いずれ消え去る虚しさ
例えば、菌類などの原核生物には寿命による死はないので、寿命という概念は備わっていません。なので、「あの世」や「死後の世界」などは無用の長物にすぎません。
基本的に「死」の概念は多細胞体に固有の概念です。
数量的にいえば、ヒトのように、寿命のある生物の方が圧倒的に少数派なので、少数派にとっては、「死んだらどうなるのだろうか」というのは無視できない話になります。
それでも、死後の世界のことを心配しながら生きている人は超少数派でしょう。ちなみに、私はこの世より、死後の世界の方を重視して生きています。なぜなら、ひとつに死後の世界の方がややこしい世界だからです。
この世より圧倒的に広大な世界ですし、善と悪がはっきりした世界ですし、三次元界と異なって四次元体の宇宙人も現れますし、いろいろと複雑怪奇な世界であることは事実です。
もうひとつは、この世は有限の世界であり、有限の世界に生きる肉体(顕在意識)も有限の存在であり、必ず、いつかは消滅して消え去ってしまう世界だからです。
一方、死後の世界は原則として無限(永遠)の世界です。
有限と無限、どちらを重視すべきかは考えるまでもないことでしょう。ただ、今は有限の世界に身を置いており、その世界で生きることを強いられているので、「それなりの生き方をしなくてはいけない」という必要最低限の現実を突きつけられているにすぎません。
有限のこの世について回るのは「いずれ消え去る虚しさ」です。
例えば、美男美女に生まれついても、いずれ必ず老醜の憂き目をみなけれなりません。お金のついては、さらに顕著で、ある程度の富を満喫すると、「お金で買えるものはつまらない。お金で買えない物の方が面白い」という「有限的手段」の底の浅さを実感させられます。
死ぬまで美貌や富を追求する人たちも数知れずですが、これはもう、究極の世界を見ない「愚物」である、としか言いようがないわけで、どうしょうもない人たちと斬って捨てるより他はないといえます。
実際、彼らは転生を繰り返しながら、数千年以上もこの実質的に無意味な仮想空間で生き続けねばならないことでしょう。ある意味、実に、虚しい話です。
なぜなら、この世とは、常に食と性に踊らされ、常に肉体のケアに時間を割き続け、泣いたり、喚いたり、怒ったり、悲しんだりしなければならない、実に面倒くさい世界だからです。
論理を煮詰めてゆくと幾つかの答えが導かれてゆきます。
ユリウス・カエサルは自著の『ガリア戦記』の中で、「人は自分の望みを勝手に信じてしまう」と書いています。「人は自分の見たいものしか見ない」とも書いています。
つまり、ほとんどの人(カエサルいわく凡人)は「自分中心の世界」を描き続けているわけです。他人が言ったり、書いたりしたことについては、「自分の感性にフィットしたもの」しか受け入れません。だから、「心に刺さった」という言葉が頻繁に使われたりするのです。
しかも、それが良いことと理解されています。世の感性とは、これほどまでにくだらないものなのですが、それがさっぱり分かっていない人が、圧倒的な多数派を形成している。それがこの世の実態なのです。
要は、全て自分中心なのです。
稲盛和夫氏は、「直感で判断してはいけない。直感的に考えると、自分に都合がいいかどうかで判断してしまい、巡り巡って損をする」といいます。
この見識は、「人は自分の利益や欲望を最優先して考える」とか「自己保守の本能が一番強く働く」と言い換えてもいいでしょう。
結局は、カエサルの名言である「人は自分の望みを勝手に信じてしまう」に辿り着いてしまいます。
稲盛氏も本能に言及しており、「本能とは、我々の心の中に備わった基本的なもので、肉体を持つ自分自身を守るために与えられた心です。ですから本能という心は、自分が有利になるようにすべて物事を考え、行動します。自分に都合のいいことは、周りに都合の悪いことかもしれない。しかし、その考えを排除して都合の良い方を選択してしまう」。
こうして、稲盛氏も最終的には、「リーダーにとって最高の判断基準となるのが利他の心である」という結論に至るのですが、これは生物としての生き方に反しているので、いざとなったら、どこかで自己利益の観念に戻ってしまい、「勝った負けた」「得した損をした」となってしまいます。
利他を活かしたようなWIN-WINという考え方も、まず、自分が損をしない、負けないを前提にしたものであって、「お互いに良い思いをした」と言い合ったとしても、それは互いの自己利益が一致しただけにすぎないのであって、決して「利他」の判断に基づいたわけではないのです。
その結果、この世には、実は虫の良い考え方に基づいている「心に刺さった」とか「Win-Winだ」というような自己利益を正当化する美辞麗句があふれることになってしまいます。