なんか買っちゃったんだろう?」と言う「サイエンス」教の信者に、何と声をかけてよいか言葉が見つかりません。
ワクチン接種が開始されたとき、「2年もたたずに作ったワクチンで、長期的な安全性がチェックされてないから、様子を見た方がいい」と、説得した時も、「コロナに罹って死ぬのは嫌だ。死んだらどうする。それに、タダだし」と言われ、
1年以上経って、「世界の医師が危険性を指摘している」と話しても、「でも、NHKのニュースでそんなこと言ってない」と、信用してくれませんでした。
そうやって、異教徒で、異端者で、非国民の私は、
「サイエンス」教、コロナ派、テレビ教会の信者と
空しい会話を続けたのでした。
(すみません、最後は愚痴になってしまいました)