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建築と言葉

今日もつらつらと建築の話です。

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ある日のこと。

乃木坂ギャラリー・間で開催中の展示「アーキテクテン・デ・ヴィルダー・ヴィンク・タユー展」(覚えられないし打てない……)を観てからいくつかショールームを巡り、歩いて表参道のAppleストアへ(おまけ)。

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ギャラリー・間展覧会概要

ADVVTの展示。

展示の意図はわかったと思うのだけど、結果として見えてくるものがあまりなかった。これは私の理解力不足なのかもしれないのですが、やっていること自体というより表現方法、図面や模型の問題なのかなと、少し思った。元の建築のエッセンスを取り出す所まではわかりやすいのだけれど、そこから先の……起承転結でいう「転結」が見づらかった(結論が出ているわけではないのだが)。単純に模型のスケールのせいかも。

それが土地から解き放たれて東京に組み込まれた時、何が見えるのか。

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sanwa companyへ。キッチンコーナーを見ていると単純にワクワクした。「家を建てたいな」という素直な欲求を高めてくれる。そのワクワク感は忘れたくないなと感じた。

突然現れる借景に、東京を感じる。

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歩きながら二つのことを考えていた。

一つは、東京を離れがたいな、ということ。

これだけの情報が集まっている密度感は、一度体験してしまうと離れるのが怖くなる。良くも悪くも。

地方の自然も恋しいけれど、若い(…?)うちは東京の近くにいたい。今はまだ、情報への渇望がとても大きい。


もう一つは、建築と言葉について。

先日、友人と一緒に建築の展示を見ていたとき、「この解説読んだ?」と私が聞いたら「あまりちゃんと読んでない。物としてどうかが大事で、解説はそこまで大事じゃないかなって思ってる」と言われた。

その時は「ま、そっか」程度にしか思わなかったけれど、今になって彼女の言ったことを噛みしめている。

私は無意識のうちに展示(建築に限らず)では説明文を読みがちで、「文章からの情報よりも先に自分の頭で考える」ということを疎かにしている気がした。そのことをまず反省。


そして、建築に言葉は必要なのか?という問題。

彼女の言ったように、建築は言葉でわかるべきではなく体感でわかるべきものだ。

では、建築家の語る言葉は何のためにあるのだろう?同業者への説明ということなのか?

例えば映画を観ても、ミュージシャンのプロモーションビデオを観ても、また芸術作品を観ても、言葉が付属してないもののほうが多い(他人が解説するものは別)。「観て、好きか嫌いか判断してくれ」という世界なのだ。

建築も本来はそうあるべきと思う一方で、言葉を必要とする建築、つまり五感だけで感じるのが難しい建築があるんじゃないか。その意味ってなんだろう?……というのが、最近自分がモヤモヤしていたこととつながった。


ジョン・ポーソンの自邸の写真が公開されているのを見た。

英語は面倒で読んでない。

でも、写真だけ見ればいいやと思った。圧倒的なバランス感覚にこそこの建築家の持ち味があって、仮に背景やディティールや工法などを知りたければ後から解説文を読めばいい。というか写真に引き込まれて文章が目に入らない。

写真の説得力。そういう意味でバラガンに感じるものと近い。


とても稚拙な言い方というのを承知の上で書くけれど、私にとって建築というのは、小さくして宝箱に閉まっておきたいぐらい愛おしい「モノ」であってほしい。そういう建築が好きだ。

そこに言葉は必要ないのかもしれない。


言葉を並べることが悪いと思っているわけじゃない。誰かに説明が必要な時もある。

でも、言い訳しなければいけない建築は避けたい。


もう一つ、建築を感じる“五感”について考えていること……継続して考えてみよう。

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おまけ。Appleストアでmacを検討。今回はアップルお兄さんに圧倒されてうまく相談できなかった……。

私はApple信者なのでWindowsを使う気は1ミリもないのだけど、もう少しユーザーに優しくしてほしいなとは思う。iMacの27インチだけメモリを自分で換装できて、21インチはできないって、ちょっとイジメじゃない?と思ったり。メモリとかSSDとか結局「カスタマイズしないと駄目ですよ」って言うなら先に入れてくれや!高いし!と思ったり。

でもAppleが欲しくてたまらない人がここに一人いる。そんな人があの店に行くとうじゃうじゃいて、みんなバンバン何十万と落としていく。並大抵じゃないモノの力だ。



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