寂しさの正体は
世界と反転して生まれてきた。多分自分にはそういう節があるんだと、幼い頃からなんとなく勘づいてはいたけれど、まさか齢30を迎えて、その兆候が年々色濃くなっていくなんて思いもしていなかった。歳を重ねてれば、もっと社会に馴染んで、お利口になって、物分かりが良くなっていくはずなんじゃないかと思っていた。天邪鬼とも呼ぶのだろう。真逆だった。自分で自分を乗りこなすことができないほどに、アンコントローラブルな日が増えていった。
桜が散る季節になるといつも思うことがある。
未だに、桜を眺めるこの感情に名前がつけられないこと。喜怒哀楽のどれにも収まらない気がする。こんなに綺麗な桜の木々たちを前に、嬉しくて穏やかで、新しい季節の訪れに高揚しているはずなのに、終わりと始まりの複雑な境目に挟まってしまって、時がもう戻らないことの寂しさに口角を上げきれないままでいる。去年の桜は、缶ビール片手に眺めたっけ、って思い出すのに、なぜか懐かしさとも違う。寂しさとも違う。刻々と時が進んでいるんだということを突きつけられる。その焦りで結局この感情がなんなのか、片付かないまま、また時は進む。そしてもうすぐ、桜は、全て、散る。
先日、52歳の若さで旅立ってしまった、叔父の背中を思い出す。
桜は短命だからと、なぜかいつもたくさん撮らなければ勿体無いような気がして、同じような画角ばかりなのに、何枚も写真フォルダに収めてしまう。でも、彼に見せることもできないまま虹の橋を渡ってしまった。今年の桜が去年より15日も遅咲きだったせいだよ….頭では分かっていても、なぜか最後に何もしてあげられなかったことを責めてしまう。偽善的な罪悪感が苦かった。
6人兄弟の母の、末っ子の弟だった。生まれた順に死ぬわけじゃないんだってこと、分かってたはずなのに、分かりたくもない現実だった。叔父は独立して大きな工場を建て、小さくとも立派な会社の社長だった。身内はみんなサラリーマンの中で、唯一起業した彼の存在は、私にとっては少し特別だった。家族は皆反対してばかりだったけれども。初恋の彼女と結婚したと聞いてドラマかよって思っていたけれど、そういう真っ直ぐなところがかっこいいと思っていた。大きな借金を抱えてまで創った会社だったらしい。彼がそこまでしてやりたかったことってなんだったんだろう、残された大きな工場は彼の生き様を語り継いでくれるのだろうか。
日本にも出張で何度も足を運んでくれていた。うちに泊まりに来たら、私の部屋を貸し出してた。狭かっただろうな。低くて優しい声が今でも聞こえてくる。愛犬家で、殺処分寸前の身寄りのない犬を連れて帰ってきては愛おしそうに抱き寄せていた。あの眼差しには、いつも温度があった。無類の酒好きタバコ好きで、誰の忠告も届かなかった。気づいた時には末期がんで、惜しまれながらも無力に散っていった。短命にも程があるよ、まだまだ仕事が山積みじゃないか。保健所から連れてきたやんちゃ盛りのイングリッシュ・シープドックがガラス窓に張り付いて待つ姿を見て、早く帰ってきてよ。このままじゃ、ビールに焼酎入れて飲む特別なお酒の作り方を教わっただけになっちゃうじゃんかよ。本当はそれ以上に伝えたい感謝が山ほどあるのに。
名残惜しい永遠の別れでさえ、いつかその悲しみすら薄れてしまうこと、どうせいつか忘れていってしまうんだろう。人間の便利な機能だ。幸か不幸か、この年まで親しい人の死に触れたことがなかった。こうして初めて知る終焉の響きが自分の中にも深い愛情というものが存在しているということを教えてくれたりして、届かないままの感謝の言葉は、宙に放り出されていく。