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第1章 オイルマネーに沸くベネズエラ

さんざんだった、南米第一夜

一九六五年四月二八日、二一時過ぎ……私はカリブ海上空を飛ぶヴァリグ航空の乗客の一員だった。
間もなく到着するベネスエラのカラカス空港では、私のために大勢の報道機関が今や遅しと待ちかまえているはずなのである。
「こんな夢みたいなことがあっていいのだろうか……」
つい三日前、東京を発つ日に父が亡くなるという不幸もしばし忘れ、新しい期待と不安にすっかり落着きをなくし、鎮静剤を飲み続けたが一向に効かない。
この日までの六か月間というもの、私と契約したカラカスのエージェントから、現地の新聞や雑誌の切りぬきが毎週のように送られて来た。それには「東洋のスーパー・スター、カラカスに来たる」「東洋のヌエバ・オーラ(ヌーベルバーグ)ヨシロー」「ヨシローのレコードが東京のラジオから流れない日はない」といった、九〇パーセント以上ウソででっちあげられた私に関する記事が出ており、それらを見るにつけ私は顔面蒼白になってうろたえるのだった。
間もなくカラカスのマイケティア空港(現シモン・ボリバル空港)に着陸のアナウンスが流れた時、あの背の高い男性キャビンアテンダントに思いっきり文句を言ってやりたくなった。マイアミからこの機に搭乗してすぐ「カラカスに着く三〇分前には知らせてくれるように。着替えの都合もあるから」としつこく頼んでおいた上、つい先程も「トダビア(まだ)・カラカス?」と片言スペイン語で訊ねたら、先方も「トダビア」と答えたではないか。しかし、文句よりも何よりも、一刻も早く着替えねば……。
「タラップを降りる時は、必ずキモノを着てくるのよ、新聞社のカメラマン達が待ちかまえているから。それに、あなたはすでにスターであることを忘れないでね」と、私が東京ではスターでないことを自信をもって証明するようなエディスの手紙を思い出した。今夜のために、三波春夫と張り合っても負けない程派手なキモノを作り(北斎の波の向こうに富士山が見える例の絵柄が入っていた)、スターらしくタラップを降りるポーズまで何日も前から練習したのである。
若さゆえの感傷から、空港での晴れ姿を目に浮かべては、せまい自分のアパートでひとり感激し、いつしか涙ぐむ始末。日本でもステージに立てば、最早南米の大観衆を前にしたような陶酔にひたり、これまた泣けて仕方のない日々だった。既にスターになった、と錯覚していたのである。
話がそれてしまったが、ベルト着用のまま、機内備品の毛布でうまく隠しながら洋服からキモノに着替えることがどれだけ至難の業であるか、ご想像いただきたい。
飛行機はすでに着陸していた。通路に立つ乗客の無遠慮な視線などかまってはいられない。
中途半端な着替えがすむと、今度は欲ばって制限以上に持ち込んだ荷物をどうやって持って降りるかが問題だった。パン・アメリカンのショルダー・バッグを二つ十文字に、両手に引きずるように下げた紙袋には、今脱いだばかりの洋服類がねじこんであった。やっとよろけながら立ち上がった私を、キャビンアテンダントは急がせる。これでどうやってカメラマンに向かってポーズをとれというのであろうか。
おそるおそるタラップに立つが、その下には誰もいない。そこから入管への道のりは長かった。夜とは言え、カリブ海独特のべとつくような暑さは、みるみるキモノを濡らし、肌にまといつく。下げた紙袋のひもが切れ、押しこんだ靴がころりと落ちる。帯はゆるみ、胸ははだけ、裾をひきずり……やっとロビーに出ると迎えのサルセードやスタッフは、そんなみっともない私の姿を見つけるや、顔色を変え、歓迎の抱擁もそこそこに報道陣に見られないよう、そそくさと車に私を押しこんだ。
母親に手をひかれた女の子が「ママ、あのチニート(中国人)は、一体何してるの?」と不思議そうに訊ねていたのを覚えている。
このように、空港でのインタビューは大失敗。報道陣から逃れプロモーターと親しい記者とカメラマンひとり、そしてサルセードとその友人が同じ車に乗りホテルへ向かう道中、覚えたてのスペイン語「ケ・ビスタ・タン・リンダ(なんと綺麗な景色でしょう)」と言ってみたが、外は真夜中で暗く、曇り空であった。

初めてのテレビ出演

明けて、四月二九日。
今日から早速仕事が始まる。契約は一五日間、契約書にはその間にラディオ・カラカス・テレビ局の音楽番組『エル・ショー・デ・レニー』に一四本に出演すること、と示されている。
これは、軽妙なウィットとユーモアでベネズエラのみならず他のラテン諸国でも知られ、かの有名なサン・レモ音楽祭の司会としても有名なレニー・オトリーナがホストの、ベネズエラ版『エド・サリバン・ショー』(米国でこの当時一番視聴率の高かった番組)といったものである。毎週、日曜日は夜八時から一時間半、月曜から金曜は正午より一時半まで。昼休みが長くオフィスに勤める人々も自宅で食事をする習慣のある国だから、昼のこの時間帯はゴールデン・アワーで、視聴率も高い。常時三、四人の外国からの有名なゲストが出演し、日本でも知られる多くの世界的なスターもこの番組に一度は出演している。日本のテレビ界と比べ、なぜこんなにもギャラの高いであろうスターをひっきりなしに呼べるのか、不思議に思っていた。
後にわかったことであるが、当時この国は石油産出量世界第二位と言われ、ラテンアメリカでは一番金持ちの国だったのである。
五月二日、私のデビューの日の分をビデオ撮りするので、指定の二時間も前から緊張してスタジオ入りしていたが、同日が最後の日のゲストも何人かいて、夜遅くまで収録に時間がかかり、私はもっぱら待たされ、見学のみで終わってしまった。しかし、日本で大切にしていたレコードのスター本人達が気づけば私の横に立っていたり歌っていたりしていて、時差と疲れの中でも私の興奮は最高潮に達していた。
『シガモス・ペカンド』をリバイバルヒットさせた、チリのトリオ、エルマノス・アリアガーダ。この一九六五年、日本人歌手伊東ゆかりとともにサン・レモ音楽祭で『恋をする瞳』を歌い、入賞したイタリアのブルーノ・フィリッピーニ。ベネズエラのカルテット、ロス・ナイペス。このグループの紅一点ミルタ・ペレスは、のちにソロ歌手になり、六九年、ブエノスアイレスの音楽祭で『ラ・ナベ・デル・オルビード(忘却の小船)』をひっさげ優勝した。わが国では、メキシコのホセ・ホセのヒット曲として知られているが、本家はこちらである。後年彼女と度々共演し、その度にうまくなっていくのに感嘆したのものである。
以上三組のゲストは、この年のヒット曲をかかえていることもあり、スタジオでもファンにかこまれて熱演していたが、私を一番喜ばせたのは、キューバ出身の″エル・グァラチェーロ″ロランド・ラセーリエである。グァラチェーロとはグァラーチャ(キューバののリズムのひとつ)歌手のことだ。
この頃、キューバ出身の大スターといえば、トロピカルものを得意とするセリア・クルス、ミスター・ババルーことミゲリート・バルデス、ラテンソウルの女王ラ・ルーペ、このロランド・ラセーリエ、ボレロやバラードではオルガ・ギジョー、ブランカ・ローサ・ヒル、異論を唱える人もあろうが、以上が六大スターとして知られていた。幸運にも私は後年ラセーリエ以外の五人とも共演することが出来たし、いずれゆっくり記すとして、当面はロランドのことだ。

ロランドのこと

彼はトレードマークの鳥打ち帽をかぶり、リハーサルからグァグァンコーのリズムに乗って調子がいい。日本のテレビスタジオのあの張りつめた雰囲気しか知らない私は、この日スタジオ入りした時からあまりのリラックスムードに驚かされていたのだが、これはまたどうだろう流石はカリブ海に面した国のこと、リズムが流れだすと、スタジオ中がとたんに浮かれ出し、かけ声が乱れとぶ。公開録音ではなく、スタッフのほかには三〇人ほどの見学者があるだけだが、カメラマンまで身体を揺らす。アフリカ系キューバ人独特の、張りのあるラセーリエの声は、日本で聴いたレコード通りである。
ラテン音楽の中でも、特にキューバのトロピカルものに心酔していた私は、いつしか見学の女性と踊り出していた。それまで大人しく、というよりはむしろおどおどと見学していたこの東洋の少年?(実際私は一六歳ぐらいに見られていたらしい)が、いきなりとりつかれたように踊り出したので、スタジオの連中が注目し出す。その視線を意識して、踊りがますますオーバーになる。
曲が間奏になって、ロランドがアドリブで早口に「このチニートは、サボール・トロピカル(トロピカルの味)を持ってるね」とふざけると、司会のレニーがすかさず「君、中国人じゃないよ、日本人だよ」とこれもリズムに乗って言う。
ロランドのショーはこのように冗談ばかりが続き、スタッフも踊っているので、いつになったら本番のビデオ撮りかと他人事ながら気にしていたら、もう本番中だと言われてびっくり。トロピカルものには、このような盛り上がった雰囲気が不可欠だ。
私のように、これ見よがしにに暴れて踊らなくても、ほんの二、三歩動き、腰をひねるだけで体がしなりリズム感が溢れ、カッコいい。
カリブ海諸国のトロピカル音楽(のちにサルサというジャンルが作られた)、これらには必ずかけ声が入る。この時にも見学者達が、さかんに「サボール!」「アイ・ナマ」そして「コン・ムーチャ・サルサ(ソースをたくさんきかせて。つまり、激しくやって)」と歌手にハッパをかけていた。
トロピカル(サルサ)の歌手が歌う時のかけ声には、トレードマークみたいなものがあり、セリア・クルスは、よく「アスーカル!(砂糖)」「サボール!」「バージャ!(行け)」、ラ・ルーペは「アーイ」と一声感極まったような、セクシーなダミ声を出す。このロランドは「デ・ペリークラ!(文句なし)」がおはこ。
いつまでも続くキューバン・メドレーを耳に、私は明日の自分の歌のことを考え、武者ぶるいしていた。
 
エキゾティカジャパン

 一九六五年四月三〇日。
この日『エル・ショー・デ・レニー』のスタジオセットは日本一色。スタジオの雰囲気はラテンアメリカ独特のクレイジーかつ快楽的なものであった。会場に入るなり、バンドがコンパルサ(キューバの伝統的なカーニバルの音楽)を奏で、スタッフ一同私を拍手で迎えてくれた。私も踊りながらスタジオの中央に出て行き、あえて日本式に真面目にお辞儀をした。何食わぬ顔をしていたが、取材陣やスタッフからこの日本人は一体何をするのだろうという好奇の目が注がれており、本当はかなり緊張していた。このお祭りの音楽で入場するということは、日本のテレビスタジオでは考えられない。日を重ねるうちに感じたことは、スタジオの雰囲気は何も演出しなくても日本よりもはるかに面白い。それは彼らの国民性がなせる技であろう。
私の出演部分は、まず、エディス・サルセードとそのクアルテット、ロス・コロラミコスが、怪しげな日本庭園風景をバックに『コーヒー・ルンバ』を日本語で歌うところから始まる。そして彼女が「私が昨年日本に行った時、私達と同じようにトロピカルの味をもってスペイン語で歌う日本人と共演しました。彼を是非べネズエラの皆さんに今夜この番組で紹介したいのです。彼は日本では大スターです(かなり苦しい嘘)」といった内容を喋り、私の『サヨナラ(英語バージョン)』(当時この歌はマーロン・ブランドとミヨシ梅木が主演した映画の主題歌で大ヒットした)『スキヤキ』に入る。
鳥居のうしろ、お宮の階段らしきものでキモノを着、傘をさして下りながら歌い始めるのは、日本人の私にとって異国的すぎて照れくさいが、我慢しながらもなりきっていた。後日談だが、当時私のプロモ・レコードに吹き込まれていた坂本九とまったく同じアレンジのレコードがほぼ毎日ラジオからかかっていたので、ほとんどの人は坂本九とヨシロウが同じ歌手だと思い込んでいたようだ。その後、よく「あなた坂本九ですか?」よく聞かれていたが、プロモーターに言われていたので「そのような者です」と答えていた。
すべてが″東洋調エキゾティズム″である。笑いがとまらなかったのは、『サヨナラ』が終わり、すぐ『スキヤキ』のイントロに入るところでキモノの早変りがあるのだが、その手助けをしてくれる六人のダンサーだ。芸者の扮装のつもりだが山本寛斎が発表するパリ向け和風浴衣もどき、髪は東南アジアの相撲とりもかくや、珍奇な歩き方にチャイニーズスタイルの扇子の持ち方、その扇子には私が読めもしない漢字もどきが書かれ、カメラがその字を大写しにする。振付師にせよ、衣裳係にせよ、知らぬ他国のことに出来るだけのことをしたのだし、気分を害さぬ程度にクレームをつけた。
早変りもうまくは行かない。『スキヤキ』のイントロは一〇秒ぐらい、カメラに写ったままダンサー達は、踊りながらさり気なく私のキモノを引き抜き、私は別の衣装になっているのだが、こんなことに慣れているはずもない彼女達、慌ててしまって、胸ははだけ帯は斜めになっており、まるでサマにならない。しかし六人とも大まじめだ。
やっとのことでこの二曲が終わり、ホストのレニーがサルセードに「あなたはウソつきだね。ヨシローはスペイン語で歌わないじゃないか」「あら、見ててごらんなさい」と、エディスが受ける。そして私の、いや、おそらく世界でも前代未聞の『グラナダ』に入るのだ。

『グラナダ』——その波紋

″ヨシローのスペイン語は完璧″と宣伝されていただけに、先程までの気楽さは吹っ飛んでしまった。アグスティン・ララのこの名作が、私がスペイン語圏で初めて歌うスペイン語曲なのである。時差の疲れと緊張が相まって吐きそうなほどに緊張してしまい、本番に入ると、もう立ってはいられず、曲の途中ですわりこんでしまった。ハンカチを持ってきてもらい、その中に吐いてしまったのだ。
見かねたレニーが「うまく歌えてるよ」と、やさしく声をかけてくれる。スタッフの励ましで、再びビデオカメラがまわり出す。
なぜ前代未聞か、と言うならば、スペインの古都を讃えたこの曲を歌うのに、私はキモノを着ている。前半はごく一般的な『グラナダ』のカデンツァ、そのあとラテン・ロックのリズムに一転したところから、手にした傘をやおら歌舞伎の大見得よろしく開き、更に扇子を指にはさんでクルクルまわすのである。
喜ぶスタッフの声援に、私もついつい浮かれ、今度は下駄でタップを始める。意中にあった振付けも忘れて、思うがまま一気に歌い踊った。
歌はともかく、べネズエラ初の東洋からのゲストの奇想天外なショーは、五月二日放映以後あらゆる意味で話題になった。その代表がアバニーコ(扇子)である。派手な舞扇だ。
世界中めぐり歩いたわけではないから一概には言えないけれど、外国での扇子は本来婦人の装身具である。スペインのフラメンコだって、メキシコのベラクルスの踊りだって同じこと、男性が扇子を持つ例などない。だから、扇子を持つ男はマリコン(ゲイ)だ、と言うことになる。たちまち″ヨシロウはゲイだ″との噂が出たらしい。カラカスの『ウルティマ・ノティシアス』紙五月一四日号では「日本では扇子は、男性も使用する」のタイトルのもと、一ページ全部をさいてくれたものである。これはルイス・ロドリゲスという記者のインタビュー記事なのだが、その一節を記してみると、
《R アバニーコの評判は良くない、知ってますか?
 私 らしいですね。でも私にはワケが分からないのですが。
 R アバニーコは女性だけが用いるもの、みんなそう考えているんです。
 私 とんでもない。日本では男性も使うんです。男性にとってもアバニーコは装身具なんですよ。》
扇子がこんなに問題になるとは思ってもいなかった。ともあれこの放送は翌日の夜のゴールデン番組で放映され、この年の最高視聴率を叩き出した。

優れたホスト、レニー・オトリーナ

カラカスでの人気にくらべ、その後の私は何度も厚い壁にぶつかった。同様にその後のラテン歌手のめまぐるしい移り変わりを考えると、ちょうどラテン音楽の過渡期にあたるこの頃、べネスエラに来た意義は深い。ちょうどボレロやオーソドックスなトロピカルものの全盛から、ロックやゴーゴーなどのムシカ・モデルナ(新しい音楽)、日本ではラテン・ポップスと呼ばれているジャンルに移り変る時代で、最早若手でボレロを歌う歌手は時代遅れとまで言い切る人もいたし、女性ボレロ歌手のベテラン、オルガ・ギジョーでさえスタイルを変えつつあった。そんな中で、現地の音楽事情の予備知識のない若手の私が、てらいもなくオーソドックスなボレロを歌うので、むしろ好感をもたれ、ボレロの再燃に一役買ったと言っても過言ではないだろう。
人間の一生にあって、幸運の女神はそうたびたび微笑みかけてはくれはしないが、今まで私の生きて来た二四年間で、このカラカス滞在中ほど微笑みかけてくれたことは他にない。それは微笑というより、あえてバカ笑いと言わせていただく。
他人の不幸を喜ぶわけではないが、他のゲスト達の思わぬハプニングが、私の立場を有利にする結果になった。
その中でもメイン・ゲストだったイタリアの人気歌手リタ・パボーネが、番組の中で彼女の出演するところだけ彼女専属の司会者を使うと言い張ったのに対しレニー・オトリーナは「これは私の番組だから」と、けんもほろろに断ったことから、心証を害したこの大スターは、高いキャンセル料を払って帰国してしまった、と聞かされた。その分だけ私の出演時間と曲目も増え、テレビやラジオのスポットも″ヨシロウ″の名が前日より大きく扱われる。リハーサルの時間もたっぷりもらった。
このような時勢、毎日地元べネズエラからもあらゆるタイプの歌手がテレビに出演する。もう少しスタジオの様子を綴ってみたい。
私のTVデビューの翌日、五月三日(月)は昼の放映である。ここで他のゲストのハプニングその二がおきた。ブルーノ・フィリッピーニが、本番中だと言うのに伴奏のテンポが遅すぎるとどなったため、オーケストラは彼の伴奏をボイコットしてしまった。とうとう彼は最終日まで、あまり巧くない自身のピアノ弾き語りでお茶をにごしたのだが、もともとオーケストラ用にアレンジされた曲が、これで盛り上がるはずもない。
ホストのレニー・オトリーナは、単に司会者として優れているだけでなく、機を見るに才たけ、 リタ・パボーネとブルーノ・フィリッピーニのトラブルで、一時は視聴率も危ぶまれた時、すぐ私を中心に立て、わざとボレロをオーソドックスに歌わせ、リタに当て付けるように当時大ヒットした『二万四〇〇〇回のキス』をイタリア語で私に歌わせ、アメリカのポピュラーやラテン・ポップスでは思いきりモダンな衣裳を私に要求した。この番組のゲストは毎回二曲だが、前記ふたりの歌手のトラブルで私は四曲歌うことになった。
スターとは、プロとは何であるかを、身にしみるほど教えてくれたのも彼であった。例の扇子の一件で、ある日の新聞に「珍奇なグラナダを歌うヨシロウ」という見出しで「歌はいい。けれど私はワースト・ドレッサーの表彰状をあげたい。あの名曲『グラナダ』をキモノを着て扇子を持ち、傘まで差し、下駄でタップまでして、前代未聞である」と書かれ、今後キモノや扇子は一切使いたくないとレニーに泣きつくと、「新聞でこれだけ大きな話題になるのは、いいことじゃないか。実はみんな喜んでいるんだよ。ヨシロウは誰もやらなかったことをやっているパイオニアなんだし、まず視聴者はそれを期待しているんだから。ヒット曲のない君に必要なのは、話題だよ。キモノの時は必ず扇子を使い、思い切り日本的に、その反対に洋服の時は世界の最新で驚かせてほしい」と、こともなげに言った。その上、翌日の番組では「日本の文化も知らない三流新聞」と、当の新聞社の名を挙げ、日本では男も扇子を使う習慣があることを長々と喋ったものである。
べネスエラの新聞記者のボス的存在、日本びいきで、サルセードの親友でもあるファン・ベネ氏は、待ってましたとばかり私にひっかけて日本文化について一ページもさく。その後も彼は毎日のように私の記事を書きまくり、レニーとサルセードもTVで口を開けばオウムのごとく私のことをしゃべる。一方、例の新聞も反撃、その矛先が私からレニーの悪口へとうつった。
レニーは番組のコントにも私を起用し、スペイン語の歌とは対照的に会話の方は僅かしか出来ない私が失敗する面白さもとり入れた。
日本でも生番組中にハプニングを期待して、あの手この手を使っているが、どれも演出だけが目立つ。真似好きの日本のテレビ界だが、そこでまだ一度もやっていない面白い経験をカラカスでした。これぞハプニングの真骨頂だろう。
いつも昼の放映はナマなのだが、ある時一回だけ翌日の分をビデオ収録したことがあった。ハプニングはそこで起こった。
ちょうど私がボレロの名曲『ペルフィディア』を歌っていた時だが、途中で歌詞を間違えたので、伴奏にストップのサインを出す。
レニーがニヤニヤしながら、「ケ・テ・パーサ?(どうしたの)」「歌詞を間違えたので、もう一度お願いします」「それほど気にならなかったのに……それに、もう少しで番組が終わるし、時間がないよ」「だって、こんなみっともない歌を放映されちゃ恥ずかしいもの」「恥ずかしいって言ったって、もう視聴者は見ているんだよ」「ふざけないで下さい。今はビデオ録画なんだから、もう一度撮り直してくれてもいいじゃないですか!」と、私の声も少し荒くなる。こういう難しい話になると、スペイン語がまだ下手だったので、英語に変わる。
「なに、ビデオだって? 冗談はよしてくれ。今、君がどなってるのも、もう全部テレビに流れているんだよ、これは生番組なんだから。誰だ、ヨシロウに嘘を教えたのは!」と、こちらはスペイン語、スタジオの人々にも視聴者にもハッキリ分かるようにレニー。彼の意図がつかめない私は、ますます怒りたける。
「よし、マエストロ、もう一度間奏から演奏してあげてくれ」と、レニーは笑いをこらえた声、そこで音楽が流れだしたが、私は歌いもせず更に声を荒げて「始めからやって!」とオーケストラにどなる。カメラマンが「ヨシロウ、そんなみっともない顔をしちゃあTVの向こうのお客さんに笑われるぜ」「うるさい、黙れ!」と私はカメラマンをにらみつける。
実は、やはりビデオ録画だった。録画が終って彼は、「ごめんよ、ヨシロウ。ちょうど時間がオーバーしたので、今の『ペルフィディア』の場面だけ、明日はカットするよ。ただ君をからかっただけさ」と事も無げに言った。
ところが翌日この大モメの場面は、カットされずにそのままテレビに流されたのである。番組の最後にレニーの「この番組でヨシロウが口にした、わが国では下品とされることばは、意味は同じようなものですが、すべて日本語ですから悪しからず」と言うシャレが入った。この修羅場をわざとノーカットで放映し、視聴者を翻弄させたのである。これもまた大きな話題になった。

べネスエラのスター達

私の一か月のべネスエラ滞在中には、他局の番組にもメキシコからトリオ・ロス・パンチョスやマルコ・アントニオ・ムニェスが出演していたが、皮肉なことに海外勢よりも地元ベネズエラの歌手の何人かの方が、どう見ても音楽的に優れていて、ある日ふとそのことをべネズエラの歌手にもらすと、待ってましたとばかり、「この国は外タレに弱いんだよ。石油で金があるので、出演料だって他の国よりずっと多く出すし、そのためわれわれの仕事場は狭められているんだ。本当に良いゲストなら歓迎だけどね」とボヤく。人気に酔いしれていた世間知らずの私は、それがもしかしたら私への皮肉であるかも知れないと気づく余裕は、とてもなかった。
当時我が国で知られるラテン歌手のほとんどはまずメキシコでヒットした歌手達であるが、この年知ったべネズエラの男性歌手ホセ・ルイス・ロドリゲス、女性ではミルラ・カステジャーノなどは、もっとラテンアメリカで活躍し、我が国のファンにもなじみになってもらいたい、一流歌手である。さらに言えば最近、日本にも公演に来たバンド、グアコにいたっては、日本のプロミュージシャンが仕事を休んででも見に行くほどの超一流グループである。
五月一六日、ラディオ・カラカス・テレビとの契約も終り、闘牛場や野球場のような大きな会場でのライブもこなし、連日のパーティやら、コロンビア、パナマ、ペルーなど巡演の打合せ、レコーディングの話などで、もはや正気の沙汰ではないほどに浮かれていた。サミー・デイヴィス・ジュニアやポール・アンカらも出演した番組に、自分もゲスト出演したという単純な理由から、まるで彼らと同じレベルの人気者になったような錯覚におち入り、その人気を試すため、昼となく夜となく出歩いては、サインに群がる人波の中で酔いしれ、このまま時が止まってくれればいいのにと思っていた。もっとも実力以上に思いがけなく人気の出た日本のジャリタレに群がるプロダクション同様、海千山千のプロモーターが私のこの″変な人気″で儲けようと、毎日私のホテルに来ては、一緒にはしゃいでいたことも確かだ。
亡命したキューバ人の集まりに招かれ、そこで初めて見たサンテリアの儀式に度肝を抜かれた。太鼓の音に導かれ、参加者の多くはトランス状態になってゆく。神に捧げるために生きた鶏の首をはねる。サンテリアの儀式につきもののかなりディープなアフリカ系のリズムと踊りである。その他、一時は白人によって禁止され、黒魔術と言われたハイチのブードゥー、ブラジルのカンドンブレ、どちらもルーツは西アフリカから奴隷が持ってきた宗教と儀式である。ショックに近いような魂の震えを感じたのもこの時である。
一か月前の日本とこの地での差を考えるともう二度と日本には帰りたくない、柱にしがみついても帰りたくない。毎日その強い思いを胸に、自由に生きていくことの幸せを感じていた。なぜなら日本では私のような人間の居場所は無いと思っていたし、この地では歌だけでなく、私のような性的少数者を受け入れてくれる世界があったのだ。クリスチャンが多いラテンアメリカで聖書の教えに忠実に暮らしているお固い面もあるかと思えば、生来の民族性からか、皆快楽的なことこの上ない。エロくて自由。それが音楽に直結しているので、なおさら私の生き方と合っている。どぎついほど快楽的なことを見聞きし、経験したが、それは後のお楽しみとしよう。
そんな日々の中で″恐いくらいに幸せ″だった。一夜、家族にこの喜びを手紙に書きながら、羽田を発つ日、会うことも出来ず淋しく死んでいった父を思って泣いた。
「夏のトウフとスターの人気は三日ともたぬ」という言葉が、身にしみて分かったのは、その後間もなくメキシコに発ってからである。そして、外国で歌っていく厳しさなども、分かってくるようになるのだが……。

メキシコへ旅発った理由は

一九六五年五月二六日。有頂天になっていた私に、突然のアクシデントが起きた。余勢をかって、次のツアーへの夢に胸をふくらませていたところへ、四日後の予定地コロンビアが政情不安に陥り、当分興行活動が出来ないという。
外国では、契約書という紙切一枚が絶対的なもので、
一、 天災
二、 戦争
三、 政治的暴動
が起きた場合のみ、この契約書は無効となる。つまり、私の契約書は反故同然、夢は見事破れたわけである。
南米の諸事情に詳しいサルセードと記者のベネ氏は明日にでも日本に帰るべきだという。けれど、やっと苦労してここまで来たのにハイそうですかと素直に帰るような私ではない。こちらでは私の本当に好きな歌がオーディエンスの好みともぴったり合った。せっかく成功したかに見えたのに、この種の歌が受け入れられない日本に帰り、無理して日本人が要求するラテンを歌う日々を思うことは不可能であった。さらにこの一か月、私の生まれた性のままに正直に生きられたのである。もしかしたら私が人気を得たからではなく、私自身を生きることができた充足感の方が大きかったような気がする。人間とは、生まれたままの自分を正直に生きられることが一番幸せなのではなかろうか。
日本では、これから数か月〜一年私が送るニュースをマネージャーの故小沢氏(元小沢音楽事務所社長)と、今でも芸能界の大物記者K氏がマスコミに流し、帰国までに″私の計算″ではスター誕生という筋書きが出来ていたのである。それに、カラカスでの収入の一か月分を稼ぐには、日本ならその頃のサラリーマンの年収の十年分に値する(ただし当時は一ドル=三六〇円)。
タレントの涙物語を私は好まないが、日本を発つ日に死んだ父の葬式にも出られなかった私は、もっと成功するまでは帰れない、という固い誓いもあった。それに、私は勝手に、日本中の期待を一身に背負って、はるばる南米にやって来た歌手のような錯覚をしていた。
心配顔のサルセードとベネ氏に送られその三日後、知人とてないメキシコへと旅立った。五月二九日、カリブ海の太陽もまだ上らぬ早朝であった。

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