音楽と芸術は、救いになる ――YOSHIRO広石との対話
インタヴュー・文/大石始
写真/白井晴幸
『YOSHIRO 世界を驚かせた伝説の日本人ラテン歌手』(焚書舎)がかなりの反響を巻き起こしている。1940年生まれの日本人ラテン歌手、YOSHIRO広石さんは1965年にベネズエラのテレビ局に招かれて南米へ渡ると、長年に渡ってラテンアメリカ各国のステージに立ち続けてきた。煌びやかなテレビのステージもあれば、場末のナイトクラブもあった。そして日本に拠点を構えた現在も、彼は海外と日本での活動を続けている。本書はそんな激動の人生を、YOSHIROさんみずからが綴ったものである。
たとえば、こんなシーンがある。YOSHIROさんはメキシコのアカプルコでたまたまヌーディストビーチに出くわすことになるが、そこで出会った若者たちがギターを爪弾きながら歌うのは、のちにアウグスト・ピノチェト将軍の軍事クーデターによって虐殺されるビクトル・ハラの歌なのだ。音楽を通した社会変革運動であったヌエバ・カンシオンとヌーディストビーチが結びつくのはYOSHIROさんぐらいのものだろうが、それは彼しか知らないラテンアメリカのリアルな1ページだ。本書では世界の音楽史と社会史の接点が、そうやってひとりの人物の視点を通して語られていく。YOSHIROさんは1965年にロサンゼルスで歌っていた際、ワッツ暴動の夜に偶然居合わせているが、そうした引きの強さも天性のものだろう。
「歌に国境はない」というけれど、YOSHIROさんは本書にも書かれたある体験をして以降、その言葉を使っていないという。この本は「世界はひとつだ」なとという甘っちょろい世界漫遊記ではない。そこには泥水をすするようなラテンアメリカの厳しいショウビジネスの世界を生き抜いてきたYOSHIROさんならではの厳しい視線がある。
一方で、「セックス&ドラッグ&ロックンロール」(ならぬラテンミュージックか)を地でいく享楽的な生活もあけすけに綴られる。性的少数者として幼少時代から生きづらさを感じながら、故郷から遠く離れた地で自己を解放していくYOSHIROさんの姿には、清々しささえある。終章では性的少数者としての思いが生々しく綴られているが、その言葉はある種の「生きづらさ」を抱える人々にとって救いとなるはずだ。
「10年に一冊の傑作」といってもいい自叙伝『YOSHIRO 世界を驚かせた伝説の日本人ラテン歌手』。この本を書き上げたYOSHIROさんに会いたくて、本書の編集を手掛けた焚書舎の松下さんと共に、都内某所にあるYOSHIROさんのご自宅を訪ねた。
********
馴染めなかった日本の音楽
――この本は1976年から1978年にかけて雑誌「中南米音楽(のちの月刊「ラティーナ」)で連載されていた「ラテンアメリカ歌街道」が元になっているんですよね?
YOSHIRO:そうですね。ただ、焚書舎の皆さんのアイデアもあって、そこからかなり書き加えているんですよ。多すぎて削ったくらい。もともとの連載は固めに書いたので、そこから横道にそれるようなことをだいぶ書き加えました。そういうところを書かないと面白くないんじゃないかと思って。
――連載当時の反響はいかがでしたか。
YOSHIRO:当時はあまり意識してなかったんだけど、その期間の号はだいぶ売れたみたいです。後になってから「あの連載、読んでましたよ」とずいぶん言われました。今でこそ中南米に行く人もだいぶ増えましたけど、当時はほとんどいなかったんですよ。僕みたいなのは珍しかったから、外国帰りということで僕の活動も新聞が取り上げてくれましたね。
――YOSHIROさんがラテンアメリカを旅するなかで吸収し、表現していたリアルなラテン音楽は当時の日本のリスナーにどう聞こえたんでしょうか。
YOSHIRO:日本の場合、トリオ・ロス・パンチョス(註:1944年にニューヨークで結成されたメキシコ音楽トリオ)が人気だった60年代が一番ラテンが華やかだったんですよね。アイ・ジョージや坂本スミ子さんの天下。ただ、僕がやっていたのはあの人たちのラテンともまた違った。僕がやっていたのは現地の人たちが好むような歌であって、日本で僕の歌を聞いてくれていたのは、むしろジャズのリスナーですね。僕もまだ若かったので、勢いがあったんでしょうね。向こうで感じてきたものを「これがいいんだ」と確信を持って歌っていましたから。
――それは60年代後半のことですか。
YOSHIRO:そうですね。1966年の秋に一度帰国して、すぐに菅原洋一さんやロス・インディオスがいた小澤音楽事務所に入りました。事務所としても売り込みに力を入れてくれたんです。でも、その当時から歌謡曲がすごく嫌いで、自分で歌っていてもピンとこなかった。せっかくセッティングしてもらったものの全然うまくいかなくて。
――歌謡曲が嫌いだったのはどうしてなんですか。
YOSHIRO:日本の歌ってコード(和音)が単純でメロディーも官能的じゃない。ジャズやブラジル音楽が好きだった自分にとっては、どうも馴染めなかった。ただ、昭和の初めの「モダン」の流行で淡谷のり子さんは洋楽を録音していたし、エノケン(榎本健一)も好きでしたよ。「狭いながらも楽しい我が家~」とかね(と、二村定一やエノケンの名唱で知られる「私の青空」を歌う)。
ラテン音楽との出会い
――YOSHIROさんが最初にラテンを意識したのはいつ頃だったんですか。
YOSHIRO:東京に来てからですね。最初はビンボー・ダナオとか、フィリピンからやってきたミュージシャン。新宿の歌舞伎町に800人ぐらい入るラ・セーヌというライヴハウスがあって、そこでもよくフィリピンのミュージシャンが演奏してました。アメリカから入ってきたのはあくまでも英語ヴァージョンのラテンであって、そうしたものはみんなジャズだと思って歌っていました。
僕の先生は昭和初期に上海でスターになった水島早苗(註:日本のジャズ草創期を代表するヴォーカリスト)だったんですが、そうこうするうちに水島先生が経営する歌舞伎町のユーカリというジャズバーを手伝うことになって、その傍らで歌うようになったんです。当時はタンゴからラテン、ジャズ、ハワイアンなどいろいろ歌っていました。当時は原信夫とシャープスアンドフラッツ、ノーチェ・クバーナをはじめとして、数え切れないくらいのビッグバンドがいたんですよ。僕も呼ばれてあちこちで歌っていました。ラテンを歌う機会も多くて、そのうち周囲から「ラテン歌手」と呼ばれるようになりました。
――ユーカリでは「ベサメ・ムーチョ」や「キエン・セラ」(註:どちらもラテンの大スタンダード)を歌っていたらしいですね。
YOSHIRO:「その2曲だけは覚えておきなさい」と先生から言われていたんです。「あなたの声はラテンに向いているから」と。ジャズシンガーはいっぱいいたけど、当時10代でラテンを歌っている人なんていませんでしたよ。ユーカリではヘンリー・ミラーと結婚したホキ徳田とか、時代を先取りする先進的な人たちが来ていました。
――YOSHIROさんが大分から上京されたのは1957年のことでしたが、その少し前、50年代前半から半ばにかけてはマンボのブームもありましたよね。
YOSHIRO:ありましたね。マンボにも刺激を受けました。うちは親が学校やっていたので、毎週末ダンスパーティーをやっていたんです。その時はマンボが多くかかってましたね。僕はまだ中学生でしたけど、シンプルだけど踊れるし、すごくかっこよかった。マンボと同じ頃、日本ではイタリアの女優、たとえばソフィア・ローレンあたりが映画で歌ってマンボを流行らせたんですよね。「Mambo bacan」とか。江利チエミが歌っていた(ペリー・コモの)「Papa loves mambo」とかも中学生の頃耳にしてましたけど、それがラテン音楽だと認識していなかったんです。
1965年、日本からベネズエラへ
――1964年にエディス・サルセードと出会ったことがきっかけとなり、翌年ベネズエラへ渡りますね。日本ではないどこかで活動したいという思いが強かった?
YOSHIRO:当時多くの人がアメリカに憧れていたんですよ。でも、海外渡航が解禁になっていなかったので、なかなか外国に行けなかった(註:日本人の海外渡航自由化は1964年4月1日)。僕は解禁になったから行けたんです。確かに日本じゃなかったらどこでもよかった。ヨーロッパでもよかったし、ひょっとしたら韓国でもよかったかもしれない。日本が嫌いだったんです。右へ習えというか、みんな同じじゃなくちゃいけないという圧力がすごくて……。
――息苦しかった?
YOSHIRO:そうですね、生きづらかった。
――ベネズエラに行ってからの話が圧巻です。
YOSHIRO:本に書けなかった話もいっぱいあるんですよ(笑)。あのね、僕は日本人だったからウケたんです。他のラテンアメリカの歌のうまい歌手が当時のベネズエラに行っても、あれほどはウケなかっただろうし、何よりもみんな日本人のことを知らなかったんですよ。しかもそんな日本人がラテンを歌っている。珍しかったんですよ。
あの頃1ドル360円の時代だから、日本とベネズエラの往復で45万円ぐらいかかりました。でも、ベネズエラの経済状況も右肩上がりだったから、向こうはそれぐらいの金額なんて大したことなかった。テレビだけの専属料で2,000ドル、他の舞台に出たら1回で1,000ドル、1か月働くだけで数百万は手に入ったんです。
――そうした中で生き残るには、他の歌手がやっていないことをやらなくてはいけなかった?
YOSHIRO:そういうことですね。
――ベネズエラに渡った当初から舞台上で着物の早着替えをやっていたそうですね。本の中では「この国ではMCでこういうことを話すと喜ぶ」「この歌を歌うと盛り上がる」ということが事細かに書かれていて、YOSHIROさんが戦略を持ってステージに上がっていたことが伝わってきました。
YOSHIRO:「まずはあなたたちが考えている日本人のイメージを体現してみましょう」ということですよね。そのイメージにはもちろんたくさんの誤解も含んでいるんだけど、そこを利用して着物の早着替えをやっていました。ただ、着物の下には洋服を着ていて、着物を脱いだ瞬間、激しく踊りだすんですね。そうすると「わ、日本人が踊ってる!」と大きな盛り上がりになるんです。
米軍キャンプでの体験が僕の背中を押した
――お客さんの心を掴むそうした技術は、日本のナイトクラブで培ったものだったんですか。
YOSHIRO:ベネズエラに行く前は米軍キャンプでもよく歌っていました。代々木のワシントンハイツ(註:1946年から1964年まで存在したアメリカ軍の軍用地)とかね。立川にもよく行きました。兵隊の中にはアメリカの国籍を手に入れるため兵隊になったラテン系の人も多かったんです。そういう人たちのために、ラテンナイトがよく行われていたんですよ。そういうイヴェントによく出てました。
お客さんの反応がすごくてね。僕の次の歌い手が舞台に上がっているのに、YOSHIRO!YOSHIRO!と歓声がやまなかった。その時に「これは向こうに行かなくちゃいけない」と思ったんです。当時のボーイフレンドがアメリカ人だったので彼から英語も習っていたし、ちょっとしたジョークを喋って心を掴むくらいのことは、日本にいる間にできるようになっていたんですよ。だから、米軍キャンプでの体験が僕の背中を押したんです。「日本では絶対成功しない、海外に行かなくては」という強い確信を得たんです。
――横須賀の米軍キャンプでも歌っていました?
YOSHIRO:歌ってました。初めてやったときは、いきなりビッグバンドのバックで歌ったんです。この頃はどこにも日本人のバンドがいたんですよ。ナベプロってご存知?(註:渡辺晋が1959年に設立した芸能事務所)
――はい。
YOSHIRO:夕方ぐらいになると、東京駅の丸の内口にバンドの人たちが集まってくるんですよ。そこでナベプロの人から「トランペット2名、千葉のあそこに行って」と言われて連れられていくんです。専属の人もいたけど、そうやってナベプロから派遣されるミュージシャンもいたんですよ。この頃、多くのジャズ・ミュージシャンが米軍キャンプの関連施設で演奏してたと思いますよ。
アレンジを変え続けた「ソーラン節」
――ベネズエラに渡って以降、「ソーラン節」や「八木節」といった日本の民謡もレパートリーにしていたそうですね。江利チエミや美空ひばりもラテン・リズムで民謡を歌っていましたが、影響もあったのでしょうか。
YOSHIRO:うん、ありました。そのまんま民謡を歌っても向こうの人たちは理解できないですし。ベネズエラではアフロキューバンのリズムで「ソーラン節」を歌いました。みんな曲は知らないけど、アフロキューバンになってくるとみんな身体が揺れてくるんですよ。
あと、沖縄の歌も歌ってましたよ。「谷茶前節」とか。沖縄の歌はエキゾチックで、フォルクローレですからね。「ソーラン節」も国によってアレンジを変えていました。たとえば、コロンビアであればクンビアで歌ったり。
――ルーチョ・ベルムデス(註:コロンビアの音楽史に名を残すバンドリーダー/作曲家)と一緒に「ソーラン節」をやったそうですね。そのエピソードを読んでびっくりしました。
YOSHIRO:ルーチョ・ベルムデス、ご存知ですか。日本では誰も知らないと思ってたんだけど(笑)。
――いやいや、伝説的な人ですよ!
YOSHIRO:確かにものすごくうまい楽団でしたよ。それに、専属の歌手がまたうまい。アフリカ系の人で、僕なんかどうやってもかなわない。当時、カセットレコーダーもなかったからバンドの音も録音してないんですよね。もったいなかった。
――当時のYOSHIROさんは音源に残すことよりも、目の前のステージをどうやって盛り上げるか、そこに活動の基本があったわけですよね。
YOSHIRO:そうですね。あと、当時はビザの関係でひとつの国に長くいれなかったんですよ。同じ国にずっといると、しまいには馬鹿にされるようになるし。
――馬鹿にされる?
YOSHIRO:そう。「外国から来たスターなのに、他の国では仕事がないんだろうか?」と思われるんですよ。ま、飽きられるということですね。飽きられないように、その国に合ったアレンジを考え、MCを考えなくてはいけないんです。
――そうやって各国を回っていくわけで、かなりハードですね。
YOSHIRO:そうですね。体力的にもハードだし、金銭的にも大変です。最初からツアーの日程が決まっている状態で向こうに行くんだったらいいですよ。当時は次の仕事のビザが取れるまで待たなきゃいけなかったり、旅をしながら次の仕事を組んでいったんです。
伝説のナイトクラブ「ディプロマティコ」
――本の中では、YOSHIROさんが1969年にレギュラー出演していた、(ベネズエラの首都である)カラカスのナイトクラブ「ディプロマティコ」のことにページが割かれていますね。あまり語られることのない場所ですけど、本を読むと、まるでニョーヨークのクラブ「パラダイス・ガラージ」みたいにクレイジーな場所だったことが伝わってきます。
YOSHIRO:もうね……狂うほど好きな場所でした。ディプロマティコのオーナーも強烈な人だったし、「興味のない人は来なくていいわよ」とお姉言葉で言うような人だった。それほど豪華できらびやかなお店というわけではないですけど、格があるというか、乱痴気パーティーをやっても行儀の悪い人は入れない。たとえお金持ちであってもね。そういう格はありましたよ。
――YOSHIROさんのような外国人の出演者も多かったんですか。
YOSHIRO:何人もいました。アルゼンチンのピアニストとかね。すごくきれいな人なんだけど、レディー・ガガ的なキワモノ的ファッションでもピアノは一流で、クラシックも弾けば、ジャズも弾くという人。
――強烈な人たちばかりが集まる場所だったわけですね。
YOSHIRO:そうですね。ディプロマティコではうまいだけじゃダメで、酔客を惹きつけるなにかがなくてはいけないんです。それに、やかましい客は追い出されていた。日本みたいにお客様は神様ではないんです。
とにかく、いろんなことがありましたよ。僕がゲイだということはお客さんも知っていたし……エロティックなこととかね。音楽と性的なものが共存していないと僕は満足しないんですよ。さっき「歌謡曲は嫌いだ」という話をしましたけど、僕からすると、日本の歌謡曲にはセクシーなものが足りないんです。ラテンには官能的なところがあるし、お客さんもそれを求めてきますから。
性的少数者としての誇り
――読んでいて一番心を揺さぶられたのは、加筆された最終章でした。ここではYOSHIROさんがセクシュアル・マイノリティー(性的少数者)として日本社会で常に生きづらさを抱えてきたこととが記されています。この本に強烈なリアリティーがあるのは、この最終章があるからこそだと思います。
YOSHIRO:確かに昔に比べたらLGBTに対する世間の視線は多少変わったかもしれないけれど、それでも外国に比べたら日本は遅れてますよ。男女差もそうだし、夫婦別姓や同性婚なんてまだまだ先のこと。いまだに古い家族制度に囚われていますからね。
――生きづらさを抱えている人たちにとって、この本は救いになると思うんですよ。
YOSHIRO:そうだといいですね。僕自身、今も生きづらさを感じています。自分は海外に出ることでようやく本来の生き方ができたし、自分自身でいられるようになったんです。子供の頃から歌の世界に逃げ込むしかなかったんですよ。
ただね、「音楽と芸術は偉大だ」という人は嫌いなんです。だって、農家みたいに食べ物を作ってる人に比べたら、音楽なんて大したものじゃない。それほど美化する必要はないと思う。ただ、音楽と芸術は、救いになるんですよ。僕はいまだに自己肯定できないし、外に出るのも嫌なぐらいなんです。
――でも、歌っているときだけは自分を肯定できる?
YOSHIRO:そうです。「これが私です」と肯定できるんです。
国を超えて愛されるYOSHIROの音楽
――歌に込められたそうした思いが伝わるからこそ、YOSHIROさんの歌は各国で愛されてきたのかもしれないですね。
YOSHIRO:それはあるかもしれない。2018年にキューバで歌ったんですけど、ノドの調子が良くなくて、声が出なかったんですよ。それで曲間でこう言ったんです。「声が出なくなりました、みなさん助けてください」と。そうしたら大合唱してくれてね。向こうの人たちのことが好きで好きで仕方ないということが伝わるのかもしれないですね。
――本を読むと分かりますが、YOSHIROさんは人との接し方に愛がありますよね。たとえハリウッドスターであろうと、下層の人たちとほとんど付き合い方が変わらない。
YOSHIRO:そうですね、変わらないです。いろんなところに行きましたけど、なかには危ないとされている場所もあるんですよね。僕は昔からそういうところが好きで。ひとりで飲みにいっても、そっとしておいてくれるんですよ。若い頃僕はどこにいっても子供に見られていたから、襲うほどの相手じゃないと思っていたのかもしれないけど(笑)。
――今後の活動についてはいかがですか。
YOSHIRO:今が一番ワクワクしているんです。今レコードを買うファンが増えていて、シングルレコードを作ろうという話があるので、新しくレコーディングに入ります。アニメ「ルパン三世」のオープニングソングは1971年に僕が歌っていて、まだそれを覚えている年代のファンがいるので、2021年バージョンとしてセルフカヴァーしたものと、昭和歌謡の「かもめはかもめ」をおしゃれに、カリブ海あたりのリズムで歌います。楽しみにしておいてください。
********
初めて会ったYOSHIROさんはチャーミングな人だった。会話の最中には、まるで少年のようなナイーブさが何度も見え隠れした。音楽に対する情熱と信念はいまだ揺るぎなく、とても1940年生まれの80代とは思えない。YOSHIROさんと話していたら、「年齢なんてただの数字だ」という常套句が心の内に浮かび上がってきた。なによりも、YOSHIROさんはやる気に満ち溢れているのだ。現役バリバリの歌い手であるYOSHIROさんは、今後どんな歌を届けてくれるのだろうか?