できないのに「できる」と言わない、でも
自分が集団の中でどういうふるまいをしがちかと考えると、誰もやりたがらないことを引き受けることで、椅子を手に入れてきたと思う。
中学の吹奏楽部でファゴットを始めた。ファゴットは第三希望で、本当はトランペットとトロンボーンを希望していた。第三希望まで取っても、ファゴットを希望に出したのは私しかいなかった。
ファゴットは私にあっていると思った。もちろん、楽器の性質としてもあってはいたのだが、誰もやりたがらず、競技人口も少なく、椅子を巡った競争がほとんどない。新宿にダブルリード(オーボエ、ファゴット)の専門店があるが、何度も行っているわけではないのに名前を憶えられていた。ファゴットは、希望したらできてしまうどころか、高校、大学、そして社会人の市民バンドなどでも、ただ「ファゴットができる」というだけで声がかかる。感謝される。
必要とされるのは嬉しい。しかし、そこに甘んじてしまう自分がいる。たいしてうまくないのに、できる人が少ないため、たとえ下手でも呼ばれてしまう。そういった環境で私は伸び悩んでいると思う。
ファゴットを始めたことは結果としてかなり良いことではあったのだが、こういう「椅子を手に入れる方法」を集団の中でいつもしてしまう。
誰もやりたがらないことをやるのは、非常に美しい行動に見えるけれど、私の場合はそこに確かに濁った気持ちがある。誰もやりたがらなかったことをやることで、感謝され、まず立ち位置を得る。その一方で、思ってしまう。「誰もやりたがらなかったのだから、文句言わないでね」と。誰もやりたがらない仕事を引き受けるのは、献身的に見えながら非常に打算的な思惑がある。
そして、もう一つよくないことがあり、自分の力量を分かっていないままに引き受けてしまうばかりに、結局周りに迷惑をかけ、自分を苦しめる場合がほとんどなのだ。できないことを「できる」と言ってはいけないというのは社会人の基本であり、人生の基本であると思うが、私はできないことを「できる」と言ってしまう癖がある。それぞれの場面で「できる」と言ってしまうから、無理のあるスケジュールをこなすことに疲弊し、結局できず、周りに迷惑をかけることになる。わかっているのであれば、最初からそんなものは引き受けてはいけない。わかっている。わかっているのだが、その瞬間。「できる人いますか?」に誰も手の上がらない時間。その沈黙。いつも耐えられない。できないのにできると言ってしまう。
できないのにできるというのはやめよう。では、その空いてしまった椅子は? だれも手を上げない時間は? 誰かはやらなければならないのに。考えただけで胃がぐっと重くなる。