わたしが十字架を描く理由
キリスト教と十字架の意外な歴史
十字架をキリスト教とセットに考えること、この地球上では、大変多いことでしょう。
私も意味を調べる前はそうでした。
何というか、神聖でキリストと一緒に描かれることが多いから〜っていう先入観がありました。
それもそのはずで、十字架とキリスト教が一緒になって普及し始めたのには、実は歴史的な変化の流れがあるんです。
それは、
ローマ帝国がキリスト教を国教として認めた4世紀以降にまで遡ります。
びっくりすると思いますが、それまでの初期キリスト教では、横より縦が長い、いわゆる『ラテン十字架』と言われる、私たちがよく知っている形の十字架は、実は__
異端・異教徒のシンボルで、不浄のもの
として扱われていました。
イエスがゴルゴダの丘でT字型十字架に磔にされているのは、イエスがめっちゃ特別だから、ああいった大掛かりな感じで処刑されている……
っていうわけではないんです。
その当時のローマ帝国はすんごく残酷な方法で重罪人を処刑していて、当時使われていたのが、その不浄の象徴とされていた十字架だったわけです。
ユダヤ人でありながらユダヤ教を改革しようとし、
それによって迫害を受け、国家を落としいれようとした反逆者__異端者として、他の重罪人(イエスの他に二人いた)と一緒に磔にされているんです。
そして、絶命から三日後。
メシア(救世主)として復活した、という奇跡が起こります。
そこからキリスト教によって、ラテン十字架が『救済』『復活』を象徴するシンボルとして認識され始めた、という流れがあります。
だいぶはしょって書いてますけど。
そしてもっと深掘りしていくと、『十字架』というシンボルは
キリスト教発祥というわけではなく、それよりも前から、『十字』崇拝は存在している
ということです。
十字が持つ意味
たった二つの線で、十字はできています。
縦と、横。
なんで交差させたんだろう。
なんでこの形なんだろう。
そんな風に、なんとなくふと、考えたことはありますか?
宗教的な意味とは別に
縦のラインは男性を、
横のラインが女性を表し、
完璧な融合を意味しているとも言われ、
他にも
横の線は天(神)を、縦の線は大地(人間)を表しているとも言います。
二本の線が十字に交わる図形は、
・季節の循環
・生命の誕生
・永生
といった宗教的、精神的な意味を持つシンボルとして、世界的に使われていたと言います。
古代ヨーロッパにおける十字のシンボルについて
考古学者マリア・ギンブタス氏によると
「宇宙の四方位を示す四つ腕の十字は、新石器時代の農耕社会が多用した普遍的なシンボルで、それは今日の民俗芸術にまで受け継がれている。
十字のシンボリズムは、歳月は四方位を巡る旅であるという信仰に基づき、歳月の順調な転換は、宇宙の周期を存続させ、それを確実にするものである。
太古の昔から、十字あるいはそこから派生した様々なシンボルは土器などの装飾として頻繁に描かれていた。そこでの十字は、生命循環を促進させるもの、生命維持を保証するシンボルであったのだろう。
生命とは、一刻たりとも停滞すべきものではなく、自然の循環性は死によって妨げられてはいけないものである。
太古の人々にとっての生と死は、断絶ではなく、ある一つの状態から別の状態への円滑な移行であるべきであるものだった。
したがって、古代ヨーロッパでは、十字のような4分割の構図は永遠・再生および完全な形を求める生命体の原型であり、生と死を司る大女神や多産の女神、特に月の女神と結びついたものであった」
(『古ヨーロッパの神々』より抄出)
簡単にまとめると
・十字とは生命の維持・循環あるいは、永遠を表すシンボルである。
・そして生と死は個別のもではなく、表裏一体のものである。
という感じでしょうか。
日本と十字の関係
実は私たちがよく知っている文字の中にも、十字は隠れています。
それは『田』です。
漢字なのでこれは中国の考え方になりますが、四角に囲まれたこれは『大地』を表し、そして、その大地がずっと続く『永遠性』を意味しているという説があります。
あとこれですね。
『卍』まんじ、です。
まじ卍、ってやつですね、今の若い世代が言うあれです。
ちなみにこれは左卍です。
右回りはタブーとされている、有名なハーケンクロイツになります。
日本でもおなじみの卍、ですが、正十字と同種のものとしてギリシャ語のガンマを4つ組み合わせたもの
『ガンマ十字』と一緒のものになります。
ちなみに正十字とは、字の通り、縦のラインと横のラインが等しい十字のことです。
このガンマ、もしくは卍
これらもまた、昔から多用されてきた文様で、様々な意味が込められています。
・生命の永遠性
・死と再生
・始まりも終わりもない回転運動
仏教の世界では
・仏心
・輪廻思想
を表す象徴でもあります。
回転によって卍は円となり、それは始まりも終わりもない、永遠の回転を生み出す__それはまさに輪廻そのもの表す、ということなのでしょう。
十字架の転換期
さて、ここまで十字が持つ意味を紹介してきましたが、
「あれ? 始まりも終わりもないっていってるけど、そもそもキリスト教は終わりも始まりも概念として存在しているじゃないか。
それはどう説明するのか?」
って思った方もいらっしゃるのでは?
そうです。
もともと、上記で紹介したように正十字や、卍の場合、
生命の永遠性・死と再生、始まりも終わりもない回転運動や、輪廻思想を象徴していたものでした。
そしてこれらの概念は、キリスト教としては異端の考え方として否定された、という歴史があります。
もともと十字が持っている意味を、異教的だと否定されたことにより、
初期キリスト教は
神が作った始まりから、終わりである終焉、
そして最後の審判に至るまでの、
それらの時間は全て直線的であり、生と死は、別々の時空に存在するものだという考え方になったのです。
しかし、イエスの復活により、生と死の価値観がガラリと変わることになります。
個別の現象である生と死が、イエス復活という奇跡によって表裏一体のものになったのです。
それを表すのが、十字架の上から下までを貫く、縦の線なのです。
それから十字架は『救済』と『復活』のシンボルとして、弾圧から解き放たれ、国教としてキリスト教は広く浸透していき、不浄のものから、神聖なものへと変わることになります。
正十字や卍のように等しく4等分されたものが
生命の永遠性、回転を表すことで、『動く予感』というものが内包されているのに対し、
垂直の縦線が水平の横線を等しく二等分する__
それは、世界を統べる原理への希求と、ある種の絶対性の象徴は
『不動の原理』を表しているようにも見えますね。
個人的に気になっている十字架をご紹介
タウ十字
ヘブライ文字とギリシャ文字の19番目の「τ(タウ)」(アルファベットの「T」に相当する)の形を模したのだそうです。
普通の十字架の上の部分が無い形です。
一番古い形の十字架とも言われ、旧約聖書のエゼキエル9章4節に「印をつけよ」と書かれているものが、「タウ」の形をした十字架だそうです。
ケルト人の祭司である『ドルイド』が使用していたそうです。
横の線が天(神)、縦の線が大地(人間)をあらわし、両者が合流する形で、「真実・言葉・光・善に向かった心」をあらわしているそう。
ドルイドの事を書くとまた長くなるので、割愛します。
聖ブリギットの十字架
聖ブリギットの十字架(聖ブリジットの方が検索でかかる)という面白い十字架が存在します。
見た目としては、折り紙の手裏剣を彷彿させます。
この聖なる十字架はアイルランド・ギルデア大聖堂にあります。
イグサの一種である灯心草(緑のものを使用する)で編まれた素朴なもので
一説によると、太陽光線を表しているのだとか。
聖ブリギットは西暦500年前後に実在した修道女(453〜523という)で、アイルランドにキリスト教をもたらした、聖パトリックに次ぐ守護聖人として、全アイルランドで敬愛されている聖女だと言われています。
春の始まりである、2月1日 聖ブリギットの日
この日は、聖ブリギットが天に召された日なのだそうです。
アイルランドでは、女神ブリギットの祭・インボルグの前の晩、緑の灯心草で編んだクロスを軒先に飾り、春分・春の到来を祝うとともに、きたるべき一年の豊饒を祈ったと言われています。
また、このクロスは邪気悪霊を祓う護府でもあるということから、日本でいうところの、節分の晩に柊を挿した鰯の頭を軒先に飾る風習と似ています。
そういう願いを込めて掲げられるこのクロスには、キリスト教にいう救済の十字架という意味はありません。
それは、キリスト教以前の十字架がもっていたイメージである
回転・循環・輪廻のイメージであり、十字架に円環を付けたケルト十字架に通じるものです。
私が十字架を描く理由と、思うこと
と、いかがだったでしょうか。
十字架とキリスト教の関係。
シンボルである十字が持っている意味を、少しは感じていただけたでしょうか?
もうかれこれ数年前のことになりますが、Home Sweet Home シリーズを真剣に考え始めた時に、
ふと、隣町の書店に置いてある、シンボル図鑑をなんとなく読んで、十字架の記述に唸った記憶があります。
『もともと十字架は、神と大地とが融合して、調和のとれた状態を意味していた』
そしてこれが、私が十字架を描く理由でもあります。
この一文に出会った時、衝撃が走りましたねえ……
神と大地に限定するわけではないですが、個人的に『調和』を意識した作品にはよく入れています。
私はそもそも、キリスト教信者ではありません。
実家に仏壇があるので仏教です。
誤解をしてほしくないのは、フォロワーさんに宗教を勧めるために描いているわけではないことです。
私はあくまでも、西洋や東洋絵画の巨匠に習って、絵を読み解く時の鍵やヒントとして、シンボルである何かを描いているにすぎないんです。
それをちょっとでも知ってほしくて、今回、このような真面目な話を書いたわけです。
キリスト教のイメージが強すぎて、
『宗教』
という大きな括りのものが、なんだか少し怖いと感じる日本人は、多いことでしょう。
それは、その宗教の内容を知らない、そして宗教を背景とした、日本人の知らない文化が存在する__そういった要因からくる、無知からの恐怖だと、私は思っています。
確かに、宗教を悪用し、人を陥れよう、非道徳的なことにつながることもありますが、解釈の仕方を誤った結果によるものなのではないかと思います。
それは何も宗教に限らず、文学作品や、音楽といった分野でも、起こってしまうものでもあります。
中身を開けてみると、案外、面白い話がゴロゴロ転がっているのが、神話や、古典や、教典だったりします。
なんて言ったって、今、私たちが知っている物語の『元祖』でもあるので。
日本人にとっての宗教の立ち位置は、ギリシャ神話で登場する『パンドラの箱』のようなものです。
パンドラの好奇心により、開けてはならない箱を開け、世に解き放たれてしまった苦しみ、悲しみは数多くあるけれども、その箱の底には『希望』が残った__とあるように、恐怖を超えた先には、何か、まだ見たことのない希望が、あるかもしれません。
今、日本人に足りないものは何かって考えた時、
「宗教や、古典的な教養が、あまりにも少なすぎるからなのかなあ」
と思ってしまったんです。
だから海外で起きているニュースに対して、一歩踏み込んだ見方や、自分なりの意見ができないことも、
自国の成り立ちや、海外の文化を知らなすぎるから故のことなのかなと、私は身を持って感じたんです。
まあ、大戦後、そういう風に方針が決められて、教育されてきてしまったっていう、日本には悲しい歴史背景があるのも事実なんですけども。
だから、少しづつでも学んで、多方面をまた多角的に見れるようになりたいなという目標と、それをどういう風に学んで、発信できるかは、また別の話なんですけど。
最近の悩みは、そんなことです。
長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださった目の前のあなたに感謝を!
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