支援する側が救われるという罪
生活に困った人の手助けをする仕事。
それを8年続けた。
おれの担当ケースには
明確な傾向がある。
共感した相手の支援ほど上手くいく。
そりゃそうだと
思うかもしれない。
相手の困りごとに
共感するということは、
自分の経験と
共通項を見出すってこと。
これまでの人生経験が
生かせる場合が多い。
でもそれってプロじゃないよね。
誰にだって、相性はある。
しかし運良く、
困りごとに共感する相手を
担当したからと言って、
いいことずくめとは思わない。
自分の経験に当てはめて支援するあまり
相談者の意思決定を誘導しちゃう危険性がある。
「自分も同じような経験があって、こうしたら上手くいった」
そんなアドバイスは
細心の注意を払うべきだと思う。
全ての支援員は
共感してくれるはずだが、
自分が担当したケースが
上手くいったときの喜びは
計り知れないものだ。
自分が役に立ったことで
自分が救われたような気にさえなる。
それはなぜか。
相談者の人生を通して、
自分ができなかったことをする。
もしくは
あのとき承認されなかったことを
自分が承認し直す。
そんな一面があるからだ。
親が自分の人生を子供に託すように、
相談者に自分の人生をやり直してもらう。
でもどんなに似てるように見えても
相談者の人生は相談者のものだし、
似てるように見えるのも
関わったごく一部からの
判断にすぎない。
目の前の相談者は、
自分の人生やり直しのための
仮想モデルではない。
だからとにかく、
自分の意思が
支援に反映されないよう、
肝に命じていた。
それが素人なりのこだわりだった。
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