アイドルと私の反射【MAPA 紫凰ゆすら生誕祭2024】
先日、アイドルグループ MAPAの紫凰ゆすら生誕祭ライブ2daysを観てきて泣きそうになった。てか泣いていたかもしれない。我慢して押し殺したことまでは憶えている。正確には自分でもわからない。
MAPA(マッパ)は大森靖子がプロデュースする現在6人組のアイドルグループ。メンバーのひとりである紫凰ゆすら(しおう ゆすら)は【感受性豊かなオタクに優しい声のデカい文芸ギャル】という、およそ一言では言い表せない魅力を持ったひとだ。
地下から地上に至るまで、現在ありとあらゆる場所で活躍する若き才能を発掘したミスiD。彼女はそのオーディションで審査員を務めていた靖子ちゃんに見出される形でMAPA結成時から立ち会った。
自分のなかで大森靖子とMAPAは特別な位置にいる。これは以前にも書いたことがあるが、大森靖子プロデュースで彼女の手掛ける楽曲を持ち歌にできるアイドルはハッキリいってその時点でチートである。ものすごいアドバンテージだ。
いつか歴史は大森靖子以前以後で線を引いて語るだろうし、すでに大森靖子というひとつのジャンルは音楽シーンに確立されている。まだまだ過小評価で、多くの誤解と損と、贖うべき以上のダメージと理不尽な敵意と、愛憎入り混じったレッテルと行き過ぎた自己投影の犠牲にもなっていながら、彼女は毅然と聴き応えある曲を生み出す能力および愛でねじふせ抱き寄せるライブ、つまり圧倒的な実力で今もなお全盛期を最新に置き続けている。
そんな靖子ちゃんがプロデュースするアイドルなんて特別かつ特異に決まっている。
シンガーソングライター超歌手・大森靖子とも異なる、そして共犯者としてメンバーにも名を連ねるZOCとも異なる、いわば絶妙な距離感で自身の表現をより抒情性と客観的なアイドル性に振って世界観を構築したグループ、それがMAPAだ。
繊細な詩的感覚とカリスマ性を備えた古正寺恵巳の圧倒的なアイドル経験もそこに融合され、MAPAは異類のパフォーマンスと世界観を魅せるアイドルとしてその存在感を日に日に世に知らしめている。
おれを初めてアイドルの世界に引き込んでくれたのは大森靖子でありMAPAだった。人が新しい未知の現場に初めて足を運び、さらに通い続けるというのはものすごい原動力が必要である。
大森靖子と出会ったことでアイドルの深遠な世界を知ることができ、MAPAと出会ったことであらためて大森靖子が作る音楽の凄みを知ることになった。
その相互作用において、靖子ちゃんがMAPAを手掛けた意味も、MAPAが素晴らしい活動を続けてくれている意義もすでに成立している。
とある偉大なミュージシャンはかつてこう語っていた。
MAPAが他のグループもいる対バンイベントでステージに出てくると、一瞬で空気が変わる。これは本当に誰しも一度は体感してみてほしいぐらいだ。今だと『On the Verge』のSEとともにコショさんが出てきた途端に毛穴レベルの体感でムードが一変する。MAPAの前にどんなにアイドル力の高いグループが出ていても、どんなに激しいパフォーマンスで盛り上げたグループがいても関係がない。その余韻すら逆手にとって常にカウンターのようなセットリストをぶつけてくる。ときに真っ向勝負でいく王道的なセトリでも、そのアプローチの仕方や世界観は明らかに異質である。
陽でも陰でもどちらでも勝負できるのも強みだ。それはつまり緩急をつくってどっちの見せ方も一度のライブで完結させることもできるという意味だ。それだけ自在性のある多面的な楽曲をMAPAに託してる靖子ちゃんも、都度都度その日に完璧にマッチするセトリを組むコショさんのセンスも、それに応えられる機動力を持ったメンバーも半端じゃない。
MAPAには『アイドルを辞める日』というアイドル界隈では広く知られた曲がある。
活動に終止符を打ち、第一線から退くアイドルの葛藤と誇り、オタクへの想いを歌った名曲である。
曲中に登場する名フレーズ「音楽で会いましょう」の通り、MAPAのライブからはいつも純度の高い音楽が伝わる。
メンバー個々の主張やオタクを煽ることに偏ったステージングをせず、常に彼女たちは音楽に大切に寄り添う。6人の個性をムリヤリに強調することはなく、それ以上にパフォーマンス全体の完成度が前に出ている。ゆえに繊細に持ち前の音楽性が伝わるのだ。キャラクターに過度に頼らず、音楽とステージで確実に魅了する。一度つかんだオタクの心を離さない理由のひとつだろう。絶対的な楽曲の良さ、真摯にそれを体現できるメンバー。両輪が揃っている。だから常に信頼できるライブが生まれている。
紫凰ゆすら生誕2daysがスタートする前日に吉祥寺で観たMAPAのライブは、ここまで書いてきたすべてが凝縮されたような素晴らしいライブで、過去に見たMAPAのステージのなかでも屈指のハイパフォーマンスだった。全員が調子良さそうだったし、『レディースクリニック』『真夏の卒業式』『古参LOOP』『アイドルを辞める日』『絶対運命ごっこ』…セトリも神ががっていて、恐ろしい精度で刺さる曲の連続に心揺さぶられた。
その翌日から渋谷道玄坂教会にて2daysで開かれたのが紫凰ゆすらの生誕ライブだった。
昨年は環やねちゃん(アイドルグループ「きゅるりんってしてみて」のメンバー。彼女もミスiD出身)をゲストに迎えたトーク主体の1dayイベントだったのに、今年はコンセプトもしっかりとゆすらがこだわった"ライブ"での生誕祭、それも2days。ゆすらはひとりで成し遂げた。その時点で彼女が1年間積み上げてきた信頼や期待がうかがい知れる。
日頃からあまり感情の起伏のない自分がなぜ泣きそうになったのか。
思い当たる節はいくつもある。
たとえば。
今回の生誕で靖子ちゃんがゆすらのために書き下ろした『ユスラユメ』というソロの新曲が初披露された。ミディアムテンポの美しい旋律を辿る紛うことなき名曲だった。イントロから心を鷲掴みにされ、メロディーが頭から離れない。Xでもみんな同じように語っていた。
その曲を大切に大切に歌い上げるゆすらの姿を見るだけで嬉しかった。ゆすらが大森靖子という人をどれだけ尊敬し愛してるかも伝わる。靖子ちゃんがゆすらの名前を冠して曲を書き下ろすことの意味。その尊さ。ミスiDを受けた頃のゆすらは果たして想像できただろうか。その初披露に立ち会えたのは何物にも代え難い贅沢な時間だった。初日の『マジックミラー』、『アナログシンコペーション』にも痺れた。
2日目、ひとりで迫力を持って鬼気迫る表情も見せながら熱唱した『怪獣GIGA』と『VOID』。
ああやっぱりこのこは大森靖子にたしかに見出され、薫陶を受け、着実に場数を踏んできた表現者なんだ。そのことがヒシヒシと伝わってきて、鳥肌が立ち上がっていった。2日間とも最高のセットリストだった。
たとえば。
2日目は初日より客が増えていた。いつもMAPAの現場でよく見かける常連オタクもいっぱい見かけた。最推しは他にいるであろう、けどMAPAというグループそのものが大好きな人たち。もしかしたら初日のパフォーマンスや『ユスラユメ』の評判も聞きつけ駆け付けた人もいたかもしれない。そんな景色にすら感極まりそうだった。フロアは満員で、薄暗い教会のなか紫と黄色のメンバーカラー2色が揺れる光景は幻想的で美しかった。
『流星ヘブン』を歌うゆすらがおれの座る目の前を通る。ドレスアップした華奢な痩躯から繊細に紡がれるフレーズひとつひとつがクリアに聴こえる。ゆすらの綺麗で儚げな横顔がよく見えた。
そもそも靖子ちゃんの曲が大好きだから、大森靖子の曲を託されて歌われるだけでどうしても揺さぶられやすいんだけど、好きな人が好きな人の曲を好きな人たちの前で大切に歌っている。
この光景ってすごいなと客観視してしまったとき、眼球がウルウルしてきて。涙腺も鼻腔も痛んでやべーやべーとなって。ゆすら良かったねえ。ゆすらを大好きな人たちも良かったねえって。自分は全然貢献性の低いオタクだと思っているから、遠征もしてVIP買って行ける限りの現場いってさらには生誕委員とかまでやる人たちのことを心から尊敬していて。あなたたちの支えがあるからおれもまたこうして今日の現場まで繋がって辿り着けているんだよと本気で思うから。アイドルって永遠じゃない存在だとどこかで分かりながらも永遠を信じて応援している節があるし、人間って脆い存在なんだと知りながら何かしらの指標や評価を与えることに我々は加担しているし、その儚さ脆さの荒野のなかで立ち続けたひとが報われるひとつの瞬間なんだと感じた途端、感情が皮膚を貫くような昂りを見せて危なかった。奥歯を噛み締めて眼に力を入れた。そうしないと涙がこぼれそうだったから。
とてもとても慈愛に満ちたライブ。ゆすらは自分のオタクのことを「慈悲深い」と以前言っていたけれど、それはあなたが一番そうだからその反射なんだよ。この光景も、報われた時間も、すべて。
初日はゆすらを大切に推す人たちがしっとり涙を流す姿も遠目からでもいくつも見えて、それだけでもうグッときてたのに、2日目は自分がまさかそれに襲われるとは思ってもみなかった。泣きたくなかった。「泣いた」なんて一言で片付けてしまう感想が自分のなかでは御法度だったから。
泣いた、考えさせられた、言葉を失った。
そんなインスタントな感想じゃなく、じゃあなぜそうなったかの中身を言葉にしたり伝えられたりできなきゃダメなんじゃないかって(他人はいいけどあくまで自分のなかでは)想いが昔からあって。だけどその日ばかりは泣いたの一言で済ませてしまって良かったかもしれなかった。なんにでも言葉にできるとも、すればいいとも思わないし。
バンドとかのライブと違ってアイドルの現場に行くようになって気付いたことがある。ライブ後にチェキを撮れる特典会の存在だ。すぐにライブの感想やその日までに溜め込んでた想いを本人に直接伝えることができる。他のオタクと共有できたり、空気感や表情を汲み取ったりできる。感想を伝えて、生の反応をその場でもらえる。おれはゆすらに「泣きそうになったよ」と伝えた。ゆすらは「泣いていいんだよ」と返してきた。
「泣いていい」
そんな言葉を誰かにかけてもらったのなんて最後いつだっただろう。
ありがとう、ゆすら。
おめでとう、ゆすら。
おれの腑抜け(ふぬけ)という名前の由来はかつて劇作家・小説家の本谷有希子に傾倒していた時期があることに由来する。彼女の代表作のひとつ『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』からだ。
もうずいぶんと前になるが、渋谷のパルコ劇場で劇団、本谷有希子の舞台『クレイジーハニー』を観劇した際のセリフをいまだによく覚えている。
主演の長澤まさみは鮮烈な赤髪をして、信じられないぐらいの長くて白い美脚を見せながら傍若無人な女を演じていた。長澤まさみは大森靖子とおれと同い年である。劇中の彼女は自分の立ち振る舞いに対して様々な反応を見せる人間たちに向かってこう呟いていた。
「あなたたちの反応が、"わたし"です」
かつて過剰な自意識に悩み、その生きづらさに苛まれていたというお笑い芸人・オードリーの若林さんも近しいことを語っている。
彼も一時期世界を旅し、年齢を重ねて、結婚を経験するなどして今では「ずっと内面ばかりを覗き込んで他人を見てこなかったが、他人への興味が急激に湧いてきた」と自身の番組で吐露していたことがある。彼の書いた紀行エッセイでもその心境の変化は読み取れた。
人並み外れて繊細で脆くて独りよがりな我々は、あらゆる挫折や痛みに病んで、ある時は肥大した自意識に翻弄され、またある時は仮想の敵への先制防御と理論武装に消耗し、ついつい自己へと深く潜ってしまう。
自分の中にこそ答えはあるはずだと。
自己分析の果てにこそ、エポックメイキングな生き方や価値観が見つかるのではないかと。
10代の半ばから躍起になっていた。
だが、徐々に自分にだけ向けていたレンズに懐疑的になる。レンズは曇り、汚れ、フォーカスも合っていなかった。
そんな前提。そんな気付き。
呆れるほど膝を付け合わせた勝手知ったるそいつとは、上手く距離を取る。
外へ外へと視野を広げたほうが、よほど目に映る世界は変えられそうだ。目に映った新たな世界は、きっと内面にも反射し、初めて出会う自分を引きずりだしてくれる。
大森靖子の代表曲のひとつ『マジックミラー』もそのタイトルが示すように反射とそれによる特別な生きざまを歌い上げている。
MAPAでいえば『Calling box』。「僕の周りが僕なんだ」と歌われている。
おれがMAPAを通して知った世界は今も拡張し続けている。彼女たちに出逢わなかったら知ることのなかった世界、価値観、繋がり、音楽、成長、歓びと慈しみ。
ゆすらの根っこは、彼女のnoteの文章などを読んでも分かるように内省的な人だと思うが、アイドルとしてステージに立ち続けて外側の人々に向けて自分を発信・表現し続けていくなかできっと新たな世界を見続けている。思いもよらない自分に出会い続けている。そしてゆすらがファンに新しい景色を見せてくれているとき、ファンもまたそこに新しいゆすら(光景)を見ているのだ。
前述した作家、本谷有希子は以前こうも語っていた。
「他人とのコミュニケーションを考えるときに、まず浮かんでくる状況ですね。人がいるから自分がいる、人がいないところでは自分もいないという、他者の目線によってつくられる自意識過剰な自己に関心があるんです」
今の我々をつくっているものは、これまで目にして耳にして血肉としてきたものの総体である。大森靖子がいるから初めて露わになった自分、MAPAやゆすらと出会ったから引き出された新たな自分がいる。
そんなふうに思える人や音楽に出会えたこと、数多の中から選び抜けた自分のことは信頼できる。好きになれる。センスいいよおまえって。
あなたたちがいるから、今のおれがいる。これからも更新と拡張をともに続けて行けたなら幸せだ。ありがとう。