理屈はいらん。理屈は映画に映らない/『止められるか、俺たちを』感想
ピンク映画の旗手で、性と暴力を真正面から描き、挑戦的な作品を生み出した故・若松孝二監督。
本作『止められるか、俺たちを』はその若松プロダクションに集まった個性的な面々が映画や政治に傾倒する生き様を、女性助監督の目を通して描く。
舞台は1969年末。2012年に亡くなった若松孝二監督を演じるのは若松組の常連でもあった井浦新。助監督・吉積めぐみ役は門脇麦。
当時、都内某所の映画館で観たのだが、公開されたばかりにも関わらず座席は3分の1も埋まっていなかった。平日の夕方だし、宣伝量も多くないだろうし、ふらっとカップルや学生が見に来るような作風でもないので、こんなものなのかもしれない。上映回の観客で一番若いのはおそらく僕だった。
誤解を恐れずに書けば、たいして埋まっていない館内で観るのにむしろ適した作品だった。映画の世界観と重なる部分があったからだ。同じ列で2席ほど離れたオッサンが若松監督が台詞を吐くたびに笑っていた。そんな雰囲気もろとも楽しめる空間だった。
蘇る若松孝二
僕は若松孝二監督のことをさほど知らないし、作品もろくに観たことがない。なのになぜ観ることを決めていたか。
門脇麦が大好きな女優の1人であることも理由のひとつ。あとは宣伝にも使われていた下のカットと、映画のタイトルが最高にかっこいいなと思ったからだ。
この写真好き
同じような構図で残っている実際の写真を再現したもので、現場の空気感が伝わってくるようなカットで素晴らしい。
さらにタイトルが「止められるか、俺たちを」だもん。惹かれるよ。観るでしょ。
主演の門脇麦は、本物の若松孝二監督に会ったことが無いことや、他の出演者やスタッフに比べて監督に対する知識が乏しい点に不安があったとインタビューで明かしていた。
しかし、逆にそこが若松プロダクションの門を叩き、右も左も分からないままチームに染まっていった助監督・めぐみと重なり、奏功した面でもあったという。
僕も同じように「若松孝二とは何者なんだ?」という好奇心を、めぐみの視点を通して埋めていける体験が出来て面白かった。
井浦新の好演
若松監督の痛快で不敵なキャラクターはどこか憎めなくて可愛いげがある。カリスマ性もある。おそらく監督の特徴を井浦新は相当的確に捉えているんだと思う。というか、彼の演技の幅にとても驚かされた。いくら若松組の常連役者であったとはいえ、ここまで自然に、かつ魅力的に演じられるものか。井浦新に対してARATA時代の繊細なイメージしか持っていない人からすればさぞ驚くだろう。
「お前は何をぶっ壊したいんだ?」「爆破させよう」「理屈はいらん。理屈は映画に映らない」などと口癖のように言い放つ。
常に周囲を巻き込みながら自身の信念や映画への情熱を絶やさない姿勢を貫く。不敵でアバンギャルド。男から見て最高にかっこいい男だ。劇中のセリフでもあるが、映画の中でなら何をやっても自由。そこに覚悟を持ち、誰よりも楽しんでいる人だった。
そんな監督や仲間たちに翻弄されながらも次第に馴染んでいくめぐみを、門脇麦は自然に演じている。めぐみの芯の強さ、儚さ、そして迷いまでが美しい。心の動きがリアルだった。
門脇麦は日本映画界の宝
この映画を見ていて確信した。
やっぱり門脇麦は素晴らしい女優さんだと。
彼女よりも可愛い女優やスタイルのいい女優はいくらでもいると思う。
でも女優としてこの人が出るなら見たい。そんなふうに作品にまで引っ張られるのは門脇麦が一番なのだ。
モノと情報に溢れた側面だけを見れば今は豊かな時代なのかもしれない。
しかし同時に、どこか閉塞感に満ち、乱れたものはすぐに排除される無菌室みたいな世の中。
小さくまとまって、つまんない顔して毎日を過ごし、そんな自分を正当化するしかない人生なんてクソ喰らえだ。
情熱も焦燥も主義主張も、誰にも奪わせない。そう信じて疑わなかったであろうこの時代を、役者たちは映画の中で確かに生きている。
もう二度と戻らない時代を駆け抜けた映画人たちの青春がスクリーンの中に蘇る痛快な一本だった。
サポートが溜まったらあたらしいテレビ買います