リタイヤ後の自分は今よりずっと小さめの姿を思い描く
最近は、肩書に「元」を付けているご老人が多いことに気づく。
知り合いにそういった年齢層の人が増えてきたということも、理由のひとつだろう。
苦労して手に入れてきたはずのものも、自分の本質を変えるようなものに成る由もなく、この人は何と戦っているのだろうかと疑問に思うこともある。
現役時代は十分活躍をして、老後資金も潤沢にあって、孤独と苦しみは配偶者と折半して、持ち家があって、若々しく健康で、不自由なく日々の生活ができて、デカイ墓が用意されていて、家族や奴隷に看取られて。
それが一般的な幸せの形というものならば、今後の日本にはそこからこぼれる人たちも少なくはないだろう。
孤独死が問題でない社会が当たり前になるような、ロールモデルができないだろうかと常に考える。
独居老人で、借家で、年金だけが収入で、持病もそこそこあって、散歩とYouTubeくらいしか趣味はなく、柿の種で焼酎飲んで。友だちも多くはないけど、それは孤独を感じないほどに存在して。
僕は、社会の理想とする老いと死に対して、戦いを挑もう。
「お持ちになりませんか」
気づけば散歩の途中に足を止めていた。悲鳴をあげんばかりに撓る枝先を眺めていると、家主が声をかけてくれた。
「いいんですか」
「いいんですよ。手入れはしていませんし、見栄えはよくありませんけど。」
老婦人は慣れた手つきで採収ばさみを操り、低い位置にあるそれを3つほどパチパチと切り取ると、皺の深く刻まれた小さな手で、ひとつひとつ丁寧にスーパーの袋に収めてくれた。実の重さから解放された枝は、元居た場所に勢いよく跳ね戻る。
「ありがとうございます」
僕は老婦人に謝辞を伝えると、再び散歩のコースに戻った。
実家の母に届けようか。
いい香りのする夏ミカン。
立冬なのに夏ミカン。
たぶん、晩御飯くらい食べて行けとすすめられるだろう。
こんな風に、ゆるく手渡されるもの、手渡せるものは多くないけれど、金銭以外のもので回っている世の中も、確実に存在する。理想と乖離した現実に、誰もが絶望しないほどに。
以て瞑すべし
まろやかな黄色い実に、僕は再び鼻を近づける。
(309日)
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