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もの悲しい気持ち

こんばんは!
大学院に進学して、はや2か月を経とうとしています風鈴です

進学先での日々はものすごく充実していて、濃密濃厚です。
前いた大学が地獄だとしたら、ここは天国です。
前いた研究室では教授からひどいいわれようでしたが、研究室が変わるとこんなに扱いが変わるものなんだと、、。
研究室にしろ職場にしろ、環境を変えるというのは手っ取り早い改革だと思います。
ほぼ毎日夜遅くまで研究室にいる(休日もわりと)ものですから、家にいる時間は疲労回復か手に出しやすい娯楽しかしていなくて、昔の自分と今の自分を比べてどうとか省みることを最近していなかったなと。
今日は珍しく特に予定もなく、1日家でゆっくり過ごしていたら、心に余裕ができて視野が広く感じられました。
そのモードに入ると、こんなことやりたいなーこの勉強をやりたいな!とか欲望が沢山出てきます。しかし、これは休日に有効なモードであって、平日は休日にやりたいと思ったことを全く思い出さなくなるのです。
それはもう、休日と平日で人間変わったんちゃうか?と言いたくなるくらいに。研究室にいない限り研究で頭いっぱいになるよりは良いかもですがね、、

それでいうと休日は、クリエイティブなこととか面白いことを摂取したくなるし、自分自身も心が開放的で発想力がいつもより豊かになるんですよ。
そして、過去に行っていたデザインのお仕事のこと思い出して、活動していたころに繋がりのあったTwitterの方々をみたら、今もデザインとかやってらっしゃるんだなーと変わりなさそうでよかったなとなりました。
と同時に、切なさというかもの悲しさがこみ上げてきました。
私は現在は大学生までやっていたお仕事を全くやっていないし、遊びでなんか創作物を作ることもなくって、その界隈から意識がかなり離れていました。この3カ月ほとんど思い出すこともなかったです。
しかし、今日、ネット上に確かに存在していた自分とか、仲良くしていた方々と距離がぐっと近くなって、、、なんというか過去がまぶしいというか

私は研究をずっとしていたいので、その覚悟の意味でもキャパ的にもお仕事をやめたのですが、なんだかずっと続けている方々がうらやましくなりました。そりゃ中には本業の方もいらっしゃるので当然といえば当然ですが、、
そりゃ、私も本当はやりたかったよ、、って自分で決めたくせにそう思っちゃったのです。自分って本当に中途半端だなとか
あの頃仲良くしてくださった方々は、本当にいい人で、創作物も素敵でものすごくキラキラしていた憧れだったんだな。と
その憧れの方々に、その時は数ミリ位自分も近づけた気がしていたけど、こんな生半可な気持ちで副業という形で続けても絶対に届かないってわかっていたし、だからこそ自分は研究に励もうと思ったんです。
でも、研究だってつまずいてばかりいるし(楽しいけど)、周りにシンプルに研究や実験が好きっていう人が案外いなくて、私にとって研究はキラキラしているけど、周りの人はそう感じないんだなって、、、
クリエイティブなものって分かりやすくキラキラしているし、たいていの人好きだと思うのですが、研究はそうじゃないからなのかな
私にとっては、同じくらいキラキラして見えるんだけどな

その憧れ、思入れ、きらきらってかなり職種によるなと思いませんか?
例えば、公務員とかだとそういう心情を期待してなる人は少なそうですよね
どこの研究室や職場でもあるかと思いますが、研究や仕事への優先度が人によってかなり異なっていて、そりゃ人それぞれライフスタイルは違いますし、ある程度2分しちゃうのはしょうがないよなと思います。しかし、なんだか残念というか、本当の意味ではこれ以上分かり合えないんだろうなというか、私はこの気持ちをもの悲しいというんだろうなって。
理屈では理解しつつも、違う住民なんだよな感。理解するっていうのは一歩離れたところ、相手の領域にいてはおそらく出来なくて、相手の領域に入れるほど共感できないから、一歩離れて自分の領域から相手を見て「理解できる」って言ってんだな。って、だから理解は同時にもの悲しさを感じるのかもしれない。相手を客観的に見た時点で、相手と自分は同じ枠組みに入れない気がする。2つの丸の円が重なるところでは、理解できなくて、離れると存在を認識できてやっと理解できる。
大人になるにつれて、多くの人を理解できるようになるからこそ、もの悲しくなるのかなって。

で、そのもの悲しさの対処法は恐らく1つしかなくて、私がみんながキラキラしている域に到達するということです。
仮に到達できたとしても、また丸が重ならないことがあると思うし、それが自然なんだけど、またもの悲しく感じたら、私が別の領域に到達するしかないです。その繰り返しです。けど、その丸はより個性がある丸になってもっと深く分かり合えるのかなと思います。

しかし、一時期は仕事としてのデザインがつまらないものに思えてしまいましたが、こんだけ憧れ焦がれるのはよっぽど自分デザインやあの界隈の雰囲気が好きなんだなあと。
今度はもっと純粋にシンプルにクリエイティブに向き合ってみたいそう思いました。

自分で選択して、自由に生きて、人の好みはそれぞれだし、多様性に富んだ生き方があるよねってなって、私もだし多くの人は救われているけど、その分必要な距離感も長くなって、客観的にその人を判断することが求められて、その人の生き方を理解するっていうのは出来るんだけど、たぶん心の底では同じだったらいいなって思ってて、でも同じではないから、表面上理解できるんだけど、なんで同じじゃないんだろってなって、、、
その寂しさ、悲しさってあるよな、って
そしてその寂しさ、悲しさってどうしたら埋められるのでしょうか
人を尊重しすぎて、接しにくくなって、逆に尊重できていないそんなことってないのでしょうか
何事も作用しすぎては、反作用が起こるのではないのでしょうか

人と距離とって接するのは、自分も相手も楽だし変に傷つけなくていいし、ものすごく合理的だと思うよ。
けど、本当にそれでいいんだろうか?と思いつつ、自分が時代遅れなんかな~って( ;∀;)
研究がシンプルに楽しいとか、好きだとか思えたら、もっと楽しいし、てかどうせやるなら楽しくやりたくない?って絶対言わないけど本音です
けど、私だって好きだからっていう理由で、たいして好きではないものごり押しされたらいやな気持になるもんね

難しいね、、、
たぶんどうしようも出来ないことなんだろうね、、、
皆さんもこのもの悲しさ感じたことありますか

てか、やっぱ定期的に考えていることを文字に起こさないと、むずむずしますね!こういうことを平日はふわっと考えているけど、時間があると急に輪郭がはっきりするんだよね
こういうの考えるのも、文字にするのも好きだし、まじで知らない人とこういう話題で話してみたいな。自分ひとりで永遠に話すのも面白そうだけど。
ラジオってことか
楽しそうだけどね、誰も聞いてくれなかったらしょうもない独り言なんよな
と考えると、ライブ配信とかでなくひとりでラジオやっている人すごいな

風鈴

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