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リサイクル着物は安い楽しみか。
わけのわからぬ着物着たい着たい熱(病)に罹ってまもなくの頃に知人の着物パイセンに教えていただいたのが楽天のリサイクル着物店「Shinei」と「idnet」という素晴らしい店だった。
どちらも立派な正絹の袷のリサイクル着物が「5500円の75%OFF」みたいな異様なまでの安さで買えるので慄いた。
しかし少しだけ知恵がついてきた頃、「どうしてリサイクル着物の店にはほとんど木綿の着物がないんだろう?」と不思議に思うようになった。
「正絹は基本洗濯しないものらしい」ということを知り私の中の潔癖症が「じゃあ洗える着物の方がいいじゃないか」と言い出した頃でもあり、「ならば普段着るのには断然、洗濯できる木綿がいいのでは?」という結論に達したのだ。
もちろんポリの存在も知っているけど、なんとなく木綿の方が身体にいいような気がしていた。
でもお手頃な木綿の着物を探すと浴衣ばかりが検索で出てきて「そうじゃない」と思う。
どうやら、いい感じの木綿の着物が欲しい場合にはリサイクルではなく「反物」を入手して「お仕立て」をお願いした方が手っ取り早そうだぞとそのうちに察する。
その後「なぜ正絹の着物より木綿が高いのか?」というのが私の謎ときテーマとなった。
今となれば「正絹の着物の高いやつはピンがわからないしそれは木綿の比ではない(しかし麻は別格)」などということを知っているけれど、所詮私の手の届く範囲では木綿着物より圧倒的に正絹リユース着物の方が手に入れやすいのだ。
その辺の仕組みとしてはおそらくはかつての着物全盛期、昭和3、40年代ごろに異常に蔓延した庶民の着物ブーム(結婚するときには何枚か作って当たり前的な)の残滓として(もはや死に絶えつつある)当時の女性たちの箪笥の小紋やら色無地やら黒留袖やらの着物が、いま異常に市場に解き放たれているダブ付きが故の安さなのだろうというのはだんだんわかってきた。
私はサイズとしては身丈168の裄70という大女なので、リユース着物の中でもまともに着られるものはそれほど多くないけど我らが「さんかくさん」方式で割り切ればよりどりみどりだったりはする。
リサイクル着物というのは、うまく探せばアホほど安い。鶴見の「リサイクル横丁」に行けば月2でまともに着られる長着も帯も100円で買えちゃうくらいなのだ。恐ろしい。
恐ろしいといえば、100円ではなくても(100円のものも)「しつけ」糸の付いたままの「結局誰も着なかった着物」がかなり出回っていることだ。
今でも。その流れはなんとすればこの今につながるリサイクルとかアンティーク着物ブームというのはここ20年くらい熾火のように持続しているようなのでその初期ごろは今よりも出回っていたのか? それともインターネット時代ののちの方がブームとしてはアツいのか? 今日日の不景気な時代の方が若い世代に刺さりよりブームとかしているのか。その辺の事情はよくはわからない。
わからないがかつてその着物を仕立てたその人は何万もあるいは何十万円もその着物に投じたのだろうことは確かで、それでも今しつけ付きであることも確かで、そういう性質のものごとが「着物」周りにはある。今安いからといって「安い」と言い切れない、虚しさとやりきれなさがどこか通奏している。
実際のところこないだ着た母の色無地だって私が初めてしつけをぶっちぎって着装した。責任を持って「私が着潰してやる」くらいの気合を入れて着た。でないとしつけ付きだろうが、この着物を売ったところで10円にもならないのを知っているからだ。なぜなら昭和のサーモンピンクの地味な地模様の暈し色無地なんかリサイクル市場に腐るほどある。そんなありふれたものを愛おしむのは私にとってはそれが母の形見だからに過ぎない。
安く買えるのはありがたい。安く楽しめるのもありがたい。でも、手放しで喜べることではない。
私が着物を楽しむ気持ちは割り切れない暈し色の中にある。