短編二次創作小説『バラカストーリア~その裏で』
東京の夜に浮かんでいたのは半月よりもやや膨らみ、アーモンドの形をした白っぽい月であった。
それを寮の窓越し、机に頬杖をついて見上げている、年端も行かない一人の少女がいる。
風呂上がりの薄いグリーンのTシャツに濃紺のジャージ姿、普段はシニヨンに纏めている紫がかった黒髪を背中にまで散らすように広げている彼女の名は楊菲菲(やお・ふぇいふぇい)という。
香港からアイドルになる為来日した十五歳の彼女は、東京の夜空に自らの故郷を重ね合わせていた。
百万ドルの夜景と呼ばれて久しい香港の夜空も、東京と同様地上からの光に照らされて星を見ることはほぼ叶わない。
皆から視認されるような大きな星、月や太陽にならなければいけない。しかし今、彼女はそれらを見失っていた。
太陽だけでもなく、月もだ。今、夜空に浮かぶ天体としての意味合いではなく、抽象的な概念における話である。
太陽と月の名を冠するアイドルユニットがいる。
『ソル・カマル』。
ポルトガル語の太陽(ソル)とアラビア語の月(カマル)で構築されたそのユニットは、彼女と同じ留学生である友達二人によるものだった。
これが同じ志を持つのだったら同志と呼ぶことができただろう。
だが、生憎と三人が日本でアイドルをする理由は三者三様であり、彼女はそう明言する事は憚られると感じていた。
彼女は嘆息をひとつ漏らし、視線を窓から手元のスマートフォンへと落とす。
彼女の太陽と月……すなわち『ソル・カマル』の消息が途絶えた。担当プロデューサーからそう話を聞いたのは数時間前の事。何か連絡は来ていないかと問われたのだが、それは彼女も預かり知らぬことだった。
スマートフォンをあまり持ち歩かない二人だから連絡するという思考に至らないのだろう。それに『ソル・カマル』の月にはお付きのメイドがいる事を知っていたので、彼女もプロデューサーも大きく心配はしていなかった。メイドは成人した常識人なので直にプロダクションへと連絡を取ってくれるはずだ。
ただ、それでも。初のユニット曲を手に入れ、順風満帆に見えた友達二人に何が起こったのか彼女には知る由もない。
それは決して薄情だからという訳ではなく、ただ単に彼女が置いていかれただけだからという理由だった。
留学生アイドル三人組のうち、二人が先にユニットとしてデビューし、二人だけの曲を与えられた。
先にスタートラインに立った友人達の視界はどんななのだろう。なぜ自分には連絡が来ないのだろう。
彼女には普段、二人を世話している自覚があった。そんな自分に二人は何も話してくれない。自分を置いて先にデビューした負い目があって相談しづらいのかもしれない。
彼女はそう考えかけて、すぐに打ち消すように小さくかぶりを振る。
そんな訳はない。二人はそんなことを気にする性質では無いことを知っていた。だからこそ余計に性質が悪い。
つまるところ、彼女は二人に忘れ去られているのだ。今二人が直面しているであろう何かしらの困難がよほど巨大なのか、それとも遠くにいる自分の存在がよほど矮小なのか。
どちらだったら良いのだろうか……どちらともだろうか。ともすれば卑屈になりかける自らの心に気づいて、彼女は連絡のないスマートフォンを前に項垂れるしかないのだった。
彼女はそっと瞼を下ろす。暗闇が視界を覆いつくす。
彼女には二人の気持ちがわからない。前は彼女なりにわかっていた気がするけれど、わからなくなってきている。
同時に、二人に彼女の気持ちはわからないだろう。アイドルの寮で暮らして幾年、練習生としてレッスンを受ける日々。彼女はそんな日常に慣れて、ある程度満足してしまってきていた。
例えば今彼女が暮らしているアイドル事務所の女子寮。彼女は一人部屋を与えられている。
これは彼女の地元、香港では破格の待遇だった。土地が狭く、不動産が投機として高騰を続ける香港では多くの人々は二段ベッドですし詰めになって暮らしている。それは地震もなく天まで高く住居を積み重ねる香港のビルに似ていた。
実家を飛び出した香港の若者の住居はシェアハウスが一般的だ。この寮の一部屋程度なら、最低でも四人がシェアして暮らしている。それで家賃は人数で割った上で、日本円にして月十数万するのだ。こと住居問題に関しては、東京の方が香港より確実に安い。
ぬるま湯に慣れて現状に満足してしまっている。それは彼女も気づいていた。
いくら努力しても手ごたえがなく、デビューも出来ず、SNSも自由に出来ない。
このままアイドル候補生としてなんとなく日々を過ごし、なんとなく諦めて、なんとなく香港に逃げ帰るのか?
彼女は目をつむったまま、頭を後ろへと投げ出し、背もたれに寄りかかる。
丸まった背筋が伸び、閉じたままの視界に赤黒い蛍光灯の残光が飛び込んでくる。
輪の形をしたそれは、星のようだと彼女は感じた。
彼女は太陽にも、月にもなれないでいる。これからもなれないだろう。
東京では太陽と月以外の星は輝けない。それでも、と彼女は思った。
それなら、蛍光灯でいい。自分だけで輝ける太陽や、それを受けて光る月でなくたって。
宇宙から東京の夜間光を観測できることを、頭の良い彼女は当然知っていた。
人工でもいい。自分も光り輝きたい。そうすれば今度は二人も自分を無視できなくなるはずだ。
天井を見上げたまま、彼女は瞼を開く。
「得啦!」
そして二人が戻ってきたら自分に連絡しなかったことをこってり搾り上げて、いつもの炒飯を食わせてやろう。
彼女はそう決心し、いつもの日常に再び溶け込んでいく。
このままでは終われない。透き通ったエメラルドの瞳。その虹彩と写り込んだ蛍光灯とが重なりあって、夜空の月と同じ形の光が浮かんでいた。