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浦林さえ
浦林さえは熊野道夫の移り香の残った木綿の寝間着を自分の布団にしのばせていた。汗と男のぬくもりが、さえの小柄な体にひそやかにつたう。
(私のような貧しい女は所詮あの人のなぐさみ者で終るのか……?)
初めての男であるだけに、憎しみと情念の炎が、浅黒いさえの体内にめらめらと燃えあがった。
さえは金栄旅館の座敷係をしていて、熊野道夫との関係は一年も続いている。来月からは道夫は二度とこの金栄旅館に姿をあらわさないだろう。
さえは道夫の子をみごもって四ヶ月半になる腹のふくらみにそっと手をあて、いたわるような眼ざしで、じっと下腹部をみつめるのだ。
決して別れてやらない……どんなことをしても決して離れてやるものか……。幼い頃から小突かれて育ったさえは、道夫の端整な白い表情にあざけりと恐怖のかげがよぎっていくのを決して見のがしはしなかった。
献身も犠牲も、愛する男のためには苦痛ではないさえも、背を向けた男のうしろ姿に、はっきりとした憎しみと拒絶の叫びを感じると、いとしい男への情念と憎悪は たぎり立ち、復讐の鬼と化してゆくのだった。
変りやすく、移ろいやすい愛の正体を、人間は本能的に知っているからこそ、あらゆる約束ごとで互いに束縛しあう。さえは約束ごとも、互いの理解すらもない男の横暴を一人受け入れ、 その苦痛と哀しみにたえ忍従してゆかなければならなかった。それはさえにとっては、一人の女の業であり、受け入れがたい事実であった。
時のつぶやき
男は女を
誤解していた
女は男を
理解しなかった
あたため合う
時だけだった
二人が
信じあえたのは・・・・・・
猫の鈴ならし
献身も犠牲も
物々交換なり
その心は
結婚目あて
チクタクチクタク
さえは小柄ではあったが、身体は丈夫なほうだった。病気らしい病気はほとんどしたことがない。常にこまねずみのようにくるくると体を動かし、何か仕事を見つけてはかたづけてゆく娘だった。
特別愛嬌があるわけでもなかったが、旅館では人手不足の時世でもあり、座敷女中と言っても 田舎の中学を卒業し十五歳の時から二十六歳の今日まで陰日向なく難なく勤めた十年余りの歳月に重きをおき、主人は、さえを大切にしていた。
妊娠五ヶ月ともなると、さえの体はつわりがないと言ってもやはり苦しい。それに体型が変わって人目につくようになれば、気丈なさえも、やめざるを得なかった。
さえには両親がいない。父親は炭坑の爆発と共に地の下に眠ったままだった。母は過労と胃がんで父の死の五年後にこの世を去っている。 一人娘のさえは十一歳になったばかりだった。もともと親戚の少ない家であり、若死にする家系だった。 十一歳のさえは、違い姻戚関係にあたる雑穀商、米田一太郎の家の女中のようなかたちで居候させてもらい、十五の春になると、一人 東京の金栄旅館に座敷女中として勤めるようになったのだった。
年月の流れは人々の苦しみも哀しみもいつしか忘却の彼方に ほおむり去ってくれる。天恵薄く幸薄い少女さえは、青い麦のように人生の重みに耐え、 つまずいても転んでも突き飛ばされても、誰一人手をさしのべてくれないことを幼い頃から浅黒い肌で身にしみて知っていた。物心ついてから一人で黙々と歩き続けて来た道は、決して平坦ではなく、落し穴もあれば障害物もあった。迷路に入りこんで動きのとれない日々もあった。それでもなお歩き続け、ふりかえることも立ちどまることも許されない、唯、ひたすらに歩くだけの孤独な人生だった。
生きることに追われていると、哀しみにひたることも、夢を追うことも出来ない……。さえは現実のみを信じ、過去を忘れ、未来も期待していない。今をしっかりとみつめて生きることが精一杯の生き方としか思っていない女だった。
時のつぶやき
捨てられた
小石
飽きられた
オモチャ
忘れられた
写真
光は二度と
あたらない
盲になったエンゼルフィッシュ
お前が虚栄と言う名の
悪魔に心を売ったからだ
ついでに愛という名の
天使も質屋においてこい
チクタクチクタク