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9年前、仙台で出会ったセキレイに救われた話。

東日本大震災が発生してから、今年で10年。

人によっては、「ああ、もうそうなるかぁ」だろう。私にもそう思う部分は、確かにある。けれど、それは、他人事としての感覚ではない。忘れたくても忘れようがないほど心身に刻み付けられた経験を抱えて、よく10年生きてきたなぁ、という奇妙な感慨なのだ。

実際、最近よく関東も揺れるようになってきた。先月の夜中に、震度5弱(だったらしい。千葉は)の揺れがあった時には、10年前とあまりに揺れ方が似ているので、心底焦ったものだった。

今月から、外歩きをする新しい仕事をするようになった。その時、セキレイをよく見かける。

インコと違って、野鳥には詳しくはない。眼が悪いから、バードウオッチングは、得意ではない。それに、困ったことに私は、好きになると、一緒に暮らしたくなる性分でもある。インコのように、人と暮らすことを受け容れた歴史が長い鳥たちならまだしも、今も自然を親として自由に暮らしている彼らを、わざわざ窮屈な空間に閉じ込める真似は、私としてもしたくない。なので、必要以上の関心を持たないようにしてきた。

そんな私が、9年前、訪れた仙台で、1羽のセキレイに救われたことがある。

仙台フィルハーモニー管弦楽団のコンサートを聴くために、初めて仙台を訪れた。当時、私がヘヴィリスナーだった、インターネットラジオのクラシックチャンネル「OTTAVA」主催での、チャリティコンサートだった。その第1回目のコンサートだったのだ。

あの頃、仙台フィルは、”被災地唯一の、プロオーケストラ”として、世界中の注目を集めていた。実際、10年前の3月11日は、コンサートのある日で、仙台フィルとマエストロ・山下一史は、リハーサルが終わった直後だったのだそうだ。

実は、今月の2日の夜、「頑張ろう日本! スーパーオーケストラ」というチャリティコンサートがあった。今回で10回目で、指揮が最愛のマエストロの山下さんだったから、私は参加したのだ。

日本各地のプロの演奏家有志が集結して、被災地の復興を願いながら、音楽を奏でる。募金は、震災で親を亡くし、学業の継続が困難な子供たちに学費として贈られる。

趣旨には賛同していたけれど、私は思うところあって、一切参加していなかった。けれど、今回が最後で、なにより山下さんが指揮をされるというので、出かけて行った。本当は昨年が、10回目だったのだけれど、コロナ騒動で、直前に中止。それが、指揮やソリスト、プログラムなどはそのままに今年、改めて開催されたのだった。

演奏について、ここでどうこう言うつもりはない(この物言いで、察していただければ、うれしい限りです)。ただ、この時、司会者が、山下さんに当時のことについて、インタビューする時間があった。あの時東北の被災地にいた唯一のマエストロだから、自然な流れではある。

ただ、私は千葉交響楽団のコンサートで、何度か山下さんの話を聴いていることもあって、いくらか、お気の毒に思ったものだった。もちろん、コンサートの趣旨が、東日本大震災からの心の復興を願って、というものだから、山下さんが話をされるのは当然と言えば当然かもしれない。山下さんにしても、ご自分がそうした役割を持っていて、今回の最終回の指揮にも呼ばれたのだろうことは、お分かりだったとは思う。

それでも・・・・。これは、山下さんのみならず、仙台フィルに対しても私が危惧していることなのだが、東日本大震災が話題になるたびに、彼らがクローズアップされることは、本当に喜ばしいことなのか? 音楽家である以上、自らが表現する音楽そのものでこそ、話題にしてほしいのではあるまいか? 

彼らの大ファンである私だけれど、私は彼らがあの日、被災した音楽家だから、愛しているわけでは、決してない。彼らが奏でる音楽に心から魅かれたからこそ、今も追いかけている。どれほど過酷な状況に置かれたのだとしても、活動が素晴らしいのだとしても、奏でる音楽が愛せないのなら、残念ながら私が応援する意味はないのだ。

話が、それた。

10年前、関東で仙台フィルと山下さんとの演奏を2回聴いて(当時、山下さんは、仙台フィルの正指揮者だった)、ぞっこんほれ込んだ私。OTTAVAが主催する、仙台でのコンサートに出かけたのだ。

東北の被災された方々をどんなに思っても、私にはボランティアをする力はない。経済的なこともあるが、私ができることなどありそうになかったから。だから、せめて、被災された方々のもとへ音楽を届けている仙台フィルを応援することを、行動で示したかったのだ。

震災から1年たった仙台。仙台駅自体は、被災したことが全く分からないほどに復興していた。にぎやかだったし、活気に満ちていた。

けれど、在来線の仙石線に乗ってみれば、そこには、復興とは程遠い光景が車窓に広がっていた。絶句して、ひたすら車窓を観て、涙をこらえるのが精一杯だった。

一人旅だった。コンサート会場でこそ、リスナーさんたちとの交流もあったし、仙台フィルの方々ともお話ができたりしたから、別に孤独ではなかった。素晴らしい音楽は、私をほとんど号泣させる時間となった。もちろん、感動のあまり、涙腺が決壊したままだったのだ。

けれど、オッターヴァ(OTTAVAの読み方です。以後は、こちらにします)から離れて、仙台近辺をフラフラさまよう私には、もう話をする相手はいなかった。今でこそ、仙台フィルの方々以外にもいくらか、知人が仙台にいるけれど、9年前初めて行った仙台に、そういう人はもちろんいなかった。

仙石線に乗った後、私は、何故か、そのまま仙台駅に戻ることをしないで、仙台空港アクセス線という在来線に乗り換えた。2日間、乗り放題の周遊きっぷを買ってあったから(この時は、泊りがけだった)、出来たことでもあったのだけれど。

仙台駅と仙台空港を結ぶ路線で、午後遅い時間だったけれど、乗客はなかなかに多かった。コンサートがあった前日は、暖かくて、良いお天気だったのに、その日は、曇りがちでとても寒かった。

電車の暖房が心地よい。けれど、この路線でも、震災の爪痕は、生々しく車窓から観える。そこにあるはずのない車。誰かのものだったはずの服や人形やおもちゃ。何処からか津波が運んできた家庭ごみの袋。そういうものたちが、田んぼの中だったり、川の土手だったりにあるわけだ。車の上に車が乗っかっている光景もあった。

しかも、車内で、乗客の方々が、あの日の話をするのが何故か聴こえてくる。まるで、私に聴かせようとしているように。「どうか、ここの現実を伝えて!」と、託されているような錯覚に陥ったものだった。

そうしているうちに、終点の仙台空港駅に着いた。窓から、対照的な光景を観て、「あちら側を歩いてみよう!」と、決断した。進行方向に向かって、左側の風景は、一面の空き地で、荒涼とした風情だった(ちなみに反対側は、空港の風景だったのです)。遠くに、松林らしきものが観える。「あそこまで歩くぞ!」と、決めて、電車を降りた。

駅を出て、目指す場所に歩き出した。電車の窓から観えていたものが、自分の目の前にある。松林は、かなり遠いが、帰りの夜行バスまで特に予定もなかった私は、かまわず、道路に沿って歩き始めた。

レンタカーのコーナーがあるけれど、人の気配が一切ない。空はさらに暗さを増して、今にも泣きだしそうだ。風も強くて、油断すると、吹き飛ばされそうだった。厚めのコートを着ていたけれど、寒さが半端ではない。

時々車が通る以外、私が出会う命は、なかった。道端に生えている草はほとんど枯れているうえ、みんな同じ方向に倒れている。つまり、「津波はね、こっちから来たんだよ」と、私に語っているのだ。

枯草のところどころに、いわゆる”震災ゴミ”が引っかかっている。人形やおもちゃや、洋服の切れ端や・・・・・。本当は誰かの大切な持ち物だったはずのものたちを、津波は遠くから飲みこんで、ここで吐き出していったらしい。

ふと気が付くと、顔に冷たいものが当たっている。私が歩いているうちに、とうとう雨が落ちてきたらしい。フード付きのコートだったので、傘を持たない私は、フードをかぶった。雨は強くないはずなのに、顔が濡れている。命の気配がない道を歩き続けているうちに、私は我知らず、泣いていたらしい。

私の中で声がする。「ねぇ、もう戻ろうよ。寒いし、雨も降ってきたよ。おなかもすいてきたでしょう」けれど、私は、その声を無視して歩き続けた。歩くことをやめたら、そのままうずくまってしまって、動けなくなりそうだったのだ。

感情が凍り付いて、何も考えられない。私はひたすら、自分で見つけた松林に向かって、頑固に歩き続けた。土地勘がないから、随分遠回りしたし、本来は通れるらしい道は、津波の影響で、崩れたりしていた。

ようやく、松林に近づいてきたな、と、思う地点まで来た。そこは、川べりに近い細道で、両側は、枯草で覆われていた。その時、眼の端を横切る影があった。気になって立ち止まって、影の正体を探した。

すると、再び、しかも今度は堂々と私の目の前を、1羽の小鳥が走り抜ける。白っぽいが、背中に黒い線があった(はず)。尻尾を左右に忙しく振って、小走りに走ってゆく。その様を観て、前日の仙台フィルの演奏から1曲思い出した。ルロイ・アンダーソンの「舞踏会の美女」。

その瞬間、私の凍り付いた感情が緩んで、ふっと微笑んだ。すると、それを待っていたかのように、次々と鳥たちが現れてきた。カラスやスズメや、鳶が。何処にいたのかと、私が首をかしげる勢いで、どんどん現れてくるのだ。

彼らを観ているうちに、私の中の感情がどんどん緩んできて、頭の中に、やなり前日聴いた、仙台フィルの演奏のブラームスの交響曲第1番の最終楽章が、よみがえってきたものだ。

私が最初に目指したはずの松林は、はるかに遠かった。けれど、鳥たちに出会った場所のそばに、やはり、松が群生していた。津波をかぶり波の勢いをいくらかは削いでくれたようだ。幹が真っ白になって、痛々しい。塩害だろう。その姿を観たら、もう前進する力が出てこなかった。近くの1本をさすりながら、しばらくすすり泣いていた。

確か、時計を観たら、5時近かったように思う。それで、駅に戻ることにした。日が暮れてしまう前に戻らないと、危険だから。泣いて、少し感情を解放したら、寒さが余計に身に染みてきた。川沿いの細道は、良く観ると駅のそばまで続いているようなので、遠回りも嫌になった私は、そのまま、歩くことにした。

私を微笑ました小鳥は、もういなかった。その時には、野鳥に疎い私には、その小鳥の名前がわからなかった。帰宅後に検索して、やっと、その小鳥が「セキレイ」だと知ったのだった。

帰り道に、何気なく振り返ると、そこには、日暮れ近い曇天を背景にして、美しい大きな虹がかかっていた。雨はいつの間にかやんでいた。知る限りで、一番大きな虹のように思えたし、それを荒れ果てたこの場所で観られたことで、私の冷え切った心に一筋の光が差したように思ったものだ。

あの時、セキレイが私の目の前に現れてくれなかったら、私はどうしただろうか。家には相方もインコたちもいるのだから、よもや馬鹿なことはしなかったとは思うけれど、正気をなくしたに近かったから、今考えても、ぞっとする部分もある。

以来、この鳥は、私の守り神のような存在だ。それらは、また、別の折に。

仙台に行けない気落ちが、暴走を呼んだようだ。来年こそは必ず! 改めて、そう気を引き締める夜でございます。

暖かくして、良い夜を🎶

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