ヤンシナ大賞に思うこと|構成とは何か
先日フジテレビヤングシナリオ大賞が発表された。
大賞は「踊り場にて」。
受賞された方々、おめでとうございます。
全ての受賞作を読んでまず感じたのは、昨年の大賞作品と似たような作風のものが今年も大賞に選ばれたな、ということ。
「踊り場にて」は前回の大賞作「サロガシー」と同様、(プロットよりも)キャラクターに傾いた作品だ。
あるいは、主人公と複数の生徒による会話劇が一対一で進行するという点でこの作品には群像劇的な色合いがあり、その意味でも類似点を感じる。
そしてもう一つ気になったのは、前回「サロガシー」と拮抗した「東京バナナ」のようなプロット寄りのストーリーを持った作品が今回は見あたらなかった点だ。
例えば、佳作の「すりーあうと」。
「踊り場にて」とはコメディの度合いこそ違うものの、同じくキャラクター寄りのストーリーで、セリフ回しによってストーリーが成立している。
他の二作品も、プロットではなく個性の強さで選ばれたのではないか。
そんな印象をもった。
https://news.mynavi.jp/article/20211126-2199375/ より引用(太字は僕)
構成、台詞ともに群を抜いていた。登場人物たちの点と点が繋がっていく構成の巧みさ。ユーモアのある台詞の掛け合いと、シリアスな感情シーンとのバランスの妙。学校の踊り場が目に浮かんでくるような描写も素晴らしい。
審査員の方による総評だ。
本当は感想を書くにしてもテレビドラマを観てからにするつもりだったが、こういうことを書かれるとつっかかってしまう。
この評に違和感を覚え、どうしても一言いいたかったので記事を書くことにした。
以下「踊り場にて」の脚本に触れつつ、違和感の正体を暴いてゆく。
※以下ネタバレあり
大賞 踊り場にて
ユーモアのある台詞の掛け合いと、シリアスな感情シーンとのバランスの妙。
圧倒的なセリフのセンスで、審査員が「群を抜いていた」と評するのも頷ける。
僕はよく映画を観るが、この作品のような、遊び心があり、かつ深い見識に裏打ちされたセリフ回しはなかなかお目にかかれない。
個人的には「すりーあうと」も引けをとらないセリフの巧さがあると思ったが、
両者の違いとしては(作品に)確固たるテーマがあるかどうかで、「踊り場にて」はややもするとライトになりがちなストーリーをテーマが醸し出すシリアスで抑えつけている。
(一方で「すりーあうと」にはお笑い的な強さがある)
作風はコメディタッチのシリアスだが、前述の通りテーマが描けているので一般的に難しいとされるシリアスタッチをも使いこなせるのではと思わせるところにこの書き手の凄さがある。
その意味でも、冒頭で書いたように「サロガシー」との共通点を感じる。
作品のテーマは「夢を諦めるとは何か」で、
具体的には「夢を諦めるのは前向きなことだ」あるいは「夢を追う人はすばらしい」だろう。
時代性は微妙なところだが、普遍性のあるテーマで申し分がない。
ちなみに「サロガシー」と「踊り場にて」の出来を勝手に比較した場合、
個人的には時代性の宿る鮮度ある題材で母子の葛藤を描いた「サロガシー」が好みだが、
作品の完成度でいえば今回のほうが格段に優れている(と思う)。
ストーリーは起が長く(というか、実際は短いのだが、構成的に起承の境界線が途中までわからない)、いわゆる三幕構成ではないが、途中で脱落することなく最後まで読ませる。
この点はセリフの良さと、巧みなストーリー運びによる賜物だ。
話の序盤、元バレリーナの主人公がバレー部に入ったところまで読んだ時、僕は最初、
「元バレリーナがひょんなことからバレー部の顧問になってバレー部を立て直す」
的なコースを進むものだと思ったが、予想に反してそうはならなかった。
あくまで「夢を諦めるとは何か」のテーマを軸にした会話によるストーリーが進行する。
これはキャラクターとセリフの腕前に余程の自信がない限りまず選べない道だし、実際に成果をあげているのだから驚きを禁じ得ない。
だから僕はこの作品を読んだ後、「構成に頼ることなくセリフ回しだけで見事にドラマを描ききった」
そんな感想を抱き、その手腕が評価されたのだなと納得した。
構成、台詞ともに群を抜いていた。登場人物たちの点と点が繋がっていく構成の巧みさ。
この一文をもって審査員は構成の意味を理解していないのではないかと勘ぐりたくなる。
論点の整理、ストーリー運びのうまさ、を構成の技術とするのであれば、「踊り場にて」の構成は間違いなく優れているが、
それは料理で例えれば、調理人が食材の皮をむいたり客の食べやすいサイズに切ったりする技術であって、
そうではなくて、脚本を語る文脈で構成という場合は、
食材をどう調理するか。
これが構成術(プロット技術)といわれるものだ。
つまり、その食材が最もおいしくなるように調理する。言い換えれば、ストーリーを使ってテーマや題材を最も効果的に表現する技術こそが構成術だ。
極論すれば、煮ても焼いても食えない食材を何とか食べられるようにするのが構成の技術であって、皮をむいて食べやすいサイズに切る、というような、
そんな生ぬるいものではないことは、少しでも脚本に心得があれば誰でもわかることだ。
そもそも「登場人物たちの点と点が繋がっていく構成」というのは群像劇(的な要素)ありきの話であって、通常の構成術と比べても意味がない。
この作品の強みは間違いなくキャラクターとセリフであり、構成まで優れていると思うのならばそれは心理上の錯覚だ。
もしそんなものに釣られて審査をしているとしたらよくないと思う。
(別に作品や審査結果を批判しているのではありません)
学校の踊り場が目に浮かんでくるような描写も素晴らしい。
挫折したバレリーナが学校の踊り場で踊るというシチュエーションがエモい。
ストーリーの象徴として人々の記憶に長く留まるであろう素晴らしいシーンだと思った。
この記事を書くにあたって「踊り場にて」を何度か読み返したが、
あれほどエッジの効いたセリフ回しが展開されているにも関わらず生徒たちとのやりとりの印象がイマイチ薄い。
それはひとえにストーリーが会話で進み、構造や展開で語られていないことが原因で、つまり、構成力の弱さからきている。
繰り返すように、少しでも脚本の勉強をしている人であれば誰でも見分けのつくことで、「群を抜いている」なんて言葉はまず出てこない。
このところ思うのは、
セリフはビジュアル、ということ。
顔がいいと得をするのと同じで、脚本ではセリフがうまいと得をする。
当然といえば当然だが、
穿った見方をすれば、
肉付けにしか目が届かず、骨組みを見抜くことができない、審査員のルッキズム化が進んでいる。
改めてそう結論を出した。
コンクールでは構成術などに意味はなく、
魅力的なキャラクターとセリフを破綻のない構成でまとめたストーリー。
そういう作品が求められているような気がする。
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