学校の意義~私の幼少期~
私は、正真正銘の日本人だ。
どの角度から見ても、日本人だ。
国籍も日本人、話す言葉も日本語、住んでいる場所も日本。
だが、私の幼いころは・・・
小さいころから、学校になじめなかった。いつもサボり、体調が悪くなると学校に休みの電話を入れてもらう。休みと決まった途端、元気になる。そんな子どもだった。幸い両親も学校が嫌いだったらしく(?)、学校に行かなくて怒られたことはない。
そんな私に転機が訪れたのは、小1のとき、父の転勤で4か月ほど滞在したアメリカのシカゴ。
現地の小学校に通った。シカゴでも、とても治安が悪いことで有名な小学校で、みんな親が付き添って通学する、そんな学校だった。トイレ休憩も決まった時間しか行けず、トイレでクスリをしないように、先生が立って待っている、そんな学校だった。
当時、思いのほかノロマでグズ(?)な私は、よくトイレでうずくまっていた。先生がこぶしでドアを叩き「早く出てきなさい!」と、よく叫んでいたのをいまだに思い出す。
私のクラスは、10人くらいの生徒がいた。どのクラスもそれくらいの少人数だったが、前に立つ先生が全体に話していた回は数えるほどだった。隣の子は常に数を数えていたし、別の子は常にお絵かきをしていた。うしろでは、別の大人が一人の生徒にずっと話しかけていた。あとから「チューター」という、クラスに特別ついていけない子どもにボランティアで教えてくれている大人であることを知った。
一人ひとりが違うことをしているけど、同じ空間を共有するーそれが心地よかった私は、日本の学校に戻って、さらに、なじめなくなった。
同じ空間にいる人間が、常に同じ作業を、同時に、一緒に行う必要はないのだ。日本の学校は、それに重きを置きすぎる。結果、同じように考え、人に合わせて笑い、忖度する人間が量産される。
学校は、人間を形作る上で最もベーシックな組織だ。その国民性や国の空気がいかに形成されているかを垣間見ることができるからだ。
「人と違うことは普通」の真の意味は、アメリカの学校に行って学ぶことができる。少なくとも、当時はそうだった。