アールトとバラガン|家具と建築
アルヴァ・アールトの作品集を眺めていて、既視感に襲われた。
「最近、どこかで同じような感覚を抱いたな……」
悩むほどのことでもない。それは、ルイス・バラガンの建築に抱いたのと同じものだった。
バラガンと同じく、アールトの建築写真も美しい。
理念や思想を飛び越えてまっすぐ目に訴えかけてくるような、わかりやすい美しさがある。庭や緑を大切にし、鮮やかな濃淡をつくり、強い形態で語りかける。
しかし……
しばらくページをめくっていると、やはりどこかが違う。アールトとバラガンは同じようにフォトジェニックでありながら、何かが決定的に違う気がする……。なんだろう?
そう考えながらディティールを眺めていてわかったこと。
アールトは家具のような建築をつくり、
バラガンは建築のような家具をつくる。
両者共に「家具」の存在が建築の重要な要素であるという思想は同じだ。しかし、考え方は180度違うように思えた。
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アールトの家具や照明器具は、装飾性や恣意性(必然性のない作り込み、突如現れるカーブなど)を許容しており、それゆえのユニークな形態やディティールに魅力がある。そして彼のつくる建築には、家具デザインの思想がにじみ出ている。
例えば、現しの「梁」や「柱」。無垢材一本の塊で見せるのではなく、芯材の周りに化粧材をくっつけ、あえて凹凸を作る。構造材としては全く必要のないことだし、むしろ若干の“いやらしさ”をはらむ危険性がある。しかしこうしたディティールを究極のバランス感覚で追い求めるのが、アールト・スタイルだろう。
一方でバラガンは、建築におけるそうした装飾性や恣意性を嫌う。現しの梁も柱も、角を出した無垢材のままで使用する。その存在が「絵的に」必要であるとしても、色気を出すためのものではなく、あくまで色彩や陰影を補うものと考えているようだ。
バラガンの思想は家具にも及ぶ。「この空間にちょうどいい大きさや素材の家具が必要だ」と思ったとしても、あくまで彼の建築を補うものであり、家具単体としての魅力は求められない。正確な寸法で、あるべき素材で、極力凹凸は排除して、愚直な佇まいでそこに住まわせる。
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余談だが、以下の作品集『AALTO 10 Selected Houses』の中で、著者の齋藤裕氏がこんなことを書いていた。
建築家が自分のために建てた家を見ると、その作家の体質や性格が全体の雰囲気に滲みでているように感じられるが、アールトという人は、人懐こくて生来の淋しがり屋だったのかもしれない。たとえば、ルイス・バラガンの自邸のテーマは「孤独」だ。彼は孤独に浸るのを好み、それを楽しむ空間を進んで求めた建築家だった。一方アールトは、誰かと一緒にいる空間を想定する人であり、空間単位はつねに二人以上である。
(p.106)
アールトもバラガンも素晴らしい住宅をつくる建築家だとずっと思っていたが、なぜ自分がバラガンに傾倒しているのか、腑に落ちた。
私はいつも恣意性のあるディティールを排除した家具を選ぶ。もちろん建築においても、自由奔放な装飾を良しとしない(というか、思いつかない)。
そして、人と集まることも好きだが、自分の時間を何より優先する。
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二人の建築家を比較してハッキリと浮かび上がった違いに、胸が高鳴った。建築には言語化できない面白さがある。写真からしか読み取れないものがある。しかしそれをあえて言葉に変換するという行いにときめきを感じている。
さらに余談だが、この記事を書いてから、展覧会や画集・作品集で「解説文」よりも「作品」を必ず先に見るようになった。一つの作品から、写真から、どれだけのことを読み取れるか。そして考えられるか…。
そうすると、いかに自分が「解説文」によって意識を誘導させられていたかを痛感する。先に「解説文」を読んでしまうと、無意識にその部分に視点がフォーカスさせられて、周りがぼやけてしまうのだ。自分にとって必要な情報はそこじゃないかもしれないのに。
矛盾しているようだけれど今、この二つの行いが楽しい。