生産性

数年前、ある議員が「LGBTは生産性がないから税金を投入すべきではない」というような発言をし、様々な賛否両論が巻き起こった。そして、数日前ある区議会議員が「同性愛が広がれば区が滅びる」と発言。

僕はこの数年前の議員の発言のおかげで「生産性」という言葉にとても敏感になった。悪い意味で。数日前の区議会議員の発言に対しても怒りよりも悲しみ・諦念のほうが大きい。

セクシュアルマイノリティ当事者にも子育てをしている人たちはすでに多く存在していることを知っている。ではなぜ「その発言は間違っている、差別発言だ。」と闘えないのか。それは、僕が将来子育てをする側にはならないだろうなと考えているからかもしれない。僕のセクシュアリティが変化してパートナーができたとしても子宮摘出をしている僕の身体は妊娠する機能がもうない。もちろん精子を提供することもできない。

子孫を残すこと=生産性とするならば僕には「生産性がない」と烙印を押されるだろう。自覚しているからこそ闘えないのだ。

生産性で生きる価値を決められるのは窮屈だ。

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