生活の主張
僕の恋人は完璧だ。
完璧というのは,もともと傷の全くない宝玉を表していたらしい。すべらかでなめらかで,ほんのり琥珀色をした完璧な玉。恋人を完璧,と思うたび,僕はその玉に思いを馳せる。
国王はビロウドの椅子に座って,手の中に収めたその玉をうっとりと眺める。戦国の時代 ――― 争いに,人に,時代に疲れた王を唯一癒すのは,手の中で冷ややかに眠るその玉であった。力こそ全ての時代において,案外国王は,その玉の色のような穏やかな夕焼けを願ったのかもしれない。
完璧というのは,別に見た目の話ではない。知力でも,体力でも,時の運でもない。どれも素晴らしいわけではないけれど,彼女を構成するすべてのバランスが整っているのだ。それにはもちろん僕との相性も含んでいる。完璧な彼女。最高に愉快でハッピーで何もない生活。こんなに素晴らしいことってないだろう。奇跡だ。祝福だ。
僕は家で働き,彼女は外で働く。平日に彼女の完璧を見られる時間はとても限られている。仕方がない,社会はそうしてゆるゆる廻っているのだ。
だからこそ僕は毎朝楽しみにしている。50分前にのそのそと起きてきた彼女が,こぎれいな服を着て,可憐に登場するのが。ドアを開けた栗色の髪が,風にふうわりと靡くのが。そして何より,行ってきます,というときの,朝日に照らされた完璧の笑顔が。僕の1日を守るのだ。
ところがなんだ,あいつは,忌まわしき白い布。彼女はそれを今日から毎朝つけていくという。外に出てからだと忘れちゃうから,玄関を出る前に装備するのだと。それは紛れもなく,彼女の完璧を壊す代物であった。水面に落とされた一滴のインク,快晴の空に浮かんだひとかたまりの積雲,あるいはオーケストラの演奏のたった一音のミス。誤差と呼ぶ輩はいるだろう,しかしそんなことは言わせない。こちらからしたら大問題,大事件,大殺界である。
だがそんな理由で反対でもしてみよう,もちろん結果は目に見えている。(彼女は大変,論理的に行動する。)社会的に見たら,それは果たして,仕方のない,しかし,彼女の完璧を,僕の楽しみを,しかし,くそう。
だから僕は心の中で大きく叫ぶのだ。そこの白い,可愛らしい口に張り付く,忌まわしきマスクめ。彼女の完璧を壊しやがって,ああ恐ろしい。そこまでするんだから,いいか,お前は完璧に守るんだぞ,いいな。なんとかウイルスどころじゃない,風邪一つひかせてみろ,ただじゃ置かないからな。めちゃくちゃに切り刻んで,11階の窓から叩き落してやる。あるいは新聞紙とともに河原で灰になるまで燃やしてやるからな。いいな。
覚悟して守れ。マスクよ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?