#02 擬似ファンクの帝王 ~ Can 『Tago Mago』 [40th Anniversary Edition] (1971 / 2011)
連想するヒト
「これとあれは似ている」と気づくことには、人間の根源的な高揚がある。理性の本質があらゆる事象を「カテゴライズせずにはいられない」という衝動にあり、その先に人間社会の素晴らしい達成があるとするならば、一見して繋がりのない物どうしの間に、カテゴリーの枠を飛び越して関連性を見出すことの高揚感はどこからやってくるのか?
批評家の内田樹氏が著書の中で「『これって、あれのことだよね』という連想が働くことに知性の本質がある」みたいなことを述べていたと記憶します。この場合の「知性」というのは、身体性に根差した知性ということなのでしょう。いわば直感。そのような身体知が理性を出し抜いて、理性が取りこぼしている抜け道を見つけたことによる、ある種の開放感がそこにあるはずなのです。
ともかく、何を言いたいかといえば、エレクトリック・マイルスとカンは「似ている」と感じたとき、目の前がパッと明るく開けたような気がした、ということです。
ドイツ発のクラウトロックを象徴するバンド、カンの代表作『Tago Mago』の40周年記念盤には、1972年のライブ音源を収録したCDが付いている。ここに収められた演奏を聴いたとき即座に「これはアガルタだ‥‥」と了解した。そこではいつまでたっても成仏しないドス黒いノイズが" とぐろ "を巻くようにウネウネとのたうっている。
『Agharta』の持つグロテスクで" 内臓的 "な一面を純化させたのが、このライブ音源ということもできる。このような音楽は同時代にけっこうありそうでいて、これがなかなかに見つからないものです。特にロック界隈の人たちは意外なほどユーザー・フレンドリーだということに気付かされる。内蔵的という方向ではむしろ、日本のフリージャズ界隈、裸のラリーズあたりの方が近接しているのかも知れない。
ともあれ、そこには理性の先読みを許さない音楽がある。どこかに着地するのか、しないのか判然としないままリスナーを宙吊りにしてしまうような。
This Is Not A Rock & Roll
パンク以後のミュージシャンがカンから被った影響の大きさについては承知していたつもりでしたが、彼らの音楽にきちんと向き合ったのは、もう2000年代を迎えたころだったろうか?編集盤の『Cannibalism I』を初めて聴いたとき、即座に「ポストパンクという運動はカンの80年代的解釈のことであったか‥‥」と了解した。影響うんぬんどころの騒ぎではない、この非ロックンロールな音楽の射程内には、PILからトーキング・ヘッズ、あるいはイヌまでの全てが含まれているのだと悟りました。
なんだか21世紀に希望が持てたような気がした。直接的な影響関係を超越して、カンを起点、あるいは中心とする「もう一つの音楽の系譜」とも言える豊穣な地下水脈の流れがあるのだと気付いたからです。
ダモ鈴木の異物感は言わずもがなとして、マルコム・ルーニーの歌う、グルーヴ感が全く欠落してしまった「Father Cannot Yell」には心底しびれたものです。初期のカンにおいてはしばしば、R・ストーンズやザ・フーからアイデアの援用を試みている節がありますが、それが掌中に収まるということはなく、何か別のものが生まれてしまっている。誤読やズレを多分に含んだままの音楽がゴツゴツと鳴っている。
「ドイツのロック音楽」の著者として知られる明石政紀氏は同書の中で、カン及び、ファウスト、クラフトワークに共通する特徴として「ズレとユーモアと距離と覚醒」の感覚を挙げている。クラウトロックの中核にあるこの遺伝子はS・ピストルズ/ジョン・ライドンを経由して今もなお世界中に拡散し、マッチョなロック信望者が忌み嫌う「モスキート音」として機能し続けている。
(ちなみに「擬似ファンク」というワードは、明石氏が「Ethnological Forgery」というフレーズに「贋作エスノ」というクールな訳語をあてていたことにインスパイアされて生まれた、というどうでもいい告白も付け加えておきます。)
追悼 ダモ鈴木
LPではダブル・アルバムとなる『Tago Mago』の、その1枚目は一見するとカンの中でも最もブルージーというか、ロックの規範に則ったサウンドのように感じられる。が、これが曲者で、バンド内で最もロックンロールしているミヒャエル・カローリが鳴らすギターの旋律と、非ロック部門を担当するホルガー・シューカイ、ヤキ・リーベツァイトが生み出す不可解なリズムとが、相互に侵蝕し合いながら徐々に異形の音楽が立ち上がってゆく。
そこへダモ鈴木の歌が加わることで、リスナーは「原始の気持ちに一瞬なる」という驚きを体感する。欧州の若者たちが中世の彼方に打ち捨ててしまったはずの" 土俗性 "が、そこではほとばしっている。
ダモ鈴木はまるで、野蛮な地層にまで伸ばされた二枚貝のベロのような存在だ。江戸アケミと同じように、足元の下に蠢く得体の知れなさを吸い上げながら声を発している。常に「音楽なんて関係ない」というメタな地平に立ちつつ、それでも声を放ち続けている。その声に宿る下向きの力。音楽を異化せずにはいられない集団であるカンの中にあっても、その存在は極めて「傷口」的なのです。
ダモ鈴木がミュンヘンの路上で歌っていたところをH・シューカイにスカウトされて、そのまま夜のステージに立ったという有名な逸話がある。ダモ曰く、路上ではいつも「宇宙語」でパフォーマンスしていたという。その声に触れると、私たちがまだ言語を獲得するまえの心の動き方を思い出させてくれるのではないか?という淡い予感めいたものが立ち上る。
「音楽は言語である」ということを前提とした言説にはある程度以上の妥当性はあるものの、それだけでは取りこぼしてしまう領域はあまりにも大きい。言語によって分割された明晰な事象にピントが合ってしまい、その周りのモヤモヤした微細なサインは無いこととされてしまう。言語というのはシンボリックなものを設定するのは得意かもしれないけれど、極めて大雑把にしか世界を切り分けてはくれないのです。
このnote的な表現を使えば、言語というのも即ち「轍(わだち)」であり、カテゴリーとは轍そのものなのです。轍とは、良いとか悪いとかの次元の話ではなく、人類が地球上でサバイブし、繁栄するために採用した一つのスキームに他ならない。
しかしながら、それが私たちに定型化を促す圧力として作用することも当然ある。そんなときの解毒剤としてカンの演奏を、ダモ鈴木の声を聴く。その傷口性に触れてみる。傷口とは「立ち尽くす」ことに他ならない。轍の中にあって立ち止まり、押し黙らないことには、足元にわだかまる不定形の「ゆらぎ」が発する声を捉えることができない。そのときの開放感に賭けてみる。
ただ立ち尽くすことが、即ち世界への抗いの舞いとなり得るのです。でも、それはとても難しいことだと思わない?
R.I.P. Damo Suzuki