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自分自身を思い知る距離。

 まだ宿題は残っているけど、今年の5月から取り組んできた辛くて苦しい研修がようやく幕を下ろした。精神的にヘビーな研修で半年ちょっと、回数自体はそう多くなかったけど、精神がゴリゴリに削られた。こんなに消耗したのは専門学校時代の長期病院実習と国家試験対策の模試以来かも …… 本当に疲れたし、しんどかった。

 仕事柄、患者や利用者との関係性を客観的に観察しないといけないので、長年ずっと自分について『考えること』所謂、自己洞察を繰り返してきたんだけど、これって中々にしんどい作業で、自分との適切な距離を保ちながら行わないと抑うつが強くなってしまう。誰しもという訳じゃないけど、少なくとも私はそうだった。

 今回の研修は『自分のいいところ探し』『子どものいいところ探し』『褒め方』というのがメインテーマだった。これの『自分のいいところ探し』が本当にしんどかった。

日常生活の中で60〜70%出来ていたら『いいところ』50%以下、そこそこ出来ていたら『努力しているところ』みたいに分類していくんだけど、この出来ているところ(褒めるところ)は曖昧な表現で書いては駄目で、全て『行動🟰動詞』で書きましょう!と言われた。
※6時に起きる。みたいな感じで、出来ている行動のみ、具体的に書く。例えば『早起きすること』の早くは、主観的で比較出来ない曖昧な表現だから→何時に起きる?→6時に起きる!みたいに兎に角詳細に、数値化出来るところは数値化する。って感じ。

『自分のいいところを10個具体的かつ詳細に書き出しましょう!』これが私には本当に本当に難しくて、書き出すためにずっとずっと自分のことを突き詰めて考えないといけなくて、正直なところ物凄くきつかった。胃が痛かった。

もちろん動詞で書くという日本語的な難しさもあったけど、感情表現や主観的な表現は使わない。曖昧で数値化出来ない表現は使わない。みたいな制約が本当にきつかったのだ。

全て行動、結果のみを書く。性格や感情なんていう主観的で曖昧なところを褒めるのではなく『出来ている行動の部分のみを褒める』というのが、この研修のテーマだ。それは理解しているし、働く上でもとても大事で必要なことだということは理解している。いるけれど、自分に当てはめるのは辛い!吐きそうなほどしんどい!って内心ではのたうち回ってた。表面上は笑ってやり過ごしていたけど、頭の中は考えたくなさ過ぎてフリーズ状態だったと思う。

そもそも怠惰な人間、怠け者という自覚のある私は、出来ていることを書き出すのが(目標は10個だった)難しくて、これを無理矢理捻り出した時点で、嘘を書いているような気分になって兎に角憂鬱だった。出来ていることを書き出す行為が『出来ていないこと』を浮き彫りにしちゃうの、まさに本末転倒だよなとも自分でも思う。

研修担当の先生は、『自分に対しての評価が厳し過ぎるのでは?』と言っていたが、果たしてそうなのか?とずっと自問自答してもいた。

私は自分の出来ていないところを自覚するのが嫌で、曖昧な世界を生きることを常としているのだけど、この曖昧さを排除して世界の解像度を高めちゃうと、本当に本当に生きにくくなるということが今回の体験でよく分かった。それに気付けたのはある意味良かったのかもしれない。

 この研修の肝というかテーマは『当たり前に出来ていることは、実は当たり前じゃなくて、褒めるべきポイントなんだよ!褒めるためのハードルを下げよう!自分へのジャッジを緩めることで、相手へのジャッジを緩めることが出来るし、許容出来るよ!』というポジティブなものなんだけど …… それは理屈としてはよく分かる。自分に厳しいと、相手にも同じレベルを求めて無意識にきつく当たってしまうかもしれないことも分かる。分かるけど ……
出来ていることを肯定することが、自己肯定感を育てる。ということも理解しているけど ……

私はこれに強烈な違和感というか拒否感があって、そうまでして許容しないといけないものなの?そこまでしてポジティブに生きなきゃいけないものなの?と感じてしまった。何というか、自分の認知の歪みを目の当たりにしてしまったことが、すごく鬱だった。自分と向き合い過ぎた結果、自分との距離が近くなり過ぎて自分のことを許容出来なくなったのだと思う。

ここで私は、こんなにもネガティブな自分のまま生きていきたい人間なんだ、ということにも気が付いた。ネガティブな自分というのは私が長年培ってきた自分だし、この生きにくい世界を生き抜くために工夫して磨いてきた自分だから、そのネガティブな自分自身を自分で否定したくない、という感覚が強いのだと思う。

なんて難儀なんだ!

ポジティブな感情に殺される私のような人間が、世の中には少数派ながら居るんだなぁ、ということを痛感したりもしている。出来ることも出来ないことも曖昧なくらいが丁度いいし、人との距離以上に自分自身とのパーソナルスペースも確保したい!そう思う今日この頃です。

自分自身と距離を置くこと、現実逃避でもいいから、見たくないものに蓋をして距離を置いて、見ないふりをすること、それは私の生きていくための手段だったんだな?

そういうことにも気が付きました。

こんな風に感じちゃう自分も、こんな風に考えちゃう自分もめちゃくちゃ嫌だーー!と思ってしまうから、この研修と私は心底ソリが合わないな、ということを思いました。でも私とソリが合わないだけで、(これが主観的でいびつ考え方、感じ方だということは重々象徴している)この研修自体は合理的だと思うし、そこに掬い上げられる人も居ると思う。大多数の人には薦めたい。薦めたいとは思うけど、やっぱり私はやりたくない!

はぁ、本当にしんどかった!

でもひとつだけ、この研修で役に立ったこともあります。『動詞で書く』という訓練、これはとても役に立ちました。主に小説や文章を書く時にです!

小説を書く時に、行動を文章で表現するのって基本なんだなぁ、と改めて思いました。ここ最近すごく文章を書きやすくなったのは、この訓練のおかげだとすごく思います。辛くて苦しくて、自分の嫌いな部分と直面して吐きそうになった研修だったけど、これだけはすごく役に立ったので、良かったな、と思います。

物事には色んな側面があって、良いことと悪いことが同時に機能していることもある。

私たちは長年培ってきた固定観念の枠組みの中で生きているので、今回みたいな思いがけない壁にぶつかることもあります。長年積み重ねてきたことを壊すのは痛みを伴うのだということをすごくすごく実感する出来事でした。

今回一番の収穫は、固定観念や思い込み、『しなければいけない』『出来ないから困っている』というネガティブな思考が、自分で思っている以上に強いこと。それを自覚出来たことなのかもしれない。

極端な自分を許容しつつ、曖昧な解像度の世界の中で生きていけたらいいね。それはやっぱり難しいのかもしれないけれど。

追記。
一晩あけて、違和感や拒否感について自分なりに分析してみたんだけど(あくまでも私視点で)私は60〜70%出来るってすごく高いレベルじゃない?みんなそんな出来るもんなの?って思ったんだけど、この60〜70%っていうのは『このくらい出来ているだけでもいいのか⁇』目から鱗!みたいに感じる人が相対的に多いらしいし、そこが考え方のポイントになる。(実際に研修担当の先生が、『そうやってびっくりするお母さんが多いです』と言っていた)厳しいジャッジで生きるお母さん方の考え方を緩めるためのパーセンテージだけど、私は逆に6〜7割出来ない人間なのか?とコンプレックスや後ろめたさが刺激される結果になった。出来ることに目を向けて、出来たことを肯定されるのも、もちろん嬉しいと思うんだけど、そうまでして『出来るところを無理矢理見つけて褒めないといけないのか?』という斜め上をいく考えが浮かぶのを止められないのである。えっ?私ってこんなに自己肯定感低かったんだ!という気付き ……

 なんかこう、出来ることを認められるより、出来ないことを『出来なくてもいいじゃん!出来ないのは仕方ないよ!出来なくても大丈夫じゃない?』と笑い飛ばしてほしいし、共感してほしい。そんなことを思う朝です。


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