【ふなログ667】富士登山という非日常が、人生の全てを連結させていく
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先週末に親子での富士登山を終え、
日常の生活と業務に戻りました。
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登山の翌日は夢心地・・というか、
「今度登る時はどうしようか?」
といった妄想が膨らんだものの、
意図的に予定を入れていた業務に戻り、
スイッチが一気に切り替わりました。
色々な考え方はあるかと思いますが、
日常業務に没頭しているかどうか関係なく、
「日常業務以外にも没頭できることを用意しておく」
というのは、
生きる上で重要だと私は思います。
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例えば、「富士登山」については
私にとっての人生の一部であって楽しみの一つであるため、
余程生活に困窮しない限り、
必ずオプション(選択肢)として
用意したい要素だと確信に至りました。
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それを経るからこそ
日常業務の有り難さ、家族や友人とのつながり、
家事の有り難さを一層実感することになり、
「全てが人生の構成要素」
として一気に繋がる感覚となります。
つまるところ私にとっては、
「富士登山」が
日常業務やプライベートを一体化させるための
一種の「架け橋」であり
「橋渡し役」という位置付けになっています。
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富士登山は非日常的な行為ではあり、
山頂までの登山は7、8月の限定になりますが、
登山できる時に登っておきたいし、
それ以外のシーズンも楽しみ方を見出したいところです。
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私にとっての富士登山は、適切な難易度でありながらも
立てた目標に対して
・制限時間内での計画
・限られた金額の範囲内での計画
・限られた体力の範囲内での計画
といった計画を立ててチャレンジする
「人生の縮図」的な活動になります。
時には、厳しい自然を目の当たりにして、
理想に対する現実を知って決断することもあります。
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これが人によっては、
マラソンだったり色々な球技などのスポーツだったり、
または、ゲームだったり(最近はマイクラに危うく浸かりそうになり)
旅行だったり別の趣味になるわけです。
日常生活と関係ない活動であっても、
抽象化して捉えてみれば、
共通する要素を見出すことができます。
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人は同じことをただ繰り返しいると、
つい「飽き」や「倦怠感」を感じてしまうような
贅沢な性質を持っていると思います。
そんな時には
「非日常的な活動に身を置く」ことにより、
日常生活を別の角度から俯瞰して捉えることができ、
改めて活力やエネルギーが湧いてくることを
狙ってみることをお勧めいたします。
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私の場合、
「富士登山」で体力と精神力の状態を定点観測し、
チャレンジする気持ちを
ブラッシュアップしていく感覚を味わいます。
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去年もそうでしたが今現在、
「富士登山でこんなにチャレンジできるのに比べて、日常業務もチャレンジが足りないじゃないか!」
と振り返っています。
しばらく痛みを感じて放置していた案件たち。
富士登山に比べて
試行回数が明らかに少ないではないか?
ちょっとやそっと上手くいかない、
精神的に参ってしまった事としても、
自然の厳しさに比べれば大したことはないのではないか?
感情に刺さるような比較対象があると、
健全に向き合って立ち向かうことができます。
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目標を掲げる、
あるいはワガママであろうとすることで、
それと矛盾する「現実」に必ず直面することになります。
しかし、
その「現実」に直面することで、
「有り難い教訓」が導き出されます。
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「現実」を知ることで
厳然とした「原理原則」を知ることになる。
そこで「これが現実だから仕方がない」と諦めるのか?
それとも
「その現実を前提として、理想を叶えることができるとしたら、どうするのか?」
を繰り返し問い直続けながら、チャレンジするのか?
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ここに、
人が選択していく
「エネルギーの分岐点」があると感じます。
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「富士登山終わった」
でロスになっている場合ではなく、
その教訓と高揚感を即座に横展開。
日常生活と業務に布石を放っていきます。
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それでは、
今日も素敵な1日をお過ごしください。