感性を呼び起こせ/『ケイコ 目を澄ませて』感想
説明過多のコンテンツが溢れかえるご時世だ。
動画なら時間はショートに、倍速に。
その分テロップや効果音は全開で。
TVのバラエティも裏側を見せることに躊躇がない。
ぜんぶ見せる。丁寧に説明する。
忙しいうえに娯楽の選択肢が果てしなく広がる現代人はタイムパフォーマンスを重視する。
手軽にすべてを知りたがる。
ググれば、欲しい情報が手に入る。
ポチれば、欲しいものが明日には届く。
そんな時代の旨味を甘受してる自覚はちゃんとある。
けれど時差なく誤差なくすべてを把握しようとする僕らはいつか感受性も感性も置き去りにするかもしれないね。
行間も読めずに誰かの感想を自分の感想にし、リツイートして終わらせる。誰かの考察を共感だけで終わらせて、いいねを押したら満足する。
自分の耳で聴いたこと、目で確かめたこと、言葉にできたこと。
何もかもが鈍くなっていく感覚があるよ。
この映画は信頼している。
役者のことも、16mmで捉えるすべてのカットのことも、そして観客すらも。
野暮な説明はないし、前提も語らない。
劇伴もない。始まる前は予告すらなかった。
エンディング。
スタッフロールが流れるバックに映る街並みと環境音が鮮烈な印象を残す。
ケイコのまなざし
ケイコを見守る人たちのまなざし
ミット打ちの音
夜明け、暮れる街並み
静かなのにとても雄弁な映画だった。
ボディブローのように効いてくる登場人物たちの想いに、優しい痛みで溢れ返る。
岸井ゆきのは『愛がなんだ』が代表作だと思っていたけれど、全く別のベクトルで本作を新しい代表作にした。
愛想のないケイコが弾けるように笑うシーンは幸福の象徴だった。
確実にもうひとりの主人公として最後まで映画全体の味わいに貢献した三浦友和の存在感も欠かせなかった。
なにも特別じゃない日常が絶対的に横たわるその隣で、拳を前へと伸ばすケイコの表情を最後まで追いかけた。
分からせようとしなくていい。
分かった気にならなくていい。
言葉は万能じゃないし、他人はどこまでも他人だ。
ケイコの視線の先を、その根にある想いを、誰がたやすく理解できるだろう。
想像力を働かせて生きないのは死んでるのと同じだ。
すぐに頭で考えず、言語化に必死にならず、もっと感じることを大切にしたい。
そんなことを思った。
誰にも奪われないはずの感性を、いつから使わず生きるようになった
小気味よいコンビネーションの音が、河川敷の光が、ひとの心に応えようとするまた別の心が、錆びかけた感性にどこまでも染み渡った。